48 バーナードからの手紙
バーナード様からの手紙は、すぐには来なかった。
当たり前といえば当たり前だった。
電報のようにはいかない。海を越え、幾つもの手を渡り、ようやく届くのだ。
分かってはいたけれど、キャサリン姉様が何でもない顔で郵便皿を見ているたび、私もついそちらへ目をやってしまった。
そのあいだにも、家の中は静かに動いていた。
お父様はグランヴィル家との面談の日取りを整え、ハロルド兄様は必要な書類や過去のやりとりを揃え、ジョン兄様は露骨に首を突っ込みすぎない範囲で耳を働かせていた。
お母様と姉様は表向きいつも通りに見えたけれど、何か少しでも妙な報せがあれば、すぐに家族のあいだで共有されるようになっていた。
私はというと、前よりは落ち着いていた。
少なくとも、何か起きるたび自分ひとりで飲み込まなくては、とは思わなくなっていた。
手紙が届いたのは、そんなふうに数日が過ぎた午後だった。
◇
その時、私は居間でメアリと一緒に、買い足した綴じ紐を小箱へしまっていた。
扉が開いて執事が入ってきた時、何の前触れもなく、胸が小さく動いた。
「キャサリン様に、お手紙です」
声が少しだけ丁寧だった。
いつもの郵便とは違うと、執事も感じていたのかもしれない。
姉様は窓辺で本を閉じ、手を差し出された。
封筒は厚かった。
異国の郵便印がいくつも押されていて、角は少しだけくたびれている。それがかえって、ちゃんと海を渡ってきたのだと分かる手触りだった。
キャサリン姉様は、封を切る前に、ほんのわずかだけその封筒を見つめていた。
それから、顔を上げる。
「イブリン」
「はい」
「みんな聞いて、になりそうだわ」
その言い方に、私は思わず立ち上がっていた。
手紙は、思っていたよりずっと長かった。
まず姉様がざっと目を通され、そのうちの数行を読んだ時点で、すぐにお母様が呼ばれ、続いてハロルド兄様、ジョン兄様、お父様まで揃うことになった。
家族だけの小さな居間に、いつもより少し張った空気が満ちる。
キャサリン姉様は手紙を膝の上で整え、ひとつ息をつかれた。
「では、読みますね」
誰も口を挟まなかった。
姉様の声は、最初の一文から、少しだけやわらかかった。
「“キャサリン、ようやく手紙にできる。先の長い電報を許してほしい。あれだけは一刻でも早く伝える必要があると考えた”」
私はそこで、机の角を見つめた。
やっぱり、あの長い電報は衝動ではなかったのだ。必要だと思って、あのように打ったのだと、まずそこがはっきりした。
姉様は続きを読む。
「“君の電文を受け取った時点で、私はただ心配しただけだった。だが、その後に届いた別便が、私の見方を変えた”」
そこで一拍、置かれた。
お母様が静かに言う。
「やはり、リチャード様からのお手紙ね」
「ええ」
キャサリン姉様は頷かれた。
「“リチャード・グランヴィル氏から、私宛に直接書状が届いた。君にも先に伝えておくが、私はこれを不穏と考える。彼は丁重に書いているが、自分がいまだ“説明する側”にいると思っている。つまり、婚約者の疲弊を、なお誤解の一種として扱っている”」
ハロルド兄様の目が、すっと冷えた。
「やはり来たか」
低い声だった。
私は膝の上でそっと指を組んだ。
――やはり。
それはもう、驚きではなかった。嫌な感じが、形を持っただけだ。
キャサリン姉様は、そのまま次の段を読まれる。
「“彼は、自分に悪意はなかったこと、従妹は本当に弱いのだということ、イブリン嬢は本来思慮深い人だから、いずれ事情を理解してくれるはずだということを述べている”」
ジョン兄様が、声もなく嫌そうな顔をした。
姉様の読み上げる声だけが部屋に落ちる。
