38 見えてきた時には手遅れ
「リチャード」
名前だけを呼ぶ。
その声にはわずかな苛立ちがあったが、遅かった。すでに場は、家の正式な話から、目の前でしおらしくしているエミリーへの応対へとずれてしまっている。
それこそが、ヘレンのいちばん嫌うところだった。
大ごとが、いつも小さな“今かわいそうなもの”へ吸い寄せられていく。そうして本筋が曖昧になる。
誰も大声を出さないまま、肝心なことだけが脇へ追いやられる。
「エミリーさん」
ヘレンは、今度は少しだけ硬い声を出した。
「こちらへお入りなさい、とは申しません。ただ、聞きなさい」
エミリーが顔を上げる。
その目は、思ったより澄んでいた。
「今夜のこれは、グランヴィル家とアシュフォード家とのあいだの正式な話です。あなたがご自分のせいだと考える必要はありませんし、ここで何かを言う場でもありません」
言い終えた時、ヘレンは内心で、少し言いすぎたかもしれないと思った。
“正式な話”だの“言う場ではない”だのという言い方は、本家の娘に向けるには、やや冷たい。
あとでどう取られるか分からない。けれど今は、そうでも言わなければこの娘を突き放すことができない気がした。
エミリーはしばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「……婚約のお話、なのね」
リチャードの肩がぴくりと揺れる。
ヘレンはその動きを横目で見て、やはり遅かったかと思った。
ここで息子がまた何か口を挟めば、話はさらにややこしくなる。
「そうだ」
先に答えたのはエドマンドだった。
短く、ぶっきらぼうに。
「だから、エミリーが気にする話ではない」
それはある意味で正しい。だが、ある意味ではいちばん間違ってもいた。
エミリーはもう、十分にこの話の内側へ入り込んでいる。だからこそ、いま書斎の扉の前に立っているのだ。
そこでエミリーは少しだけ唇をかむ。
「……ごめんなさい」
謝罪の形はきれいだった。
けれどヘレンは、その“ごめんなさい”が本当に何に向けられているのか、もうよく分からなかった。
自分が原因かもしれないことへの謝罪なのか。場を乱したことへの謝罪なのか。
それとも、こうして“気にしている人”の顔を見せるための、具合のよい言葉なのか。
判断のつかないものを家に置き続けることの厄介さが、いま目の前に立っている気がした。
「お休みなさい」
ヘレンは言った。
「今夜はもう、それでよろしいの」
エミリーは、今度は素直に頷いた。
「はい……おやすみなさいませ」
そうして扉が閉まる。
書斎に残った沈黙は、さっきまでのものとは少し質が違っていた。
重いというより、汚れた感じに近い。
きちんと机の上へ並べていた話の上を、誰かがやわらかい外靴で歩いていってしまったような。
最初に口を開いたのはエドマンドだった。
「こういうところだな」
低い声だった。
ヘレンは何も言わなかった。
その“こういうところ”が、誰を指しているのか曖昧だったからだ。
エミリーか、リチャードか、あるいは家全体か。たぶん全部なのだろう。
リチャードは立ったまま、扉を見ていた。
その顔に浮かんでいるのは、まだ困惑のほうが強い。
婚約解消の衝撃と、いま扉の向こうへ消えたエミリーへの気づかいと、その両方が頭の中でぶつかって、うまく形になっていない。
ヘレンは、それを見て、ひどく疲れた気持ちになった。
――この子は本当に、同時に二つのことを考えるのが苦手なのだ。
婚約者を失いかけていることと、従妹が不安そうにしていること。その両方を並べて見られない。
いつも、その瞬間いちばん目につくほうへ心が流れてしまう。
「座りなさい、リチャード」
ヘレンは言った。
「まだ話は終わっていません」
リチャードはようやく扉から目を離した。だが、その視線の遅さが、すでに何より雄弁だった。
ヘレンは内心で思う。
たぶんアシュフォード家は、こういうところまで見抜いているのだろう。
ひとつ面倒が起これば、すぐ別の弱いものへ気を取られ、本筋がぼやけること。
母が場を整え、父が不快そうな顔をし、けれど誰も根元から切れないこと。
そういう家の癖そのものが、婚約者にとってどれほど疲れるものかを。
いまさらながら、それが少しずつ見えてきていた。
だが、見えてきた時には、たいてい手遅れなのだった。
「……今日はもう下がりなさい、リチャード」
ヘレンがそう言った時、息子はまだ何か言いたそうにしていた。
婚約解消の書状を受け取った衝撃も、扉の向こうへ消えたエミリーへの気がかりも、そのどちらも顔に出ている。
けれど、だからといってこの場に置いておいてよいことにはならない。
むしろ今は、ここにいればいるほど話を混ぜ返すだけだと、ヘレンにはよく分かっていた。
「でも、僕は――」
「下がりなさい」
今度はエドマンドが言った。低く、短く。
その声音に、さすがのリチャードも口をつぐむ。
もっとも、それで納得したわけではないのは明らかだった。彼は一度、父を見て、それから母を見た。助けを求めるような、責めたいような、中途半端な目だった。
ヘレンはその視線を受けても、表情を変えなかった。
「今のお前に話せることは、もう話しました」
きっぱり言う。
「これ以上ここにいても、事態は良くなりません」
リチャードはそれでも少しのあいだ立っていたが、やがてようやく肩を落とし、書斎を出ていった。扉が閉まるまでの足取りは、ひどく重かった。
部屋の中に静けさが戻る。
さっきまでいた息子の未熟さと、扉の向こうへ消えたエミリーの厄介さと、その両方がまだ空気に残っていた。
ヘレンはその気配ごと、目の前の現実として飲み込むしかなかった。
最初に口を開いたのは、エドマンドだった。
「こうなる前に、何とかならなかったのか」
責める声ではなかった。
だが、責めていないからこそ、かえって腹立たしい問いでもあった。
――何とかならなかったのか――?
