54 グランヴィル家との面談
グランヴィル家との面談の日、私は最初から応接間へは入らなかった。
それは前もって決められていたことだ。
まずは家同士の話として受ける。
必要があれば、あとで私の意思だけを確認する。そういう段取りになっていた。
それでよかったと思う。
あの人たちの前で、最初から座っていなければならないのだとしたら、それだけでひどく疲れてしまっただろうから。
私はキャサリン姉様と一緒に、二階の居間にいた。
窓の外は薄曇りで、庭の緑だけが少し鮮やかに見える。お茶の道具は出ていたけれど、どちらもあまり手をつけていなかった。
「緊張する?」
姉様に聞かれて、私は少し考えた。
「……いたしますわ」
「そう」
「でも、不思議と、怖いというより待っている感じですの」
そう言うと、キャサリン姉様は静かに頷かれた。
「分かるわ。もう決める段まで来ているものね」
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
決める段。たしかにそうなのだ。迷うためではなく、ひっくり返されるためでもなく、決まるための場なのだと思えば、少しだけ息がしやすくなる。
◇
その頃、階下の大きな応接間では、すでに面談が始まっていた。
詳しくは後で聞いた話だが――
アシュフォード家からは、お父様とお母様、それにハロルド兄様。
グランヴィル家からは、エドマンド・グランヴィル卿とヘレン夫人。
リチャードもエミリーも同席はさせない――そこは最初から、こちらが譲らなかった。
応接間へ通されたエドマンド卿は、入ってきた時点で少し硬かった。
家格のある男らしく、礼は崩さない。衣服にも乱れはない。だが、その整い方の奥にあるものは、余裕ではなかった。今日ここで何とか戻せるとは、さすがにもう思っていない顔だった。
ヘレン夫人もまた、同じようにきちんとしていた。――が、疲れていた。
お父様はふたりを迎え、必要な礼だけを交わした。
茶が置かれ、使用人が下がり、扉が閉まる。そこでようやく、部屋の空気が本題の重さを帯びる。
最初に切り出したのは、エドマンド卿のほうだった。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
声は抑えられている。
「こちらとしても、ここまで事態がこじれたことは本意ではありません。まずは、先般の抗議の件も含め、わが家の行き届かなさをお詫び申し上げたい」
卿の言い方は丁重だった。
だが、お父様はそれを聞いても表情を変えなかった。
「そちらのお詫びは伺いました」
短く答える。
「ですが率直に申し上げます。わが家の考えは、書状でお伝えした通りです」
ひどく静かな声音だった。
それだけで、向こうの“まずは和らげる”という運びが通じないことが分かる。
エドマンド卿は一拍置き、こう続ける。
「イブリン嬢のお気持ちが固いことも、承知しております」
「でしたら話は早い」
ハロルド兄様がそう言う。若いのに、少しも急いていない声だった。
むしろ、その落ち着きが部屋に冷たく響いた。
「妹には婚約継続の意思がありません。家としても、それを覆すつもりはない」
エドマンド卿の視線が、わずかにそちらへ動く。
「ハロルド殿」
「何でしょう」
「若い者同士のことに、家が早く結論を出しすぎてしまうのは――」
「若い者同士のことでは済まなくなったから、こうして家同士で座っているのです」
ハロルド兄様は遮った。
声を荒げたわけではない。けれど、その一言で、話の置き場所がきっぱり決まった。
お母様も続かれた。
「娘はずっと我慢しておりました。約束を後へ回されても、事情があるのだろうと飲み込み続けてきたのです。それを“若い方の感情のもつれ”として扱われるつもりはありません」
ヘレン夫人は、その言葉を黙って受けていた。
以前なら、そこで場を撫でるような言葉を差し挟んだかもしれない。だが今日は違った。アシュフォード家の抗議も、本家とのやりとりも、もう彼女の中で何かを変えていたようだ。
それでも、完全に黙っているわけにはいかないとばかりに口を開く。
「……その点については、わたくしどもも甘かったのです」
夫人は静かに言った。
「リチャードが、婚約者にどれだけ負担を流しているかを、きちんと見極めておりませんでした」
その言葉に、お母様の目が少しだけ細くなる。
「見極めていなかった、だけではないでしょう」
やわらかい――が、決して相手を逃がさない声でもあった。
「見ないまま、こちらの娘が耐えるほうへ賭けていらしたのではなくて?」
夫人は、そこで初めてほんのわずかに目を伏せた。
否定できないのだろう。否定できないことが、もうこちらにも分かる。
「しかし、だからといって婚約解消が最善かどうかは、まだ――」
エドマンド卿は話を戻そうとする。
