42 「次はありません」
屋敷へ戻るころには、空がもう少しだけ低く見えた。
買ったものは小さな紙包みが二つだけだ。綴じ紐と薄紙。
最初はそれだけのつもりで出たのに、帰り道の足取りは、出かけた時よりずっと重かった。
玄関へ入ると、ちょうど別の馬車が横づけされる音がした。
振り向くと、キャサリン姉様が降りていらっしゃるところだった。淡い灰色の外套の前を片手で押さえ、もう片方の手には封筒の入った平たい革の挟みを持っている。
どうやら、ついさっきお戻りになったばかりらしい。
姉様は私を見るなり、足を止めた。
その目が、すぐに私の顔をなぞる。手元の紙包みより先に、顔を見られたのが分かった。
「イブリン?」
私は帽子を外しかけたところで、少しだけ動きを止めた。
「お帰りなさいませ、姉様」
「ええ。ただいま。……どうしたの」
声は静かだった。
でも、その静けさの奥に、はっきりした緊張があった。
私はそこで初めて、自分が思っていた以上に顔へ出していたのかもしれないと気づいた。
「少し、外で」
と言いかけると、キャサリン姉様は手にしていた革の挟みを、そばの使用人へ渡された。
「メアリ、何があったの」
侍女へ向ける声も穏やかだったが、こちらは少しだけ早かった。
メアリは一瞬だけ私を見た。
私が頷くと、控えめに答える。
「途中で、エミリー様にお会いしまして」
姉様の顔つきが、そこで変わった。
もう一度、私の顔を見る。さっきよりずっと近いところを見ようとする目だった。
「中へ入りましょう」
それだけ言って、姉様は私の返事も待たず、自然な足取りで小さな居間のほうへ向かわれた。
私もそのあとに続く。玄関先では、どうしても人目がある。そこを避ける判断の早さが、姉様らしかった。
居間へ入るなり、姉様は手袋を脱ぎながら振り返った。
「座って」
私は素直に従った。
ようやく椅子へ腰を下ろした途端、足の力が少し抜ける。立っているあいだは、自分でも分からないうちに気を張っていたらしい。
キャサリン姉様は向かいへ座る前に、暖炉の上の時計へちらりと目をやった。
「わたくしも今しがた戻ったところなの。手紙を出して、ついでに留学先へ打つ電報も頼んできたのよ」
そうおっしゃって、ほんの少しだけ口元をゆるめられる。
「委細は手紙で、とだけ、ひとまずね。あの人、今週は講義と実習で忙しいらしいから」
私はその言い方に、少しだけ救われた。
いきなり問い詰めるのではなく、まずご自分の今日の用事を置いてくださる。そういう一呼吸があるだけで、こちらも言葉を出しやすくなる。
「姉様もお出かけだったのですね」
「ええ。でも、今はそれより、あなたよ」
そこで、姉様はもう一度まっすぐ私を見た。
「どうしたの」
同じ言葉なのに、今度はもっとやわらかかった。
私は膝の上の紙包みをそっと卓へ置いた。
それから、できるだけ順を追って話しはじめた。
綴じ紐と薄紙を買いに、近くの店へ出たこと。
メアリと二人で歩いていたこと。
通りの向こうに、エミリーをひとりで見つけたこと。
そこまで言った時点で、キャサリン姉様の眉はすでに寄っていた。
「ひとりで?」
「ええ」
「それで」
私は小さく息をついた。
「向こうに見つかってしまって」
そこから先は、言いながら自分でも嫌になった。
“まあ、イブリン様”。
“ひとりでいると、少し心細かったの”。
“少し、お茶をいたしません?”
