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病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?  作者: さんけい


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55/66

55 それだけで十分

 グランヴィル夫妻が帰ったあと、応接間にはしばらく静けさが残った。

 ジョン兄様はさすがにそこへは入っていなかったが、扉の外で落ち着かない足音をさせていたらしい。

 後で姉様が、


「あなた、子どもじゃないんだから」


 と呆れていた。

 私は、ようやく椅子へ座りなおして、息をついた。キャサリン姉様が隣で、私の手を軽く握る。


「おしまいね」

「ええ」


 そう答えた時、涙は出なかった。

 ただ、長く身体のどこかへ引っかかっていた棘が、やっと抜けたあとのみたいな、鈍い軽さがあった。

 婚約解消は決まった。

 でも、全部がこれで片づくわけではないのだろう。あの家の中には、まだ何か、よくないものが残っている気がした。

 それでも、少なくとも私は、もうその中へ戻らなくていい。

 それだけで十分だと、今は思えた。


 ◇


 グランヴィル家の馬車が門を出ていったあとも、しばらくのあいだ、応接間では誰も動かなかった。

 まるで、誰かが「終わりました」とはっきり言うまで、身体のほうが先に信じるのをためらっているみたいに。

 窓の外では、薄曇りの空の下で庭木が静かに揺れている。

 客人用の茶器はまだ卓の上に残っていて、さっきまで人が座っていた椅子の位置も、そのまま。

 何もかも見た目には変わらないのに、部屋の空気だけが、ほんの少し前までとはまるで違っていた。

 最初に息をついたのは、お母様だった。

 長く吐かれたその息に、ようやく部屋の中の時間が動き出す。


「……終わったわね」


 その声は小さかったけれど、私には何よりはっきり聞こえた。


「ああ」


 お父様が短く答えられる。それだけで、胸の奥にあったものがまたひとつ、ほどけるのを感じた。

 私はまだ椅子に座ったままだった。

 立ち上がろうと思えば立てるのに、しばらくはそのまま動けなかった。

 疲れたのだと思う。泣いたわけでもないし、取り乱したわけでもないのに、身体の内側だけがじんわり重かった。


「イブリン」


 キャサリン姉様が、そっと私の名を呼ばれる。

 私は顔を上げた。姉様はすぐ隣にいて、いつもの落ち着いた顔をしていらしたけれど、目元だけが少しやわらかかった。


「大丈夫?」

「……はい」


 そう答えたら、自分でも少し笑ってしまった。


「たぶん」


 それを聞いて、姉様も少しだけ笑われる。


「たぶん、で十分よ」


 その時、扉の外で、いかにも我慢の限界といった感じの気配がして――次の瞬間、ジョン兄様が顔だけをのぞかせた。


「入っていい?」


 その聞き方があまりにもジョン兄様らしくて、お母様が思わず眉を上げられる。


「今さら聞くの?」

「いや、一応」

「一応ね」


 キャサリン姉様が小さく言うと、ジョン兄様はそれには答えず、さっさと中へ入ってきた。

 その後ろから、少し遅れてハロルド兄様も姿を見せる。こちらは最初から、騒がず様子を見ていたのだろう。


「で?」


 ジョン兄様が、ぐっと身を乗り出した。


「決まった?」


 お父様がそちらを見る。


「決まった」


 その一言で、ジョン兄様の顔がぱっと明るくなった。


「よし!」

「あなたはもう少し声を抑えなさい」


 お母様にたしなめられ、「うん、でもよかったじゃない」と素直に引き下がるあたりがジョン兄様だ。

 ハロルド兄様は、ジョン兄様みたいに分かりやすくは喜ばなかった。

 でも、部屋へ入ってきて私の顔を見たあと、ほんの少しだけ肩の力を抜いたのが分かった。


「お疲れ」


 その短い言葉が嬉しい。


「ありがとう、ございます」


 そう言うと、兄様はわずかに頷いた。

 お父様は、そこでようやく椅子の背へ深くもたれられた。

