43 「うわ、無理」
お母様が「次はありません」と言ってくださった、その少しあとだった。
廊下の向こうで聞き慣れた足音が重なって、居間の扉が開いた。
先に入ってきたのはジョン兄様で、その後ろにハロルド兄様が続く。
二人とも外から戻ったばかりらしく、まだ上着を脱いでいなかった。
「ただいま……って、何その空気」
ジョン兄様が部屋へ入るなり言った。
いつもなら少し軽く聞こえるその言い方が、今はむしろありがたかった。さっきまでの話がまだ胸に残っていて、こちらもぴんと張ったままだったからだ。
お母様が、椅子から少し身を起こされる。
「ちょうどよかったわ。あなたたちにも話しておきたいことがあるの」
それだけで、二人の顔つきが変わった。
ジョン兄様はすぐにふざけた気配を引っ込めたし、ハロルド兄様は何も言わずに扉を閉めて、こちらへ歩いてきた。
「何があった」
ハロルド兄様の声は低かった。
私が口を開こうとしたけれど、キャサリン姉様が「まずはわたくしが話すわ」と引き取ってくださった。
たぶん、私がもう一度最初から言葉にするのを見て、少しは気遣ってくださったのだろう。
姉様は、私が買い物に出たことから順に話した。
エミリーにひとりで出くわしたこと。
向こうに見つけられたこと。
心細いからとお茶に誘われたこと。
立ちくらみがすると言われて断りきれなかったこと。
そして、席についたあとは思いのほか元気そうに注文し、代金まで私に払わせたこと。
最後には、リチャードのことを持ち出してきたこと。
そこまで聞いたところで、ジョン兄様が本当に嫌そうな顔をした。
「うわ」
短い一言だった。
「うわ、無理」
その言い方があまりにも率直で、私は少しだけ肩の力が抜けた。けれど、すぐ次に続いた言葉で、逆に背筋が冷えた。
「……ぞっとする」
そう言いながら、兄様は本気で顔をしかめていた。
ハロルド兄様は、ジョン兄様のようにすぐ感想を口にしなかった。
ただ、姉様の話が終わってから少し間を置いて、私のほうを見た。
「ひとりでいたのか」
「ええ」
「供もつけずに?」
「少なくとも、すぐそばには誰もおりませんでした」
「で、君は“少し立ちくらみがする”と言われた」
「はい」
「そのあと、菓子を選んで、代金はお前が払った」
「……はい」
ひとつひとつ確認する声が落ち着いているぶん、かえって嫌な輪郭がはっきりしていく。
「それで、最後にリチャードの話を持ち出したのか」
「ええ」
私はそこまで答えて、膝の上の指先をぎゅっと寄せた。
いま改めて人の口から順に並べられると、やっぱり変なのだ。
その場では、あまりに自然に運ばれてしまっていたから、ただ消耗しただけだった。
でも、家へ持ち帰って、こうして落ち着いた声で言い直されると、ひどく質の悪いことのように見える。
ジョン兄様が、片手で額を押さえた。
「しかも本人、たぶん何も変だと思ってないんでしょ」
「そのように見えました」
私がそう言うと、兄様は本気で嫌そうに首を振った。
「うわあ……」
その反応に、お母様が小さく息をつかれる。
「ええ。だからこそ、次からは対応を決めたの。お茶にも買い物にも付き合わない。具合が悪いとおっしゃるなら、店の人かグランヴィル家へ任せる。それだけで十分」
「当然ですわね」
キャサリン姉様がすぐに言われる。
ハロルド兄様は、そこでもまだ何か考えていた。
暖炉の火が小さく鳴って、部屋が少し静かになる。
そのあとで、兄様はふと、少し遠いものを見るような目をした。
「……似た話を聞いたことがある」
私は顔を上げた。
ジョン兄様も「え?」とそちらを見た。
「友人の話だ」
ハロルド兄様は言った。
「数年前のことだが、ある女性に妙に執着されたことがあったらしい」
兄様の口から、そういう話が出るのは珍しかった。だから私も、思わずじっと聞いてしまう。
「大げさに迫られたわけじゃない。泣かれもしないし、恋文が山のように来たわけでもない。ただ、ひどく“ちょうどいいところ”に現れるそうだ」
その言い方が、すでに嫌だった。
「たとえば、彼が席を立とうとする時。ほかの女性と話している時。婚約の話が出て、家へ帰ろうとする時。そういう時だけ、具合が悪いような顔をして“少しだけ話を聞いてほしい”と言う」
ジョン兄様が、うわ、ともう一度口の中だけで言った。
「しかも、断るとこちらが冷たいように見える」
ハロルド兄様は続ける。
「取り立てて嘘をついているとも言えない。倒れるわけでもないし、悲劇の主人公のように騒ぐわけでもない。ただ、毎回、相手が断りにくい程度にだけ弱る」
私は、背中のあたりにまたひやりとしたものを感じた。
ちょうどよいところ。
断りにくい程度にだけ弱る。
今日のことと、あまりにも似ていたからだ。
「で、その友人は最初、善意で付き合っていた」
ハロルド兄様の声は少しも揺れない。
