47 二通の手紙
(俯瞰視点)
バーナード・ウェストンは、その日の午後、寄宿先の机の上に置かれた二通の手紙を見て、足を止めた。
一通は、キャサリンの筆跡ですぐに分かる。
もう一通は、見慣れぬ男性の手だった。整ってはいるが、どこか少し急いだような筆圧がある。
差出人の名を見て、彼はわずかに眉を寄せた。
――リチャード・グランヴィル。
バーナードは、しばらくその封筒を見つめた。
キャサリンから電報が来てから、二日になる。もともとは短く返電するだけのつもりだった。
だが、文面の端にあった嫌な気配をどうしてもそのままにできず、結局は電報にしては長すぎるくらいの返しを打ってしまった。
委細は手紙で、と書いたのも、その続きを検討してから送るつもりだったからだ。
なのでキャサリンからの手紙が届くのは分かる。
だが、リチャードから直接来るのは、予想の外だった。
そもそも、婚約者の妹の婚約者だ。直接の関係はないというのに。
バーナードは外套を椅子へ掛け、まずキャサリンの手紙を開いた。
長い手紙だった。だが感情に流れてはいない。そこが彼女らしい、と彼は思う。
――妹イブリンの婚約が、もう修復の段階を過ぎていること。
――グランヴィル家の母親が、まだ丸め込めると思っていること。
――リチャードの従妹エミリーが、人によって見せる顔を変えているように見えること。
――そして、ついにはイブリンが外で偶然会ってしまい、お茶へ引きずり込まれ、最後にはリチャードの話まで持ち出されたこと。
バーナードは、そこを二度読んだ。
――立ちくらみを口実にして席を作らせる。
――菓子はきちんと選び、支払いは相手。
――場ができたところで婚約者の話題を差し込む。
彼の中で、何かがひどく嫌な音を立てた。
次に、リチャードの手紙を開く。
こちらはキャサリンのものより短い。
だが、短いぶん、かえって考えの癖がはっきり出ていた。
書き出しは丁重だった。
――唐突に手紙を差し上げる無礼を詫びること。
――バーナードがアシュフォード家と縁ある立場であることを承知の上で、それでも一度は事情を知ってもらいたいと思ったこと。
そこまでは、まだよかった。
だが、その先でバーナードは目を疑った。
リチャードは、自分が婚約者を軽んじたつもりはなかったと書いていた。
――エミリーは本当に身体が弱く、気持ちも不安定で、折々に支えが必要だったこと。
――自分はそれを見捨てられなかっただけであり、悪意があったわけではないこと。
――イブリンも本来は思慮深く優しい人だから、いまは感情が立っていても、落ち着けば分かってくれるのではないかと思うこと。
そこまで読んで、バーナードは手紙から目を離した。
――思慮深く優しい人だから、落ち着けば分かってくれる。
その一文が、あまりに露骨だった。
つまりこの男は、いまでもなお、相手が離れようとしている理由を“誤解”の側へ置いている。
事情を知らされれば、善意を理解してくれるはずだと。自分は説明する側にいるのだと。
バーナードは、もう一度紙面へ目を戻した。
最後の段には、さらにこうあった。
――私は直接アシュフォード家へ何か働きかけるべきではないと父母に言われております。ゆえに、このような手紙にすがるのも卑怯かと存じますが、どうかキャサリン嬢にも、私が決して不実な心でいたのではないことだけはお伝え願えませんでしょうか。
バーナードは、そこで手紙を畳み、目をつぶると少し考える。
つい切り損ねた髪を時々もじゃもじゃとかき回す。その癖を見て、周囲は彼をもさついた男と評することが多い。
自分でもそれは分かっている。
考え始めるまでが少し遅く、華やかな場所で気の利いた言葉がすぐに出るほうでもない。
だが、材料が揃えば、順に並べることはできた。
まず、キャサリンの手紙には、イブリンの消耗がある。
そして、リチャードの手紙には、本人の自己理解の浅さがある。
その二つを重ねると、見えてくるものはひとつだった。
――これは、単なる婚約者同士のすれ違いではない。
その日の夕方、バーナードは教授の部屋を訪ねた。
恩師は、留学生にも容赦のない人だった。診察も講義も実習も、どれもきっちり詰めてくる。くだらない頼みごとをすると、眉ひとつ動かさずに追い返される類の人だ。
「何だね、ウェストン」
眼鏡を少し持ち上げながら、教授は扉口の彼を見た。
バーナードは一礼した。
「少し、お時間をいただけますか」
「試験の泣き言なら聞かん」
「それでしたら、参りません」
そう返すと、教授の口元がわずかに動いた。
入れ、という合図だった。
机の向かいへ座ってから、バーナードは二通の手紙をそろえて置いた。
「国許から、少し厄介な報せが来まして」
「病人か」
「いえ……そうとも言いきれないのですが」
教授の眉がわずかに寄る。
「曖昧だな」
「はい。だからご相談に来ました」
バーナードは、自分なりに順序を立てて話し始めた。