そういう言葉を、ひとつずつ口にしていくたび、あの時の店の空気がまた戻ってくる。
キャサリン姉様は一度も口を挟まずに聞いてくださった。
ただ、私が「立ちくらみがして、とおっしゃって」と言ったあたりで、手元の手袋をきつく握りしめたのが見えた。
「それで、断りきれなくて……近くのティールームへ」
「ええ」
姉様の返事は短かった。
「お茶と、それからケーキを」
そこまで言ってから、私は少しためらった。
でも、いま隠しても仕方がないと思って、続ける。
「代金は、わたくしが払いました」
しん、と部屋が静かになった。
キャサリン姉様は、すぐには何もおっしゃらなかった。
ただ、視線の温度だけが少しずつ冷たくなっていく。
「……そう」
その一言は低かった。
「エミリー様が?」
「ええ。ご自分でかなり手際よくお選びになって」
私は、そこでようやく少し乾いた笑いが出そうになった。
「それで、お代を出そうというご様子は、少しも」
キャサリン姉様は、息を吐くかわりに、小さく首を振られた。
「まあ、見事ですこと」
口調だけは上品だった。
でも、その中身は少しも上品ではなかった。
私はその言い方に、かえって少しだけ落ち着いた。姉様が本気で腹を立てているのが分かったからだ。
「しかも」
私は続けた。
「途中で、リチャード様のお話まで」
そこで初めて、姉様がはっきりと顔をしかめられた。
「まさか」
「“少し気落ちしているみたいでしたの”と。行き違いなら、と」
私はそこまで言って、もうそれ以上は言いたくなくなった。
あの時、自分がどう返したのかは覚えている。
――エミリー様、そのお話でしたら、わたくしとエミリー様とでいたすことではございませんわ。
きちんと遮れたと思う。思うけれど、思い出すだけで疲れる。
キャサリン姉様は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに尋ねる。
「ちゃんと話は断つことができたのね」
「はい」
「その場で、向こうへつなぐ話ではないと」
「はい」
姉様はそこで、ようやく本当に息をつかれた。
「よく言えたわ」
その一言が、胸にしみた。
「でも」
私は目を伏せる。
「正直、あまりうまく息ができない感じでした。大したことを言われたわけでもないのに」
「大したこと、なのよ」
キャサリン姉様はすぐに言った。
「大声も出さず、泣きもせず、困った顔と甘えた言い方だけで、断りにくいところへ入り込んでくるのがいちばん厄介なの」
私は顔を上げた。
姉様はもう、見事なまでに怒っていらした。
声を荒らげるわけではない。
けれど、ひとつひとつの言葉がまっすぐで、少しも逃がしてくれない怒り方だった。
「しかも、代金まであなたに払わせたの?」
「……ええ」
「本当に?」
「はい」
「ひとりで歩いていて、知っている相手を見つけて、心細いからとお茶に引っ張り込んで、話したいことだけ話して、支払いは相手」
そこまで数えるように口にしてから、姉様は小さく首を振った。
「何て嫌な」
その言い方が、妙に私の気持ちにぴたりと重なった。
嫌な、だ。
怖い、とか不気味だ、とか、いろいろ感じたけれど、今日いちばん近いのは、その言葉かもしれない。
「お姉様」
「なあに」
「私、最初は、ただ嫌なだけでしたの」
言葉が少しずつ出てくる。
「でも、あの方、最後まで少しも変だと思っていないご様子で……それがまた」
「ええ」
キャサリン姉様は、静かに頷かれた。
「そこがいちばん疲れるのよね」
私は、思わずその顔を見た。
姉様は、やわらかいけれど少しだけ苦い笑い方をされた。
「悪意が見えれば腹を立てやすいでしょう。でも、本人の中ではたぶん全部筋が通っている。だから、こっちだけが妙に消耗するの」
「はい……」
「分かるわ」
その“分かる”で、胸の内のこわばりがまた少しほどけた。
ちょうどその時、扉が控えめに叩かれて、お母様が入っていらした。
「キャサリン、あなた戻っていたのね。あら」
そこまでで、お母様はすぐに察したらしい。
私と姉様の顔を見比べて、声の調子を変えられる。
「何があったの」
キャサリン姉様が、今度は私に代わって説明してくださった。
私はそのあいだ、ただ座って聞いていた。お母様の表情が、途中から少しずつ固くなるのを見ながら。
「……お茶をねだった上に、代金まで?」
お母様が低く言われる。
「ええ」
姉様が答える。
「しかも、最後にリチャード様のことまで持ち出してきたの」
お母様は、ほんの少しのあいだ目を閉じられた。
「そう」
それだけだった。
でも、その一言には十分なものが入っていた。
「では、次からはもうはっきり決めましょう」
お母様は私を見られる。
「エミリー様と外でお会いしても、お茶にも買い物にも付き合わない。立ち話だけで切り上げる。具合が悪いとおっしゃっても、店の人か、グランヴィル家の馬車を呼ぶよう勧めるだけでよろしいの」
私はその言葉を、ひとつずつ受け取った。
そうか。
付き合わなくていいのだ。
その場で自分が引き受けなくても、別の手を示せばいい。
「はい」
今度は、迷わず頷けた。
「それから」
お母様の声が、もう少しだけ冷たくなる。
「“少しならいいか”と思う相手ではないと、今日ではっきりしたわね」
私はそこで、ようやく小さく息をついた。
「……ええ」
それが、いちばん大きかったのかもしれない。
少しなら。立ち話だけなら。
お茶くらいなら。
そうやって許してしまうと、あの人はそこへするりと入ってくる。
そして、こちらが席を立ちにくいところまで来てから、本題ではない顔をして本題を持ち出す。
「もう次はありませんわ」
気づけば、私はそう言っていた。
お母様もキャサリン姉様も、同時に私を見た。
「ええ」
お母様が言われる。
「次はありません」
その言葉が、今日はひどく頼もしく聞こえた。