――何とかしてきたのは、いつだって誰だったのか。
ヘレンはすぐには返事をしなかった。
机の上のアシュフォード家からの書状へ目を落とし、それからゆっくり言う。
「何とかなっていたのよ。ついさっきまでは」
エドマンドが眉をひそめる。
「ついさっきまでは、か」
「ええ」
ヘレンは椅子の背に軽くもたれた。
「本家への顔も立てて、エミリーさんもこちらで預かって、リチャードには余計なことを言わずに済ませて、婚約者には賢い理解を期待する――そういう綱渡りを、ずっと何とかしていたでしょう」
「綱渡りと言うほどでも」
「言うほどよ」
ヘレンはそこで初めて、少しだけ声を硬くした。
エドマンドは口を閉ざす。
彼はこういう時、妻が本当に苛立っているかどうかの見分けだけはつく。
つくが、それに対して器用に応じることは得意ではなかった。
「あなたはいつも、“表で破綻していなければまだ大丈夫”とお考えになるけれど」
ヘレンは静かに続けた。
「その表を保ってきたのが、どれだけ面倒なことだったかは、あまりご存じないのよ」
エドマンドはすぐに反論しなかった。
反論できないことは、彼にも分かっているのだろう。
グランヴィル家は古い家だ。名はある。付き合いもある。港や輸入筋との顔つなぎも、先代から残したものがまだ生きている。
だが、それだけで家が回る時代では、もうなかった。
鉄道への投資は思ったほど戻らず、海運への出資も、年によって波が大きい。
領地の上がりは維持費に消え、屋敷の修繕は先送りにしても追いつかない。
本家筋との付き合いも削れない。表では古い家格を保っていても、懐の中身は年々薄くなっていた。
そのことを、ヘレンは帳面より先に生活の端々で知っていた。
社交の場で削れない支出。季節ごとの招待。寄付の額。古い顔を立てるための見栄。
その全部が、じわじわと家の内側を食っていく。
だからこそ、アシュフォード家との縁談は、ヘレンにとっても都合のよい話だった。
「アシュフォード家は堅いわ」
彼女はそう言った。
「上質な布地、レース、リボン、手袋用の素材、ああいう服飾資材を堅実に動かしている家でしょう。景気の波を受けないとは言わないけれど、少なくとも、私たちのように名ばかりで立っている家ではない」
エドマンドが腕を組む。
「それは最初から分かっていたことだ」
「ええ。だからこそ、こちらから縁談を望んだのでしょう?」
その一言には、薄い棘があった。
エドマンドは少しだけ顔をそらす。ヘレンはそれを見て、さらに苛立ちを覚える。
夫は決して無責任ではない。だが、こういう時に、いちばん肝心な欲の部分だけを曖昧にしたがる。
「向こうの販路と倉庫、仕立て屋筋との結びつき、それに現金の回りのよさ」
ヘレンはひとつずつ、置くように言った。
「こちらの港の顔と古い家格を合わせれば、共同で動かせる話はいくらでもあったはずよ。直接の提携だけなら、いつ切れるか分からない。けれど婚姻で結んでしまえば、ずっと扱いやすい」
「それは君も賛成していた」
「もちろんよ」
ヘレンは即座に答えた。
「反対した覚えはないわ。むしろ、ありがたい話だと思っていたもの」
そして、それもまた本音だった。
アシュフォード家の娘が嫁いでくれば、家の中へ堅実さが入る。
リチャードは柔らかすぎるが、妻がしっかりしていれば、何とかなるかもしれない。
エミリーのことも、いずれは落ち着く先が見つかるだろう。
そうすれば、自分は家の細かな火消しから少し手を放せるかもしれない――。
そこまで考えていたことを、ヘレンは声には出さなかった。
だが、胸の奥には確かにあった。
疲れていたのだ。ずっと、目の前の綻びを上手に畳み続ける役に。




