41 お茶をねだってくる人
その翌日、私は珍しく自分から「少しだけ外へ出てもよろしいでしょうか」とお母様にお願いした。
大した用ではなかった。
手元で使っていた細い綴じ紐が切れてしまって、ちょうど同じ色のものがなくなっていたのだ。
ついでに、封筒用の薄い紙も少し買い足したかった。
どちらも急を要するほどではない。けれど、家にこもってばかりいるのも気が滅入るし、近場で済むなら、それくらいはかえって気楽かもしれないと思った。
お母様は少し考えてから、あっさり頷かれた。
「近くまでなら構わないわ。メアリをお連れなさい」
「ありがとうございます」
そうして私は、侍女のメアリと一緒に、馬車ではなく徒歩で行ける範囲の店へ出た。
空は薄く曇っていたけれど、風は穏やかだった。
大通りまで出る必要もない、小さな文具店と服飾小物を扱う店が並ぶ通りで、顔なじみの店主もいる。
少し前なら、こういう用事は何でもなく済んだはずだった。いまはまだ、外へ出るだけでどこか身構えてしまうけれど。
文具店で薄紙を選び、隣の店で綴じ紐を見る。
ほんのそれだけのことなのに、ひとつ用を足すたび、気持ちが少しずつ落ち着いていくのが自分でも分かった。
「これでよろしゅうございますか」
メアリが、包んでもらった小さな紙包みを見ながら尋ねる。
「ええ。あとは――」
と、そこまで言いかけて、私は通りの向こうを見た。
店先にひとりで立っている女性がいた。
最初は、まさかと思った。
でも見間違いようがなかった。淡い色の外套に、目立ちすぎないのに上等だと分かる帽子。青白い顔立ち。
その人は少しだけ首を傾けるようにして、ショーウィンドウの中を見ていた。
エミリーだった。
私は思わず足を止めた。
――ひとりで?
そのことが、先に胸へ落ちてきた。
いつもリチャードと一緒というわけではないのだろうとは思っていた。実際、外では案外見かけると、お母様もおっしゃっていた。
けれど、こうして本当にひとりで立っているのを見ると、今まで聞かされてきた“心細くて誰かがいないと”という話が、また別の形で揺らぐ。
「お嬢様?」
メアリが私の視線を追って、わずかに息をのんだ。
その時だった。
エミリーが、すっとこちらを向いた。
目が合う。
あ、と思うより先に、彼女の表情が変わった。
驚いた顔をするでもなく、気まずそうにするでもなく、まるで知っている人を見つけて嬉しいみたいに、ふわりとやわらかくなる。
「まあ、イブリン様」
逃げるには、少し遅かった。
私はその場で小さく息を吸って、立ち止まったまま礼を返した。
「ごきげんよう、エミリー様」
エミリーは、まっすぐこちらへ歩いてきた。
近づいてくる足取りは、少しも弱々しくなかった。
ただ、数歩手前まで来たところで、急に速度が落ちる。そこで初めて、今日は少し疲れている人の歩き方を思い出したみたいに。
「こんなところでお会いするなんて」
声はやわらかかった。
「少し、お買い物ですの」
「ええ、ちょっとしたものを」
私はそう答えた。
それだけで済めばよかった。
でも、エミリーはすぐには離れなかった。
むしろ、私の手元の小さな紙包みへ視線を落として、また顔を上げる。
「まあ、よかった」
「何が、でございましょう」
私は自分でも、声が少し硬いのが分かった。
エミリーは、その硬さにまるで気づかないみたいな顔で言った。
「ひとりでいると、少し心細かったの。ちょうど、どこかで休みたいと思っていたところでしたの」
その言葉を聞いた瞬間、背中のあたりに薄ら寒いものが走った。
心細かった。どこかで休みたい。
偶然、知っている相手に会ったから、少し甘えてみる。そう受け取れば、それだけのことかもしれない。
けれど、私にはその言葉が、あまりにもするりと出てきたように聞こえた。
「そうでしたか」
としか、私は言えなかった。
エミリーはそこで、ぱっと明るく笑った。
「ねえ、少しお茶をいたしません? ちょうど喉も渇いてしまって」
私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
お茶を。
私と?
しかも、こんなふうに当然みたいに?
