7 もう考えなくていい
「それに」と姉様は続けた。「本当に大事に思っている婚約者なら、何度も同じ目に遭わせた時点で、もう少し必死に埋めようとするものよ。今日のリチャード様には、それが見えなかったわ」
私は目を伏せた。
見えなかった。
その一言が、ひどく胸にしみた。
なぜなら、私自身うっすら感じていたことを、姉様がきっぱり言ってくれたからだ。
リチャードは私を失望させていることには気づいていても、それを本気で取り返さなければならないほど大きなことだとは、思っていなかった。
「応接間での話を聞く限りだが」
ハロルド兄様が口を開く。
「あいつは、自分が“事情を説明すれば済む側”にいると思っていたな」
私は顔を上げた。
その言い方が、あまりにも正確だったからだ。
「はい……そうだと思います」
「しかも、お前なら分かってくれる、と」
「ええ」
答えた途端、情けなさがこみあげそうになった。
分かってくれる。聞き分けがいい。落ち着いている。そういう言葉で、どれだけ都合よくこちらを扱ってきたのだろう。
お母様が私を見つめる。
「イブリン。ひとつだけ聞くわ。あなたはこの婚約を、まだ続けたい?」
部屋の空気が、ぴたりと止まった気がした。
私はすぐには答えられなかった。
考えるふりをして時間を稼いだのではない。ただ、その問いを正面から向けられるのが初めてだったから、胸の内のものが一気に動いたのだ。
私は続けたいのだろうか?
家同士のこと。体面。これから先の話。そんなものが頭をかすめたあとで、それでも最後に残ったのは、今日の応接間でのリチャードの顔だった。
困ったような顔。責められているのが不本意そうな顔。
そして、私に向かって、冷たいだの大げさだのと言った口元。
あれを思い出した瞬間、心が静かになった。
「……いいえ」
自分でも驚くほど、はっきり出た。
「もう、続けたくありません」
言ってしまえば、あとは不思議なくらい揺れなかった。
「これから先も何かあるたびに、私は“分かってくれる側”に置かれるのだと思います。いまは従妹のことですけれど、たぶん他のことでも同じです。家の用事でも、身内の都合でも、何でも、私が我慢すれば済む話にされるのではないかと……そう思ってしまいました」
お父様が静かに目を閉じた。
「それで十分だ」
それだけで、私は肩の力が抜けた。
責められないことが、こんなにありがたいとは思わなかった。
「お相手の家には、こちらから話を通す」
お父様の声は落ち着いていた。けれどその落ち着きの奥に、はっきりした決意があった。
「婚約は、家同士の約束だ。だからこそ、こちらの娘が繰り返し軽んじられてよい理由にはならん」
ハロルド兄様が頷き、ジョン兄様も珍しく真面目な顔で言った。
「ようやく言ってくれたよ、ほんと」
「ごめんなさい」
思わず口をついて出ると、ジョン兄様が目を丸くした。
「何でお前が謝るの」
「だって、私がもっと早く言っていれば」
「言えなかったんでしょう」
キャサリン姉様が、少しだけ呆れたように笑う。
「それだけ我慢していたってことじゃない。そこを責める家族がどこにいるのよ」
私は唇を結んだ。
泣くつもりはなかった。けれど、胸の奥がじんわりと熱を持つ。苦しいのではなく、長く固まっていたものがゆるんでいく時の熱に近かった。
お母様がそっと言う。
「今夜はもう何も考えなくていいわ。よく話してくれました」
その声を聞いた途端、私はようやく本当に息をつけた気がした。
ずっと、自分で始末をつけなければと思っていた。黙って整えて、顔に出さず、穏やかに済ませるのがいちばんだと。けれど、それは私ひとりが静かに傷ついていくやり方だったのだろう。
暖炉の火が、ぱちりと小さく鳴った。
その音を聞きながら、私は膝の上に置いた手をそっとほどいた。さっきまで自分でも気づかないうちに、強く握っていたらしい。
「ありがとう、ございます」
それだけ言うのが精一杯だった。
でも、その一言で十分だった気もした。
今日はもう、背伸びをしなくていいのだと思えたから。
居間を出る時、窓の外はすっかり夜の色に変わっていた。
昼の約束はだめになったのに、今日という一日は、思っていたよりずっと別の形で動いてしまった。
けれどそれは、悪い変わり方ではないのかもしれない。
そう思った時、胸の奥に長く澱んでいたものが、ほんの少しだけ薄くなった気がした。




