55 それだけで十分
グランヴィル夫妻が帰ったあと、応接間にはしばらく静けさが残った。
ジョン兄様はさすがにそこへは入っていなかったが、扉の外で落ち着かない足音をさせていたらしい。
後で姉様が、
「あなた、子どもじゃないんだから」
と呆れていた。
私は、ようやく椅子へ座りなおして、息をついた。キャサリン姉様が隣で、私の手を軽く握る。
「おしまいね」
「ええ」
そう答えた時、涙は出なかった。
ただ、長く身体のどこかへ引っかかっていた棘が、やっと抜けたあとのみたいな、鈍い軽さがあった。
婚約解消は決まった。
でも、全部がこれで片づくわけではないのだろう。あの家の中には、まだ何か、よくないものが残っている気がした。
それでも、少なくとも私は、もうその中へ戻らなくていい。
それだけで十分だと、今は思えた。
◇
グランヴィル家の馬車が門を出ていったあとも、しばらくのあいだ、応接間では誰も動かなかった。
まるで、誰かが「終わりました」とはっきり言うまで、身体のほうが先に信じるのをためらっているみたいに。
窓の外では、薄曇りの空の下で庭木が静かに揺れている。
客人用の茶器はまだ卓の上に残っていて、さっきまで人が座っていた椅子の位置も、そのまま。
何もかも見た目には変わらないのに、部屋の空気だけが、ほんの少し前までとはまるで違っていた。
最初に息をついたのは、お母様だった。
長く吐かれたその息に、ようやく部屋の中の時間が動き出す。
「……終わったわね」
その声は小さかったけれど、私には何よりはっきり聞こえた。
「ああ」
お父様が短く答えられる。それだけで、胸の奥にあったものがまたひとつ、ほどけるのを感じた。
私はまだ椅子に座ったままだった。
立ち上がろうと思えば立てるのに、しばらくはそのまま動けなかった。
疲れたのだと思う。泣いたわけでもないし、取り乱したわけでもないのに、身体の内側だけがじんわり重かった。
「イブリン」
キャサリン姉様が、そっと私の名を呼ばれる。
私は顔を上げた。姉様はすぐ隣にいて、いつもの落ち着いた顔をしていらしたけれど、目元だけが少しやわらかかった。
「大丈夫?」
「……はい」
そう答えたら、自分でも少し笑ってしまった。
「たぶん」
それを聞いて、姉様も少しだけ笑われる。
「たぶん、で十分よ」
その時、扉の外で、いかにも我慢の限界といった感じの気配がして――次の瞬間、ジョン兄様が顔だけをのぞかせた。
「入っていい?」
その聞き方があまりにもジョン兄様らしくて、お母様が思わず眉を上げられる。
「今さら聞くの?」
「いや、一応」
「一応ね」
キャサリン姉様が小さく言うと、ジョン兄様はそれには答えず、さっさと中へ入ってきた。
その後ろから、少し遅れてハロルド兄様も姿を見せる。こちらは最初から、騒がず様子を見ていたのだろう。
「で?」
ジョン兄様が、ぐっと身を乗り出した。
「決まった?」
お父様がそちらを見る。
「決まった」
その一言で、ジョン兄様の顔がぱっと明るくなった。
「よし!」
「あなたはもう少し声を抑えなさい」
お母様にたしなめられ、「うん、でもよかったじゃない」と素直に引き下がるあたりがジョン兄様だ。
ハロルド兄様は、ジョン兄様みたいに分かりやすくは喜ばなかった。
でも、部屋へ入ってきて私の顔を見たあと、ほんの少しだけ肩の力を抜いたのが分かった。
「お疲れ」
その短い言葉が嬉しい。
「ありがとう、ございます」
そう言うと、兄様はわずかに頷いた。
お父様は、そこでようやく椅子の背へ深くもたれられた。
今日の面談のあいだ、この人はずっと背筋を崩さなかったから、その動きだけでこちらまで少し気がゆるむ。
「ひとまず、これでひと区切りだ」
「ひとまず、ですのね」