「“ここで問題なのは、彼が何を言ったかより、どの位置から言っているかだ。直接アシュフォード家へ働きかけるなと止められた結果、彼は外から回り込む手を選んだ。つまり、自分は禁じられたと認識しながら、その禁を別の形で越えることを、なお穏当な手段と考えている”」
お父様が、そこで椅子の肘掛けへ置いた指先を、ほんのわずかに動かされた。
それだけのことなのに、お怒りなのだと分かる。
「“この時点で、彼に“少し待てば理解するだろう”式の猶予を与えるべきではない。少なくとも私はそう考える”」
キャサリン姉様は、そこで顔を上げられた。
「ここまでは、ほとんど事務的な話ね」
「ああ」
お父様が短く答えられる。
「続けてちょうだい」
姉様は、もう一枚紙をめくった。
「“次に、エミリー嬢のことを書く。私は診察していない相手について病名めいたことを言う気はない。だが、君の手紙と、君の妹君が外で受けた接触の様子を読む限り、これは性格の善し悪しだけで片づけるな、とまず言いたい”」
私は、そこで小さく息を吸った。
病名めいたことを言う気はない。
でも、片づけるな、と言う。
その言い方は、あの電報と同じで、むしろ慎重だからこそ重かった。
「“弱り方が相手によって違う。注意を引きたい時だけ不調が前へ出る。断りにくい程度の不安を差し出して、席と時間を作らせる。そうした行動の型がすでに見えている。ここに本人の自覚があるかどうかは、現段階では《《重要ではない》》。重要なのは、《《周囲がその型に巻き込まれて消耗している事実》》のほうだ”」
しん、と部屋が静かになった。
私には、その一行一行が、自分の感じた嫌さへ名前をつけていくように聞こえた。
――断りにくい程度の不安。
――席と時間を作らせる。
――消耗している事実。
それはまさしく、あの日のお茶のことだった。
「“君の妹君は、善意で応じる人だろう。だからこそ、今後はそこを利用させてはならない。具合が悪いと言われても、その場で妹君が引き受ける必要はない。店の者、家人、馬車、その場にある別の手へ渡してよい。少し冷たいくらいでちょうどよい”」
キャサリン姉様は、最後の一文で少しだけ眉を動かされた。
「……少し冷たいくらいでちょうどよい、ですって」
「よく分かっていらっしゃる」
お母様が静かに言われる。
その声音には、感心と、それからわずかな安堵が混じっていた。
姉様は次を読む。
「“さらに言えば、この種の相手に対して、家の内側が対応を一本化していない場合、《《善意の者ほど外から巻き取られる》》。今回のグランヴィル家は、その失敗を犯している。従妹の問題を家で処理せず、息子へ半端に背負わせ、婚約者側へ理解を流してきた。その構図《《そのもの》》が危うい”」
お父様が、そこでようやくはっきりと言われた。
「そこだな」
低く、しかし迷いのない声だった。
「娘ひとりの感情の問題ではない。家の構えの問題だ」
ハロルド兄様も、すぐに頷く。
「ええ」
キャサリン姉様は、さらに下の段へ目を落とされる。
「“君の家が婚約解消へ動いたのは妥当だと思う。むしろ、ここまで待ったことを驚くくらいだ”」
ジョン兄様が、そこで小さく「そうだよね」と漏らした。
誰も咎めなかった。
「“最後に、これは助言というよりお願いだ。今後、リチャード氏からの間接の接触も、すべて家で受けてほしい。彼は押しかけることを“軽率”とは学んだようだが、回り込むことを“軽率”だとはまだ理解していない。善意のつもりで別口を使う男は、いちばん面倒だ”」
そこまで読んだところで、キャサリン姉様は手紙から目を上げた。
ジョン兄様が、本気で嫌そうに口を曲げる。
「うわ……そこまで見抜かれてる」