「それが、最善です」
お父様はきっぱり言う。その声には、もう一つも揺れがなかった。
「娘本人が望まぬ婚約を続ける理由はありません。加えて、こちらは今回の件で、単に若い息子殿の未熟さだけを見ているのではない」
そこで応接間の空気がまた一段、張った。
「どういう意味です」
「従妹殿の問題を、家の内側で整理できず、息子殿に半端に背負わせ、そのしわ寄せを婚約者に流す。そういう家の構えそのものを、わが家は危ういと見ています」
その言葉は、たぶんグランヴィル夫妻にとって、いちばん痛いところだろう。
若い息子の失態だけならば、まだ“教育が足りなかった”で済む。
だが家の構えと言われると、それは一代の失敗ではなく、家そのものの不具合になる。
ヘレン夫人は、そこでふと顔を上げた。その表情には、驚きより、むしろ諦めに近いものがあった。
お父様がそこまで見ていることに、もう反論する気が起きないような顔だった。
「……そのご指摘は」
ヘレン夫人はゆっくりと言う。
「否定しにくいところがございます」
エドマンド卿はわずかにそちらを見る。妻がそこで曖昧に支えに回らなかったことに、少しばかり意外そうだった。
だが夫人は、もう前みたいに都合よく整える言葉を出さなかった。
「……お前」
卿が低く言う。
「事実ですわ」
夫人の返しも低かった。
「少なくとも、いまこの場で“誤解です”とは申せません」
応接間が静まる。
その静けさの中で、勝負はほとんど決まったも同然だった。
夫妻が同じ方向を向けていない。それだけで、もう押し戻す力はかなり削がれている。
ハロルド兄様が、淡々と続ける。
「加えて、わが家はすでに抗議も入れた。妹への不用意な接触、縁者への間接的な働きかけ。そこまで行ってなお、婚約だけは残したいと望まれても困る」
エドマンド卿の口元が固くなる。
事業のことも、ここで持ち出したかったのだろう。古い家格と港筋の顔。アシュフォード家の実務と資金。まだ話しようがある、と。だがその糸口は、もう見つからない。
お父様は、それを見ていたのかもしれない。
「事業について申されるなら、なおさらです」
そう先に切った。
「家の内側を曖昧に扱う相手と、長く実務を結ぶつもりはありません」
エドマンドは、その一言で本当に黙った。
そこまで見られているなら、もう“婚約は別、事業は別”とは言えない。むしろアシュフォード家の側が、婚約の件を通して提携先としての危うさまで見切ったと知れたのだ。
しばらくして、ヘレン夫人は静かに言った。
「では、確認だけさせてください」
お父様がうなずく。
「ええ」
「イブリン嬢の意思は、最初の書状の時点から少しも変わっていないのですね」
そこを聞くのは、ある意味では礼儀だった。私本人の気持ちを、最後にきちんと確認するのは。
お父様は答えた。
「変わっておりません」
「お呼びいただいても?」
「構いません」
そうして、二階の居間へ使いが来た。
私は呼ばれて、キャサリン姉様と一緒に立ち上がった。
階段を下りるあいだ、足元が少しだけ竦んだ。
でも、逃げたいとは思わなかった。もう答えは決まっているからだ。
応接間へ入ると、全員の視線がこちらへ向いた。
リチャードはいない。エミリーもいない。そのことが、とてもありがたかった。
ヘレン夫人は立ち上がりかけて、でも結局そのまま座り直す。
彼女の目には疲れがあった。エドマンド卿は私をまっすぐ見ていたが、その目にももう説得の勢いはない。
お父様が言われる。
「イブリン。考えは変わらないね」
「はい、お父様」
私は答えた。
「変わりません」
そこで誰もすぐには何も言わなかった。
静かなのに、その沈黙はひどく重かった。
でも、嫌な重さではなかった。決まるべきものが、ようやく言葉になったあとの重さだった。
ヘレン夫人はそこで小さく息をつく。
「……分かりました」
それは、諦めの声でもあり、どこかでようやく終わりを認める声でもあった。
エドマンド卿はなお一拍遅れていたが、妻が先に受けたことで、もう否定の余地を失ったのだろう。
「では」
彼は低く言う。
「婚約解消を受けます」
その瞬間、私の胸の奥へ、長く張っていたものがすうっと落ちていった。
うれしい、というのとは少し違う。ほっとした、とも。
ただ、ようやく――、だった。
お父様はゆっくりとうなずかれる。
「承知しました」
それだけだった。
勝ち誇りもしない。余計な慰めもしない。家の長として、受け取るべき言葉だけを受け取る。
お母様が、私の背へそっと手を添えられた。
それで、やっと自分が少し強張っていたのだと気づいた。
面談はそこで終わりではなかった。
形式の話、今後のやりとり、社交界での扱い、最低限の調整はまだ残っていた。けれど、肝心のところはもう動かなかった。
婚約は終わる。それが、両家の前で決まったのだ。




