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病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?  作者: さんけい


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38/41

38 見えてきた時には手遅れ

「リチャード」


 名前だけを呼ぶ。

 その声にはわずかな苛立ちがあったが、遅かった。すでに場は、家の正式な話から、目の前でしおらしくしているエミリーへの応対へとずれてしまっている。

 それこそが、ヘレンのいちばん嫌うところだった。

 大ごとが、いつも小さな“今かわいそうなもの”へ吸い寄せられていく。そうして本筋が曖昧になる。

 誰も大声を出さないまま、肝心なことだけが脇へ追いやられる。


「エミリーさん」


 ヘレンは、今度は少しだけ硬い声を出した。


「こちらへお入りなさい、とは申しません。ただ、聞きなさい」


 エミリーが顔を上げる。

 その目は、思ったより澄んでいた。


「今夜のこれは、グランヴィル家とアシュフォード家とのあいだの正式な話です。あなたがご自分のせいだと考える必要はありませんし、ここで何かを言う場でもありません」


 言い終えた時、ヘレンは内心で、少し言いすぎたかもしれないと思った。

 “正式な話”だの“言う場ではない”だのという言い方は、本家の娘に向けるには、やや冷たい。

 あとでどう取られるか分からない。けれど今は、そうでも言わなければこの娘を突き放すことができない気がした。

 エミリーはしばらく黙っていた。

 それから、小さく言った。


「……婚約のお話、なのね」


 リチャードの肩がぴくりと揺れる。

 ヘレンはその動きを横目で見て、やはり遅かったかと思った。

 ここで息子がまた何か口を挟めば、話はさらにややこしくなる。


「そうだ」


 先に答えたのはエドマンドだった。

 短く、ぶっきらぼうに。


「だから、エミリーが気にする話ではない」


 それはある意味で正しい。だが、ある意味ではいちばん間違ってもいた。

 エミリーはもう、十分にこの話の内側へ入り込んでいる。だからこそ、いま書斎の扉の前に立っているのだ。

 そこでエミリーは少しだけ唇をかむ。


「……ごめんなさい」


 謝罪の形はきれいだった。

 けれどヘレンは、その“ごめんなさい”が本当に何に向けられているのか、もうよく分からなかった。

 自分が原因かもしれないことへの謝罪なのか。場を乱したことへの謝罪なのか。

 それとも、こうして“気にしている人”の顔を見せるための、具合のよい言葉なのか。

 判断のつかないものを家に置き続けることの厄介さが、いま目の前に立っている気がした。


「お休みなさい」


 ヘレンは言った。


「今夜はもう、それでよろしいの」


 エミリーは、今度は素直に頷いた。


「はい……おやすみなさいませ」


 そうして扉が閉まる。

 書斎に残った沈黙は、さっきまでのものとは少し質が違っていた。

 重いというより、汚れた感じに近い。

 きちんと机の上へ並べていた話の上を、誰かがやわらかい外靴で歩いていってしまったような。

 最初に口を開いたのはエドマンドだった。


「こういうところだな」


 低い声だった。

 ヘレンは何も言わなかった。

 その“こういうところ”が、誰を指しているのか曖昧だったからだ。

 エミリーか、リチャードか、あるいは家全体か。たぶん全部なのだろう。

 リチャードは立ったまま、扉を見ていた。

 その顔に浮かんでいるのは、まだ困惑のほうが強い。

 婚約解消の衝撃と、いま扉の向こうへ消えたエミリーへの気づかいと、その両方が頭の中でぶつかって、うまく形になっていない。

 ヘレンは、それを見て、ひどく疲れた気持ちになった。


 ――この子は本当に、同時に二つのことを考えるのが苦手なのだ。


 婚約者を失いかけていることと、従妹が不安そうにしていること。その両方を並べて見られない。

 いつも、その瞬間いちばん目につくほうへ心が流れてしまう。


「座りなさい、リチャード」


 ヘレンは言った。


「まだ話は終わっていません」


 リチャードはようやく扉から目を離した。だが、その視線の遅さが、すでに何より雄弁だった。

 ヘレンは内心で思う。

 たぶんアシュフォード家は、こういうところまで見抜いているのだろう。

 ひとつ面倒が起これば、すぐ別の弱いものへ気を取られ、本筋がぼやけること。

 母が場を整え、父が不快そうな顔をし、けれど誰も根元から切れないこと。

 そういう家の癖そのものが、婚約者にとってどれほど疲れるものかを。

 いまさらながら、それが少しずつ見えてきていた。

 だが、見えてきた時には、たいてい手遅れなのだった。


「……今日はもう下がりなさい、リチャード」


 ヘレンがそう言った時、息子はまだ何か言いたそうにしていた。

 婚約解消の書状を受け取った衝撃も、扉の向こうへ消えたエミリーへの気がかりも、そのどちらも顔に出ている。

 けれど、だからといってこの場に置いておいてよいことにはならない。