「見抜かれて当然でしょう」
お母様が言われる。
「実際に外国にまで手紙を送ったのだもの」
「でも、こうして外から書かれると、いっそう嫌だね」
ジョン兄様の言い方は軽かったが、中身は軽くなかった。
私も、まさにそう思った。
リチャードは、たぶん自分では考えたつもりだったのだ。
押しかけない。騒がない。だから丁寧な手紙で、と思ったのだろう。
でも、その時点でまだ、自分が禁じられている意味を分かっていなかった。
「続きがありますの」
キャサリン姉様が、少し表情を変えてそうおっしゃった。
今までより、ほんの少しだけ私的な顔になっている。
「“教授にも一般論として相談した。返ってきたのは、由々しき事態だ、という言葉だった”」
私は、思わず顔を上げた。
由々しき事態。
あの短い言葉が、遠い異国の書斎でも同じ重みで落ちていたのだと思うと、ぞくりとした。
「“病名を当てることではなく、《《型を見る》》べきだと言われた。私もその通りだと思う。見立てを誤るな。可哀想という気持ちだけで窓を開けるな。君の妹君に、そのことだけは繰り返し伝えてほしい”」
キャサリン姉様はそこで、紙をそっと下ろされた。
部屋には、しばらく誰も口を開かなかった。
暖炉の火が小さく鳴り、窓の外の風が、ほんの少しだけ硝子を鳴らす。そういう小さな音ばかりが、やけにはっきり聞こえる。
先に息をついたのは、お母様だった。
「よい手紙ね」
短い一言だった。
「ええ」
キャサリン姉様は、ほとんど同時に答えられる。
「少し長いけれど」
その言い方に、ほんの少しだけ空気がゆるんだ。
ジョン兄様が「電報も長かったしね」と小さく言って、でもすぐに口をつぐむ。いまはそこを茶化す場ではないと、さすがに分かっている顔だった。
ハロルド兄様は、手紙そのものより、そこから引き出された結論へ目を向けていた。
「つまり」
彼は静かに言う。
「こちらが取るべき対応は、すでに間違っていない。むしろ、さらに窓口を絞れということだな」
「ええ」
お父様が答えられる。
「そして、面談の前にそれが分かったのは大きい」
その一言で、私ははっとした。
そうだ。
もうすぐグランヴィル家との面談がある。
バーナード様のこの手紙は、ただ私たちを安心させるためではなく、その前に、どこへ気をつけるべきかをもう一度固める意味もあるのだ。
お母様が私を見る。
「イブリン」
「はい」
「あなたに向けた文も、今のうちにきちんと心に受けとめておきなさい」
私は頷いた。
「可哀想という気持ちだけで窓を開けるな」
お母様は、はっきりと繰り返される。
「ええ」
「少し冷たいくらいでちょうどよい」
「……はい」
言葉にすると、まだ少し胸がちくりとする。
でも、それは悪い痛みではなかった。自分がこれからどう立てばいいのかを、また一つ教えてもらった感じに近い。
ジョン兄様が、そこでようやく背もたれへ体を預けた。
「しかし、バーナードって思ったより怖いね」
「怖いではなく、きちんとしているのです」
キャサリン姉様が即座に言い返される。
「いや、褒めてるんだよ」
「そうは聞こえなかったわ」
そんなやりとりがあって、少しだけ空気がほどけた。
でも、そのやわらぎの中でも、手紙の重さは消えなかった。
私は、その紙を見ていた。
海の向こうから届いたインクの跡。
少し時間がかかったぶんだけ、落ち着いて書かれた言葉。
そして、そのどれもが、今の私たちの見方をさらに一段、はっきりさせていく。
――見立てを誤るな。
心の中で、その言葉を繰り返す。
怖がるためではない。可哀想と思い込みすぎるためでもない。
ちゃんと見るために、ということなのだろう。
それが、今の私にはよく分かった。