私がそう言うと、お父様は口元をわずかに動かされた。
「そうだ。細かな調整はまだある。だが、肝心なところは終わった」
その言葉に、私は静かに頷く。肝心なところ。
たしかにそうだ。あとは社交の場での扱いだとか、形式上のやりとりだとか、そういうものが残るのだろう。
けれど、婚約は完全に解消。その一点はもう動かない。
お母様が立ち上がられた。
「それなら、今はちょっと落ち着いてお茶にしましょう」
「賛成」
ジョン兄様がすぐに言う。
「おまえは何でも早いな」
ハロルド兄様が呆れたように言ったけれど、その声も今日は少しやわらいでいた。
結局、応接間ではなく、家族だけの小さな居間へ移ることになった。
そちらへ入ると、さっきまでの張りつめた空気が、ようやく少し緩む。
使用人が手早くお茶を整え、祝い事に使う様な上等な菓子を出してくれた。
たぶん、お母様が目で合図されたのだろう。
「こういう時くらい、いいでしょう」
と言われて、誰も反対しなかった。確かに祝い事かもしれない。
私はソファに腰を下ろして、ようやくちゃんと息をついた。
膝の上へ置いた手が、自分で思っていたより冷えていた。そこへ、キャサリン姉様がそっと温かいカップを持たせてくださった。
「はい」
「ありがとうございます」
「今日はちゃんと甘いものも」
そう言われて、小さな菓子皿を見る。
ふだんなら何でもない焼き菓子なのに、今日はそれだけで少し胸がゆるんだ。
ジョン兄様は早くも二つ目に手を伸ばしかけて、姉様に「まだ一つ目を食べ終えていないでしょう」と止められている。
「なんで見てるの」
「見れば分かるもの」
「姉上は細かい」
「細かくないわ。あなたが分かりやすすぎるの」
そんなやりとりがおかしくて、私はつい笑ってしまった。すると、お母様がほっとしたように私を見られる。
「よかった」
「何が、でございましょう」
「あなたが笑ったことよ」
その言い方に、少しだけ胸が熱くなった。
そうだ。ずっと、家族はそこを見ていてくれたのだ。私が無理をしていないか、黙って飲み込みすぎていないか、笑えているかどうかまで。
ハロルド兄様が、紅茶には手をつけずに言う。
「イブリン」
「はい」
「今日のことが終わったからといって、すぐに全部忘れようとしなくていい」
私は兄様を見た。
「ほっとしてもいいし、腹を立ててもいいし、あとからどっと疲れるのもいい。まあ、そんなものだ」
その言葉は、いかにもハロルド兄様らしかった。慰めるようでいて、変に甘やかさない。
でも、だからこそ、受け取りやすい。
「ええ」
私は頷いた。
「たぶん、今日は少し疲れが出ると思います」
「そりゃそうだよ」
ジョン兄様がすぐに口を挟む。
「むしろ今までよくもったよね」
「ええ、本当に」
キャサリン姉様が、しみじみと言われる。
「わたくしだったら、もっと早く爆発していたわ」
「前にも同じこと言ってたよね」
「たぶん本当だもの」
その言い方に、また少し笑いがこぼれた。
お父様は、そんな私たちを見ながら、ようやく本当に表情をゆるめられた。
今日初めて見たかもしれない、というくらい静かな顔だった。
「まあ」
そう言って、カップを持ち上げる。
「今日はそれでいい」
その“それでいい”が、今の私にはひどくしみた。
ちゃんと終わった。
笑っていてもいい。ほっとしてもいい。
そう許されたみたいだった。
窓の外は、いつの間にか夕方の光へ変わり始めていた。庭の端が少し金色になって、木の影が長く伸びている。
私はその光を見ながら、思った。
婚約は終わった。長く引っかかっていたものが、ようやく外れた。
でも、それで私の中が空っぽになったわけではなかった。
私にはちゃんと、頼りになる家族がいるのだ。




