56 バーナードの帰国
(俯瞰視点)
バーナード・ウェストンが帰国したのは、空の色がまだ冬を引きずっているような午後だった。
長い旅のあとの港は、いつも現実味が薄い。石畳の湿り気も、荷を運ぶ男たちの声も、煙のにおいも、全部いっぺんに押し寄せてくるくせに、しばらくは頭のどこかが海の揺れに置き去りのままだ。
けれどバーナードには、感傷に浸っている余裕はほとんどなかった。
キャサリンからの手紙。リチャードからの手紙。
教授の「由々しき事態だ」という言葉。
その全部を抱えたまま帰ってきたのだから、まず向かう場所は決まっていた。
アシュフォード家へ直行する前に、彼は一度、もともと籍を置いていた病院へ寄った。
ロンドンの外れにある、煉瓦造りの大きな病院だった。
学生の頃から出入りしていた場所で、留学に出る前は助手のような立場で働いてもいた。
門をくぐると、見慣れた白い壁と、消毒薬と石炭の混じった匂いが、ようやく身体を陸へ戻してくれる気がした。
受付の若い事務員が顔を上げて、少し驚いたように目を見開く。
「ドクター・ウェストン?」
「ええ。少し戻りました」
「お帰りなさいませ。どなたにご用件を?」
バーナードは少しためらってから答えた。
「ドクター・アーサー・フィンチは、今日は」
「ああ、フィンチ先生なら外来棟ですわ」
そう聞いて、彼は礼を言い、足早に廊下を進んだ。
アーサー・フィンチは、バーナードと同年代の医師だった。
学生時代からの付き合いで、器用で、要領もよく、人に話をさせるのがうまい。
バーナードが考え込みすぎる癖を知っていて、それを無理に茶化さず、でも放っておきもしない相手だった。
外来棟の一番奥にある小部屋で、ちょうど患者の記録をまとめていたアーサーは、扉口に立つバーナードを見るなり、ペンを止めた。
「うわ、本当に帰ってきた」
それが第一声だった。
バーナードは思わず、少しだけ肩の力を抜いた。
「帰ってきたよ」
「急だったな。手紙では“もしかしたら少し休みを取る”くらいだったのに」
「実際、そのつもりだった」
「でも顔がそのつもりの顔じゃない」
アーサーはそう言って、椅子をひとつ足で寄せた。
「座れよ。旅の話を聞くには、君はいま向いてない」
その言い方が、いかにも彼らしかった。軽いようでいて、ちゃんと見ている。
バーナードは腰を下ろし、外套の内ポケットから封筒と手紙の束を取り出した。
アーサーの顔から、そこで冗談めいたものが消える。
「何だ、それ」
「婚約者の家から来た手紙と、別便」
「別便?」
「婚約者の妹の元婚約者から」
アーサーはそこで眉を上げた。
「それ、もう出だしから面倒くさいな」
「面倒なんだ」
バーナードは素直に認めた。そして、これまでの流れを順を追って話した。
イブリンの婚約がこじれていたこと。婚約者のリチャードが善意のつもりでイブリンを後回しにし続けたこと。
その背景に、エミリーという従妹がいたこと。彼女が相手や場面によって不調の見せ方や距離の詰め方を変えているらしいこと。
キャサリンの手紙。教授への相談。長い電報。
アーサーは途中で一度も口を挟まなかった。全部を聞き終えてから、腕を組む。
「診てない相手について断言はできない、が前提だな」
「うん」
「でも、君がこんな顔して戻ってくるくらいには、放っておけないと」
「そう」
アーサーは少しだけ考えてから、机の上の記録を閉じた。
「この手の話なら、僕だけより上を噛ませたほうがいい」
「上」
「神経関係のほう」
彼は立ち上がりながら言った。
「……いや、神経だけでもないか。君の教授が言った“型を見るべき”って、その通りだと思う。そういうのに詳しい人がいる」
バーナードは立ち上がるのが一拍遅れた。
「今から会えるか」
「会わせるために僕がいる」
そう言ってアーサーは、さっさと廊下へ出る。
ついていきながら、バーナードは少しだけ安堵していた。
自分ひとりで考えていると、どうしても“これは大げさではないか”という声が頭のどこかに残る。
けれど、アーサーがこうして迷わず別の扉を叩こうとするだけで、少なくとも見立てが独りよがりではないのだと分かるからだ。
◇
通されたのは、本館の二階にある診察室だった。
部屋の主は、四十代の半ばほどに見える医師だった。名をドクター・ジュリアン・メレディスという。
神経の症状と、いわゆる気質や振る舞いの偏りが身体へどう出るか、そのあたりに詳しい人として病院内で知られていた。
患者に対して甘い人ではないが、話を切り捨てるのも早すぎない、そんな顔をしている。
「急にすみません、先生」
アーサーが先に言った。
「でも、ウェストンの話なら、聞いていただいたほうがいいと思ったんです」
メレディスはバーナードを見た。
「留学帰りの顔ではないな」
「そのつもりでしたが」
バーナードがそう返すと、メレディスの口元がほんの少し動いた。