「困っているなら放っておけない、少し話を聞くくらい構わない、そのくらいのつもりでな。ところが、婚約者ができてからも同じことが続いた」
キャサリン姉様が小さく眉を寄せられる。
「婚約者の前でも?」
「いや。婚約者の前ではあまり近づかないそうだ」
その返事に、今度はお母様の目が細くなった。
「……見せる相手は選ぶのね」
「そういうことだろう」
ハロルド兄様は頷いた。
「で、結局どうなったのです」
私は思わず尋ねていた。
ハロルド兄様は、少しだけ間を置いてから答えた。
「婚約者の妹が気づいたそうだ」
その一言に、ジョン兄様が椅子の背から身を起こした。
「妹?」
「ああ。友人本人ではなく、婚約者の妹だ」
兄様は淡々と続ける。
「その女性は、彼が席を立とうとする時だけ少し具合が悪そうになり、誰かが間に入ると案外けろりとしていたらしい。婚約者本人は最初、“自分が嫉妬深いのでは”と黙っていた。だが妹のほうが“お姉さま、それは違うわ”と止めた」
その言い方に、私は思わずキャサリン姉様を見た。
姉様も私を見返して、ほんの少しだけ苦く笑われる。
「……ありそうな話ですこと」
「その友人は、あとからようやく、自分がいつも“かわいそうな顔”に負けていたのだと気づいたそうだ」
ハロルド兄様はそこで、私のほうへ視線を戻した。
「だから、お前の今日の話を聞いて、私はぞっとした」
兄様が自分でその言葉を使ったことに、私は少し驚いた。
でも、その表情を見ると、たしかに軽い気味悪さで済ませている顔ではなかった。
「大きな悪意が見えない分、余計に厄介だ」
兄様は低く言う。
「本人の中では理屈が通っていて、周りも“困っているのだから”“少し弱いのだから”で許してしまう。だが、そうやって毎回断りにくい場所へ人を引きずり込む人間は、放っておくと人の時間も関係も食う」
私はその言葉を、まっすぐ受けた。
人の時間も関係も食う。
ひどく冷たい言い方なのに、いや、冷たいからこそ、今日のことにぴたりと合っていた。
ほんの少しのお茶。
少し立ちくらみがするから。
少し話を。
そうやって相手の時間を取る。そして、気づけばそこに別の話まで紛れ込んでいる。
「それで、そのご友人は」
ジョン兄様が尋ねる。
「どうやって切ったの」
「婚約者の家が先に動いた」
ハロルド兄様の返事は簡潔だった。
「本人に一人で対応させず、以後は必ず人を挟み、どんなに具合が悪そうでも親族か使用人へ任せたそうだ。そうしたら、妙な“偶然”はぴたりと減ったらしい」
「……うわあ」
ジョン兄様は本当にぞっとした顔をした。
「やっぱり分かってやってるんじゃん」
「分かっているかどうかは、本人にしか分からん」
ハロルド兄様はそこを切った。
「だが、“そのやり方が通じる”ことは知っているのだろう」
私は、そこでようやく深く息を吐いた。
怖かったのだと思う。
何が、とはうまく言えなかったけれど。
でも今、兄様の友人の話を聞いて、あの嫌さの形が少し分かった気がした。
私は、ひとつの出来事に疲れたのではない。これが繰り返されるかもしれない感じに、ぞっとしていたのだ。
「お前はもう、同じ場へ乗るな」
ハロルド兄様は言った。
「相手が弱って見えようが、心細そうにしようが、お前が受ける必要はない。今日ので十分だ」
「はい」
私は、今度は本当にはっきり答えた。
お母様がゆっくり頷かれる。
「ええ。その点は、もう決まりね」
「今後は、たとえ通りでばったりでも、メアリか店の者を前へ出して帰る。絶対に二人きりの席にしない」
キャサリン姉様の声も、少しも迷っていなかった。
ジョン兄様はまだ嫌そうな顔のままだったけれど、私を見る目だけはやわらいだ。
「でもさ、今日ちゃんと断ったのはえらいよ」
「え?」
「リチャードの話を出されたとこ」
兄様は少し身を乗り出す。
「そこ、たぶん試しだったと思う。お茶だけで済むか、もう一歩踏み込めるか」
私は、その言葉に少しのあいだ何も言えなかった。
試し。
そう言われると、今日のあのひとときが、また違う輪郭を帯びる。
「……そうかもしれません」
自分でも、声が少し低くなったのが分かった。
「でも、止められたんでしょう?」
ジョン兄様が言う。
「なら今日はそれで十分」
ハロルド兄様も小さく頷いた。
「そうだな」
その一言が、じんわり胸に残る。
今日のことは、ただ嫌だっただけではない。ちゃんと持ち帰って、話して、次に同じところへ落ちないための形に変えられた。
そう思うと、少しだけ足元がしっかりする。
暖炉の火が、また小さく鳴った。
部屋の中はあたたかいのに、背のあたりにはまだ、あのティールームの薄ら寒さが残っている。
けれどそれも、今はもうひとりで抱えている感じではなかった。
――ぞっとする。
でも、その“ぞっとする”を、家族の誰かも同じように感じてくれた。
それだけで、少し救われるのだと、私は初めて知った。




