46 若い人の間での話
ジョン兄様が戻ってきたのは、電報の話がひととおり落ち着いて、私たちがまだ小さな居間に残っていた頃だった。
扉が開くなり、兄様はいつもの調子で言いかけた。
「ただいま――って、何その顔」
そこまでで、さすがに空気を読んだらしい。上着も脱がないまま、扉のところで足を止める。
キャサリン姉様が、手元の電報を軽く持ち上げた。
「バーナードからよ」
「え、もう返ってきたの?」
ジョン兄様は、そこで本当に嫌そうな顔になった。
「うわ、嫌な予感しかしない」
「ええ、だいたい合ってるわ」
キャサリン姉様がそうおっしゃると、ジョン兄様は観念したように部屋へ入ってきた。
お母様が要点を話される。
「……ああ、うん、もうそれ、“変わった人”で済ませちゃだめなやつだね」
ハロルド兄様が小さく頷く。
「そうだな」
ジョン兄様は、それから私を見た。
「イブリン、大丈夫?」
「ええ」
と答えたけれど、たぶん顔には少し疲れが残っていたのだろう。
兄様はその返事だけでは納得しなかった。
「いや、そういう意味じゃなくてさ。今日のこともあったのに、さらにこれ聞かされるの、だいぶ嫌じゃない?」
その言い方が、ジョン兄様らしかった。心配しているのに、あまり湿っぽくしない。
でも、だからこそまっすぐ届く。
「……嫌ですわ」
私は素直にそう言った。
「でも、知らないままよりは、たぶんいいです」
「それはそう」
兄様はすぐに答えた。
「知らないまま“かわいそうな従妹”で処理するのが一番まずい」
そこで、お母様が兄様のほうを見られる。
「あなたも、何か聞いてきたのでしょう?」
「うん」
ジョン兄様は、ようやく上着を脱いで椅子へ放った。
「こっちも、ちょっと嫌なやつ」
私は思わず、膝の上で手を重ねた。
兄様は、それに気づいているのかいないのか、少しだけ声を落とした。
「今日は若い連中が集まる席があったんだけどさ。前に話した“リチャードは従妹にべったり”っていう程度の話じゃ、もうなくなってきてる」
「どういうこと」
キャサリン姉様が問われる。
「皆、あの従妹を避け始めてる」
その一言で、部屋が静かになった。
「露骨ではないよ?」
ジョン兄様はすぐに付け足した。
「でも、“あの人がいる席だと後が面倒”って認識はもう出てる。最初はちょっと話す。けど、一度妙な目に遭ったやつは二度目から近づかない」
「妙な目、とは」
ハロルド兄様が静かに尋ねる。
「いろいろだよ」
ジョン兄様は指を折るようにしながら言った。
「話してたら急に“少し具合が……”ってなって引き止められる。別の女性と話そうとすると、何となく視界に入るところへ来る。こっちが席を立つと、なぜかそのタイミングで弱る」
私は、背のあたりにまた薄い冷たさが戻るのを感じた。
タイミング。またその言葉だ。
「それで?」
お母様が促される。
「面倒なのは、そのあとなんだよね」
ジョン兄様は顔をしかめた。
「ちょっと親切にすると、次から“この人は聞いてくれる人”扱いになる。で、しばらくすると、別の相手にも同じことしてるのが見える」
私は、思わず顔を上げた。
「別の相手にも?」
「うん」
兄様は頷いた。
「そこがまた嫌なんだよ。“あの人だけに執着してる”んじゃない。あの時その時で、自分のほうを向いてくれる相手へ寄ってる感じ」
キャサリン姉様の目が、少しだけ細くなる。
「では、恋愛というより」
「自分を優先してくれる相手が欲しい、ってほうが近いかもね」
ジョン兄様は、ひどく率直に言った。
「もちろん本人はそんなふうに考えてないだろうけど。たぶん、“この人はやさしいから”くらいにしか思ってない」
その言い方が、嫌なほどしっくりきた。
優しいから。心細いから。少し具合が悪いから。
そういう理屈で近づいて、でも相手が変わっても同じことをするのなら、それはもう、こちらが思っていたものとは少し違う。
「あと、もうひとつ」
ジョン兄様は、そこで少しためらった。
「これは確かじゃないから、話半分に聞いて」
ハロルド兄様が短く言う。
「何だ」
「顔色」
兄様は自分の頬を指先で軽く示した。
「前に“やたら白い”って話をしたでしょ。あれ、本当に体質だけかなって、ちょっと思われてる」