 むしろ今は、ここにいればいるほど話を混ぜ返すだけだと、ヘレンにはよく分かっていた。


「でも、僕は――」

「下がりなさい」


 今度はエドマンドが言った。低く、短く。

 その声音に、さすがのリチャードも口をつぐむ。

 もっとも、それで納得したわけではないのは明らかだった。彼は一度、父を見て、それから母を見た。助けを求めるような、責めたいような、中途半端な目だった。

 ヘレンはその視線を受けても、表情を変えなかった。


「今のお前に話せることは、もう話しました」


 きっぱり言う。


「これ以上ここにいても、事態は良くなりません」


 リチャードはそれでも少しのあいだ立っていたが、やがてようやく肩を落とし、書斎を出ていった。扉が閉まるまでの足取りは、ひどく重かった。

 部屋の中に静けさが戻る。

 さっきまでいた息子の未熟さと、扉の向こうへ消えたエミリーの厄介さと、その両方がまだ空気に残っていた。

 ヘレンはその気配ごと、目の前の現実として飲み込むしかなかった。

 最初に口を開いたのは、エドマンドだった。


「こうなる前に、何とかならなかったのか」


 責める声ではなかった。

 だが、責めていないからこそ、かえって腹立たしい問いでもあった。


 ――何とかならなかったのか――?

 ――何とかしてきたのは、いつだって誰だったのか。


 ヘレンはすぐには返事をしなかった。

 机の上のアシュフォード家からの書状へ目を落とし、それからゆっくり言う。


「何とかなっていたのよ。ついさっきまでは」


 エドマンドが眉をひそめる。


「ついさっきまでは、か」

「ええ」


 ヘレンは椅子の背に軽くもたれた。


「本家への顔も立てて、エミリーさんもこちらで預かって、リチャードには余計なことを言わずに済ませて、婚約者には賢い理解を期待する――そういう綱渡りを、ずっと何とかしていたでしょう」

「綱渡りと言うほどでも」

「言うほどよ」


 ヘレンはそこで初めて、少しだけ声を硬くした。

 エドマンドは口を閉ざす。

 彼はこういう時、妻が本当に苛立っているかどうかの見分けだけはつく。

 つくが、それに対して器用に応じることは得意ではなかった。


「あなたはいつも、“表で破綻していなければまだ大丈夫”とお考えになるけれど」


 ヘレンは静かに続けた。


「その表を保ってきたのが、どれだけ面倒なことだったかは、あまりご存じないのよ」


 エドマンドはすぐに反論しなかった。

 反論できないことは、彼にも分かっているのだろう。

 グランヴィル家は古い家だ。名はある。付き合いもある。港や輸入筋との顔つなぎも、先代から残したものがまだ生きている。

 だが、それだけで家が回る時代では、もうなかった。

 鉄道への投資は思ったほど戻らず、海運への出資も、年によって波が大きい。

 領地の上がりは維持費に消え、屋敷の修繕は先送りにしても追いつかない。

 本家筋との付き合いも削れない。表では古い家格を保っていても、懐の中身は年々薄くなっていた。

 そのことを、ヘレンは帳面より先に生活の端々で知っていた。

 社交の場で削れない支出。季節ごとの招待。寄付の額。古い顔を立てるための見栄。

 その全部が、じわじわと家の内側を食っていく。

 だからこそ、アシュフォード家との縁談は、ヘレンにとっても都合のよい話だった。


「アシュフォード家は堅いわ」


 彼女はそう言った。


「上質な布地、レース、リボン、手袋用の素材、ああいう服飾資材を堅実に動かしている家でしょう。景気の波を受けないとは言わないけれど、少なくとも、私たちのように名ばかりで立っている家ではない」


 エドマンドが腕を組む。


「それは最初から分かっていたことだ」

「ええ。だからこそ、こちらから縁談を望んだのでしょう?」


 その一言には、薄い棘があった。

 エドマンドは少しだけ顔をそらす。ヘレンはそれを見て、さらに苛立ちを覚える。

 夫は決して無責任ではない。だが、こういう時に、いちばん肝心な欲の部分だけを曖昧にしたがる。


「向こうの販路と倉庫、仕立て屋筋との結びつき、それに現金の回りのよさ」


 ヘレンはひとつずつ、置くように言った。


「こちらの港の顔と古い家格を合わせれば、共同で動かせる話はいくらでもあったはずよ。直接の提携だけなら、いつ切れるか分からない。けれど婚姻で結んでしまえば、ずっと扱いやすい」

「それは君も賛成していた」

「もちろんよ」


 ヘレンは即座に答えた。


「反対した覚えはないわ。むしろ、ありがたい話だと思っていたもの」


 そして、それもまた本音だった。

 アシュフォード家の娘が嫁いでくれば、家の中へ堅実さが入る。

 リチャードは柔らかすぎるが、妻がしっかりしていれば、何とかなるかもしれない。

 エミリーのことも、いずれは落ち着く先が見つかるだろう。

 そうすれば、自分は家の細かな火消しから少し手を放せるかもしれない――。

 そこまで考えていたことを、ヘレンは声には出さなかった。

 だが、胸の奥には確かにあった。

 疲れていたのだ。ずっと、目の前の綻びを上手に畳み続ける役に。

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