座りたまえ、と促されて、二人は向かいに腰を下ろす。
ここでも、バーナードは同じ話を繰り返した。
キャサリンの手紙の要点。リチャードの手紙の中身。教授の見立て。
自分がなぜ、帰国して真っ先に病院へ来たのか。
メレディスは、途中から指先を額の横に当てて聞いていた。
やがて、リチャードの手紙を読み終えると、机の上に置いた。
「厄介だな」
まず、そう言った。
「だろう?」
アーサーが横から言うと、メレディスはうなずいた。
「厄介だ。しかも、よくある種類の厄介さだ」
バーナードはそこで、思わず身を乗り出した。
「よくある、ですか」
「珍しいという意味ではない。だが、《《扱いを誤る》》家は多いという意味だ」
メレディスは落ち着いた声で続けた。
「病弱だ、繊細だ、気分の波がある。そういう説明は全部、部分としては本当なのかもしれん。だが問題は、その不調がどこで強く出るかだ。相手を引きとめたい時、注意を戻したい時、関係の場へ割って入りたい時にだけ前へ出るなら、もはや症状の有無だけを見ていては足りん」
教授に言われたことと同じ内容が、別の言葉で表現される。
「では」
「診ていない相手に病名はつけない」
メレディスは先にそう切った。
「だが、家族に助言するなら、“本人の弱さ”より先に“周囲がどう巻き込まれるか”を見ろと言う」
アーサーが横で言う。
「善意の人が一番食われるやつ……」
「そうだ」
メレディスは短く答えた。
「しかも、外から見ると大ごとに見えにくい。泣き叫ぶわけでもなく、倒れ伏すわけでもない。ほんの少し具合が悪そうにし、ほんの少し寂しそうにし、ほんの少しだけ相手の良心へ手をかける。その“ほんの少し”が続くと、人間関係は確実に摩耗する」
バーナードは、机の上の手紙へ目を落とした。
まさしく、それだと思った。
イブリンが消耗し、キャサリンが電報だけで嫌な予感を持ち、ハロルドが友人の昔話を思い出した理由。
全部、そこにつながる。
「で?」
アーサーが、メレディスへ向き直る。
「ウェストンはこのあと婚約者の家へ行く気だ。僕は行かせたほうがいいと思う」
「それはそうだろう」
メレディスはバーナードを見る。
「君は何をしに行くつもりだ」
バーナードは少し考えてから答えた。
「慰めに行くつもりはありません」
「いい答えだ」
「ただ、家として見立てを固めるのに、外からの言葉が要ると思っています。私個人の心配ではなく、こういう型の危うさを、きちんと説明できる人間の」
メレディスはそこで、少しだけ黙った。
それから、肘掛けに置いていた手を離す。
「つまり、私にそれをやれと言いたいわけか」
「……はい」
バーナードは、そこでようやく自分が少し無遠慮なことを言っていると気づいた。
普通なら、家の婚約話に病院の医師を連れていくなど、奇妙に聞こえるかもしれない。
だが、アーサーはすぐに言った。
「先生が行ってくれると、たぶん全然違います」
「君は人の予定を勝手に決めるな」
「でも、行ったほうがいい案件でしょう?」
メレディスはそこで小さく息をついた。呆れたようでもあり、半分はもう決めている人の息でもあった。
「すぐには無理だ」
そう前置きしてから、バーナードのほうを見る。
「だが、今日の夕方なら一時間取れる」
バーナードは思わず顔を上げた。
「本当に?」
「本当に、だ。もっとも私は診断しに行くのではない。家族へ一般論として説明し、見立てを誤らぬよう手伝うだけだ」
「それで十分です」
バーナードの返事は早く、アーサーが、そこでにやっとした。
「じゃあ僕も行く」
「君はなぜ当然のように数に入る」
「だって君ひとりだと、道すがらまた考え込みすぎるでしょ」
その言い方に、バーナードは少しだけ耳が熱くなった。否定できなかったからだ。
メレディスは二人を見比べて、少しだけ肩をすくめる。
「騒がしくなりそうだな」
「僕は静かなほうです」
「君は自分を知らん」
そう言ってから、彼は立ち上がった。
「ともかく、行くなら先方へすぐに使いを出しなさい。ウェストンが戻ったこと、そして私が同席してもよいか、あちらの都合を伺え」
バーナードも、ほとんど反射のように立ち上がる。
「ありがとうございます」
「礼は向こうで役に立ってからだ」
メレディスはそう言った。
「あと、君は婚約者の前で変に勇ましくなるなよ。大好きなのは分かるが」
その言葉に、アーサーが吹き出した。
バーナードは、一拍遅れて言う。
「そんな顔に見えますか」
「見える」
「見えるな」
二人に重ねて言われて、彼は返す言葉を失った。
だが、その少しばかり気の抜けるやりとりのおかげで、逆に気持ちは定まった。
もさついていてもいい。華やかでなくてもいい。
いま必要なのは、見えている危うさを、きちんとした言葉で持っていくことだ。
アシュフォード家へ向かう前に、その準備がひとつ整ったのだと、バーナードはようやく思えた。