――婚約者の妹の婚約がこじれていること。
――相手の家に、病弱を理由に周囲の注意を引き続ける従妹がいること。
――その人物が、相手によって不調の訴え方や距離の取り方を変えているらしいこと。
――婚約者も妹も消耗していること。
――そして、婚約相手の男が、自分では善意だと思ったまま、それを“誤解”として処理しようとしていること。
教授は腕を組んだまま聞いていたが、やがて言った。
「手紙を見せなさい」
バーナードは、まずキャサリンの手紙を差し出した。
次に、リチャードのものも。
教授は二通を順に読み、しばらく黙った。
部屋の外で、石畳を行く馬車の音が一度だけした。
そのあとで、教授は紙を机へ置いた。
「由々しき事態だな」
短い一言だった。
バーナードは背筋を少し伸ばす。
この人は大げさなことを言わない。言わない人がこう言うなら、それは本当にその程度には見ているということだ。
「医学的な病名を、いまここで当てる話ではない」
教授は言った。
「だが、行動の型としては十分に危うい。弱さを訴えて注意を集める者は珍しくない。だが、それを人間関係へ慢性的に差し込み、相手の良心で席を作らせるなら、話は別だ」
教授は、キャサリンの手紙を指先で軽く叩いた。
「こちらの娘は、善意で応じている。疲れるのは当然だ」
次に、リチャードの手紙へ目を落とす。
「そしてこちらの男は、自分のしていることをまだ“事情の説明不足”と思っている」
バーナードは、静かに頷いた。
「はい」
「厄介だな」
教授は低く言った。
「本当に浅い男ほど、自分は悪人ではないという感覚だけは強い。だから、相手が離れる理由を、最後まで自分の行いではなく“誤解”の側へ置く」
その言葉が、バーナードにはひどく腑に落ちた。
まさにその通りだ、と思った。
「それに」
教授は続ける。
「こちらの従妹も、自分が嘘をついているつもりはないのだろう。そこがまた始末が悪い。本人の中では、“具合が悪い”“心細い”“少し休みたい”は全部本当なのだろうからな」
バーナードは、指先を組み直した。
「では、どう考えるべきでしょう」
教授は即答しなかった。
代わりに、椅子の背へもたれ、バーナードを見た。
「君の婚約者は、賢い人らしいな」
「はい」
「その妹も、まだ踏みとどまっている。家もまともだ」
「はい」
「なら、まずはそのまともな家に、余計な慈悲を持たせるな」
教授の声は平たかった。
「病弱らしい、気の毒らしい、事情がありそうだ。そこへ先に引っぱられると、対応を誤る」
「はい」
「第二に、婚約相手の男を“説得すれば分かる相手”だと思うな。少なくとも今はそうではない」
バーナードは、そこで少しだけ目を伏せた。
たしかに、その通りだ。
リチャードの手紙は丁重だった。だが丁重さの中に、相手の負担への理解はまだほとんどなかった。
「第三に」
教授は、リチャードの手紙をもう一度見た。
「この男が外から回り込む可能性を見ておけ。直接は止められている。なら、自分では“穏当な手”のつもりで、別の人間を使おうとする」
バーナードは、そこで息をのんだ。
それは、自分の机の上に載っていたこの手紙そのものだった。
教授は、その反応を見て小さく頷く。
「そういうことだ。もう始まっている」
部屋が静かになった。
バーナードは、自分の胸の中にあった嫌な予感が、形を持って立ち上がるのを感じていた。
キャサリンは、たぶんもうそこまで見えている。ハロルドも同じだろう。では、自分はどうするべきか。
「先生」
「何だ」
「数日、休みをいただける可能性はありますか」
教授は、すぐには答えなかった。
ただ、バーナードの顔をしばらく見ていた。
もさついていて、華やかではなく、要領もさほどよくない。けれど、一度決めると変に粘る。
そういう学生だと、この人は分かっている。
「恋人の家の揉め事に駆けつけるのか」
少しだけ皮肉の混じる言い方だった。
バーナードは、正直に答えた。
「ええ。そのつもりです」
教授はそこで、ようやく小さく息をついた。
「まったく、若いな」
「はい」
「だが、今回は笑って済む話でもなさそうだ」
教授は机の上の二通へ、もう一度目を落とした。
「すぐには無理だ。だが、二、三日待ちなさい。講義の穴を埋める段取りをこちらで考える」
バーナードは、顔を上げた。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
教授は言った。
「その前に、返事を書くなら頭を使え。感情で騒ぐな。向こうの家にとって役立つ助言だけを寄越せ」
「はい」
「それから」
教授は少しだけ目を細めた。
「君のキャサリン嬢には、“見立てを誤るな”と、もう一度書いておきなさい」
バーナードは、その言葉に深く頷いた。
キャサリンのことは大好きだ。そこに迷いはない。
だからこそ、軽い慰めなどではなく、彼女がいま必要とする形で返さなければならないのだと思った。