 今日の面談のあいだ、この人はずっと背筋を崩さなかったから、その動きだけでこちらまで少し気がゆるむ。


「ひとまず、これでひと区切りだ」

「ひとまず、ですのね」


 私がそう言うと、お父様は口元をわずかに動かされた。


「そうだ。細かな調整はまだある。だが、肝心なところは終わった」


 その言葉に、私は静かに頷く。肝心なところ。

 たしかにそうだ。あとは社交の場での扱いだとか、形式上のやりとりだとか、そういうものが残るのだろう。

 けれど、婚約は完全に解消。その一点はもう動かない。

 お母様が立ち上がられた。


「それなら、今はちょっと落ち着いてお茶にしましょう」

「賛成」


 ジョン兄様がすぐに言う。


「おまえは何でも早いな」


 ハロルド兄様が呆れたように言ったけれど、その声も今日は少しやわらいでいた。

 結局、応接間ではなく、家族だけの小さな居間へ移ることになった。

 そちらへ入ると、さっきまでの張りつめた空気が、ようやく少し緩む。

 使用人が手早くお茶を整え、祝い事に使う様な上等な菓子を出してくれた。

 たぶん、お母様が目で合図されたのだろう。


「こういう時くらい、いいでしょう」


 と言われて、誰も反対しなかった。確かに祝い事かもしれない。

 私はソファに腰を下ろして、ようやくちゃんと息をついた。

 膝の上へ置いた手が、自分で思っていたより冷えていた。そこへ、キャサリン姉様がそっと温かいカップを持たせてくださった。


「はい」

「ありがとうございます」

「今日はちゃんと甘いものも」


 そう言われて、小さな菓子皿を見る。

 ふだんなら何でもない焼き菓子なのに、今日はそれだけで少し胸がゆるんだ。

 ジョン兄様は早くも二つ目に手を伸ばしかけて、姉様に「まだ一つ目を食べ終えていないでしょう」と止められている。


「なんで見てるの」

「見れば分かるもの」

「姉上は細かい」

「細かくないわ。あなたが分かりやすすぎるの」


 そんなやりとりがおかしくて、私はつい笑ってしまった。すると、お母様がほっとしたように私を見られる。


「よかった」

「何が、でございましょう」

「あなたが笑ったことよ」


 その言い方に、少しだけ胸が熱くなった。

 そうだ。ずっと、家族はそこを見ていてくれたのだ。私が無理をしていないか、黙って飲み込みすぎていないか、笑えているかどうかまで。

 ハロルド兄様が、紅茶には手をつけずに言う。


「イブリン」

「はい」

「今日のことが終わったからといって、すぐに全部忘れようとしなくていい」


 私は兄様を見た。


「ほっとしてもいいし、腹を立ててもいいし、あとからどっと疲れるのもいい。まあ、そんなものだ」


 その言葉は、いかにもハロルド兄様らしかった。慰めるようでいて、変に甘やかさない。

 でも、だからこそ、受け取りやすい。


「ええ」


 私は頷いた。


「たぶん、今日は少し疲れが出ると思います」

「そりゃそうだよ」


 ジョン兄様がすぐに口を挟む。


「むしろ今までよくもったよね」

「ええ、本当に」


 キャサリン姉様が、しみじみと言われる。


「わたくしだったら、もっと早く爆発していたわ」

「前にも同じこと言ってたよね」

「たぶん本当だもの」


 その言い方に、また少し笑いがこぼれた。

 お父様は、そんな私たちを見ながら、ようやく本当に表情をゆるめられた。

 今日初めて見たかもしれない、というくらい静かな顔だった。


「まあ」


 そう言って、カップを持ち上げる。


「今日はそれでいい」


 その“それでいい”が、今の私にはひどくしみた。

 ちゃんと終わった。

 笑っていてもいい。ほっとしてもいい。

 そう許されたみたいだった。

 窓の外は、いつの間にか夕方の光へ変わり始めていた。庭の端が少し金色になって、木の影が長く伸びている。

 私はその光を見ながら、思った。

 婚約は終わった。長く引っかかっていたものが、ようやく外れた。

 でも、それで私の中が空っぽになったわけではなかった。

 私にはちゃんと、頼りになる家族がいるのだ。

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