「わたくし、今日はもう帰るところですので」
できるだけ丁寧に断ると、エミリーは少しだけ目を大きくした。
傷ついた、という顔だった。けれどその変化が、どこか速すぎるようにも見える。
「まあ、すぐですのよ? 長くはお引きとめしませんわ」
「ですが」
「わたくし、少し立ちくらみがして」
そこで、彼女はちょうどよい具合に言葉を切った。
大げさにふらついたわけではない。
でも、そう言われてしまうと、通りの真ん中で頑として断るのは、ひどく冷たいことのように見える。
私はその場で、ほんの少しだけ奥歯を噛んだ。
そういうふうに来るのだ。
メアリが、私のすぐ後ろで息を詰めている気配がした。
たぶん彼女も、私がここで断りきれないことを分かっている。
「近くでしたら」
と、私は言った。
「少しだけなら」
「まあ、うれしい」
エミリーは本当にうれしそうに微笑んだ。
つい今しがたまで立ちくらみがすると言っていた人の顔には、見えなかった。
通りの角を曲がったところに、小さなティールームがあった。
ホテルの大きなものではなく、婦人客がひっそり使うような店だ。
そこなら長居もされにくいだろうと思ったのだけれど、その考えは半分しか当たらなかった。
席に着くなり、エミリーは思っていたよりずっと手際よく注文したからだ。
「レモンケーキはございます? あら、クリームが入るの。それならそちらのほうがいいかしら。お茶は、少し軽いものをお願いしたいわ」
その口調には迷いがない。
店の人へ向ける声音も、穏やかで上品で、少しもおかしなところはない。むしろ、こういう場に慣れている人そのものだった。
私は向かいに座ったまま、その様子を見ていた。
メアリは私の斜め後ろに控えている。彼女がいるだけで、まだ少しだけ救われる気がした。
「イブリン様は、何になさるの?」
そう尋ねられて、私はようやく紅茶だけを頼んだ。
「あら、召し上がらないの」
「ええ、あまり長くはおりませんので」
私がそう言うと、エミリーは少し首をかしげた。
「そうなの? でも、せっかくだもの」
その“せっかくだもの”が、妙に耳についた。
何がせっかくなのか、私には少しも分からなかったからだ。
紅茶が運ばれてくるまでのあいだ、エミリーは思っていた以上によくしゃべった。
天気のこと。
通りの店の並びのこと。
先日新しく作ってもらった帽子が、思ったよりつばの形を選ぶこと。
話題は軽い。
けれど軽いまま、ずっと彼女のほうだけが気持ちよく話している感じがあった。
こちらがどう返すかより、その場に会話があること自体で満足しているような。
「この通り、案外便利ですのね」
エミリーはカップに手を添えて言った。
「リチャードは、もう少し賑やかな店のほうがいいと言うのだけれど、わたくし、こういうところも嫌いではないの」
私はそこで、視線を上げた。
いまの言い方は、あまりにも自然だった。
まるで、いつも一緒に買い物をしている相手の名前を、ただ習慣で口にしたみたいに。
「よくお出かけになりますの?」
自分でも、ずいぶん平たい声だったと思う。
エミリーは、何の含みもない顔で頷いた。
「ええ。気分のいい日には」
そして、すぐに言い足す。
「もちろん、そうしょっちゅうではありませんのよ。でも、お部屋にばかりいても、よけいに塞いでしまうでしょう?」
それは、もっともらしかった。
もっともらしいのに、私の胸には何も落ちなかった。
お部屋にばかりいても塞ぐ。
だから出かける。
それなら、私との約束の時にだけ、どうしてああも簡単に“今日は無理”になっていたのだろう。
「イブリン様は、お優しいのね」
不意にそう言われて、私は瞬いた。
「急に、どうなさいましたの」
「だって、わたくし、お茶につきあってくださいとお願いしてしまったのに」
エミリーはそう言って、少し笑った。
「お断りになってもよかったのに」
その言葉に、私は何も返せなかった。
断ってもよかったのに。
もし本当にそう思う人なら、最初から“少し立ちくらみがして”などと口にするだろうか。
そう言っておいて、断られたらそれはそれで不思議そうな顔をしただろうに。
でも、彼女はたぶん、自分で自分のやり方を不自然だと思っていない。
そこがいちばん嫌だった。
レモンケーキが運ばれてくると、エミリーは小さく嬉しそうな顔をした。