私は、その一言で、呼吸が少し浅くなるのを感じた。
ジョン兄様は続ける。
「あるやつがね、近くで見た時、粉っぽいって言ってた。もちろん、婦人の化粧のことなんて男がどこまで分かるんだって話ではあるんだけど」
「でも、気になったのね」
お母様が静かに言われる。
「うん。自然な血の気のなさじゃなくて、ちょっと作った青白さみたいだって」
私は、帽子店の鏡越しに見たエミリーの顔を思い出していた。
店員へ何か言っている時の、あのはっきりした顔。
リチャードが振り向いた瞬間、すっと戻った弱々しさ。
あれがもし、表情だけではなく、顔そのものの作り方まで含んでいたとしたら。
「断定はしないよ」
ジョン兄様は、そこでちゃんと区切った。
「でも、“具合悪そうに見える”こと自体を、まるっと信じていい相手じゃないかもって思ってる人は、もういる」
お母様は、少しのあいだ黙っておられた。
それから、低く言われる。
「なるほどね」
その言い方には、驚きより確認があった。
ここまで来ると、もはや一つひとつが異常というより、同じ型の上に載っているように見えてくる。
「じゃあまとめると」
キャサリン姉様が指先で卓を軽く叩かれた。
「エミリー様は、相手によって距離も弱り方も変える。若い男性相手にはとくにそれが強い。しかも一人に執着というより、その時その時で“自分へ注意を向ける相手”を選んでいる」
「そういうこと」
ジョン兄様が答える。
「で、前に一度でも応じた相手は、次から避けなくちゃね」
私は、その言葉に胸の底が冷たくなるのを感じた。
一度でも応じた相手。……今日、私は応じてしまったのだ。
するとジョン兄様は、私の顔を見てすぐに言った。
「あ、でもイブリンのは別ね」
「別?」
「うん。今日はメアリがいたし、ちゃんと途中で線を引いて――」
兄様は言い直した。
「……ごめん、けじめをつけてる」
その言い換えが少しだけおかしくて、私はほんの少しだけ息をついた。
「それに、お前はもう“次はない”ってこっち全員で決めてるでしょ。向こうの若い連中みたいに、何となく一人で受け続ける形にはならない」
その言葉で、胸の中の冷えが少しだけほどけた。
「ええ」
キャサリン姉様も頷かれる。
「そこは大きいわね」
ハロルド兄様は、しばらく黙っていたが、やがて、低く言う。
「私の友人の話と、だいぶ近いな」
ジョン兄様がそちらを見る。
「やっぱり?」
「うん」
ハロルド兄様は短く答える。
「しかも、もし化粧の話まで本当なら、相手の情を引くための“見え方”まで使っていることになる」
お母様が、そこでゆっくり息をつかれる。
「そこまで来ると、もう“気分の波が大きい方”で片づけてはいけませんわね」
「ええ」
キャサリン姉様が電報へ目を落とされる。
「バーナードが急いで打ってきた理由も、少し分かる気がするわ」
私は、膝の上で重ねていた手をそっとほどいた。
怖い、というより、いまはもう気持ちが静かだった。
情報が増えるたび、気味の悪さは増す。
けれど同時に、どこに気をつけるべきかも、少しずつはっきりしてくる。
「ジョン」
お母様が兄様を見る。
「今後も、あなたの耳に入る範囲でいいわ。けれど、面白半分に深入りはなさらないで」
「しないよ」
ジョン兄様は珍しく即答した。
「今回はほんとに、面白いとかじゃないから」
その言い方に、嘘はなかった。
ハロルド兄様も、小さく頷く。
「こちらからつついて騒ぎにする必要はない。だが、向こうがまだ動くなら、こちらも見えているものは見えているままで持っておくべきだ」
「ええ」
お母様はそう返されてから、私のほうを見た。
「イブリン、もうこれで本当に十分分かったでしょう?」
「はい」
「では、あとは同じところへ乗らないこと」
私は、今度は本当にはっきり答えた。
「ええ。もう、乗りません」
その言葉が、思っていた以上にしっかり自分の中へ落ちた。
暖炉の火が、小さく鳴る。
外はもう暗くなっているのだろう。窓の向こうは黒く、部屋の灯りだけが薄く映っていた。
私はその灯りを見ながら、ひとつだけ思った。
もしかして。
まだ断定はできない。けれど、そう思わせるものが、もう一つや二つではなくなっている。
その数の増え方が、いちばんぞくぞくした。