それは年相応の、可愛らしい反応にも見える。見えるのに、さっきから胸の底にある違和感が消えない。
「あら、きれい」
と言って皿を少し引き寄せる仕草も、どこか手慣れていた。
私は自分の紅茶へ目を落とした。
もう早く帰りたかった。
けれど、そこでまたエミリーが言った。
「ねえ、イブリン様」
「何でしょう」
「リチャード、少し気落ちしているみたいでしたの」
その一言で、空気が変わった。
私はカップを持つ手を、ぎりぎりのところで止めた。
エミリーは、ケーキの表面の砂糖を見つめるみたいな顔をしている。
その横顔には、悪意らしいものは少しも見えない。
「このところ、何だか元気がないでしょう?」
私は静かにカップを戻した。
「そうですか」
「ええ」
エミリーはフォークを置いた。
「わたくし、少し心配なの。あの人、やさしいけれど、不器用でしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、私はひどく冷たい気持ちになった。
やさしい。
不器用。
そのまとめ方は、あまりにも向こう側の言い方だったからだ。
「ですから」
エミリーは顔を上げた。
「もし何か、行き違いのようなことがあるのでしたら――」
「エミリー様」
私は、自分でも驚くほど静かな声で遮っていた。
彼女が目を見開く。
「そのお話でしたら、わたくしとエミリー様とでいたすことではございませんわ」
しんとした間が落ちた。
大声ではなかった。
きつい言い方もしなかった。
でも、言葉の扉を閉めたのだと、相手にも分かるくらいにははっきりしていた。
エミリーは、ほんの一瞬だけ、何か計り損ねたような顔をした。
その顔を見た時、私は逆に、少しだけ落ち着いた。
ああ、この人にも、思った通りにならない瞬間はあるのだと分かったからだ。
「……ごめんなさい」
エミリーはすぐに、少ししおらしい声音へ戻った。
「わたくし、余計なことを申しました」
「いいえ」
私はそれ以上、広げなかった。
メアリが控えているのが、本当にありがたかった。
彼女がいなければ、もっと違うやり方で押してきたかもしれないし、私もこんなふうに落ち着いて言えなかったかもしれない。
それからのお茶は、妙に短く感じられた。
エミリーはまた軽い話題へ戻ったけれど、もう先ほどのような滑らかさは少し失われていた。私のほうも、当たり障りのない返事しかしない。
そうしているうちに、ようやく店を出る口実になるだけの時間が過ぎた。
「今日は、ありがとうございました」
店の外でエミリーはそう言った。
「おかげで、少し楽になりましたわ」
その言葉も、どこまで本心なのか私には分からなかった。
「それは何よりです」
そう返して礼をすると、エミリーはもう一度だけ、私をじっと見た。
その目は、別れの挨拶の目というより、何かを見定める目に近かった。
でもすぐに、またやわらかな顔へ戻る。
「ごきげんよう、イブリン様」
「ごきげんよう」
そうして別れたあと、私はしばらく歩きながら黙っていた。
メアリも、すぐには何も言わなかった。
通りを二つ曲がって、もうあちらの姿が見えなくなった頃、ようやく彼女が小さく言う。
「お嬢様」
「何かしら」
「お疲れになりましたでしょう」
その一言で、私はやっと息を吐いた。
「……ええ。少し」
少し、ではなかったかもしれない。
でも、そうとしか言いたくなかった。
あれは露骨な嫌がらせではない。
大きな声を出されたわけでもない。
けれど、こちらが断りにくいところを見つけて、するりと入り込み、最後にはリチャードの話まで持ち出してくる。しかも本人には、たぶんそこまでの自覚がない。
お母様がおっしゃっていた意味が、今ならよく分かった。
可哀想だと思い込むと、話をずらされる。
まさにその通りだった。
「帰ったら、お話しなさいますか」
メアリが尋ねる。
私は少しだけ考えてから、頷いた。
「ええ。ちゃんと、お母様に」
歩きながら、小さな紙包みを抱え直す。
最初はほんの足りないものを買いに出ただけだったのに、持ち帰るものはそれだけではなくなってしまった。
けれど、たぶん無駄ではない。
あの人がどういうふうに言葉を置き、どういうふうにこちらの断りにくいところへ触れてくるのか。今日それを、自分で見た。
それだけは、ちゃんと持ち帰るべきものなのだと思えた。




