39 名と実入り
「でも」
エドマンドが言った。
「アシュフォード家も、そこまで堅いなら、少しの行き違いで話を壊す必要もないだろう」
その言葉に、ヘレンはとうとう夫をまっすぐ見た。
「まだ、そんなことを?」
声は高くなっていない。
けれど、怒っているとエドマンドにも分かったはずだった。
「少しの行き違いではなかったから、こうなっているのよ。あなたも、書状を読んだでしょう。先方はきちんと見ていたの。こちらが内輪の問題を曖昧に抱えたまま、婚約者の娘へ我慢を流していたことを」
エドマンドは言い返さない。
ヘレンはそこで止まらなかった。
「アシュフォード家は堅い家よ。堅い家だからこそ、曖昧な善意には付き合わないの。商売でもそうでしょう? どれだけ体面のよい言葉を並べても、支払いが崩れれば終わる。今回はそれと同じよ。こちらは“情のある息子”だの“事情のある従妹”だのと体裁を整えてきたけれど、向こうから見れば、約束を守れず、負担だけを相手へ押しつける家だったの」
その言い方は容赦がなく――ヘレン自身にも刺さっていた。
エドマンドはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「君は、そこまで分かっていたのか」
「分かっていたわよ」
ヘレンは答える。
「分かっていて、まだ回せると思っていたのよ」
そこに、自分でも嫌になるくらいの苛立ちが混じった。
回せると思っていた。それが甘かったのだ。
エミリーを穏便に預かり、リチャードには余計なことを知らせず、イブリンには“賢い娘”としての辛抱を期待する。
その全部を少しずつ回していけば、家も、縁談も、見た目だけは整うはずだと。
だが実際には、整っていたのは見た目だけだった。
「では、事業の話も終わりだな」
エドマンドがそう言った時、その声音には本気の渋さがあった。
婚約が切れれば、話も切れる。
優先取引も、倉庫の共同利用も、港の便宜を見込んだ輸入品の回し方も、すべて最初からやり直しだ。
アシュフォード家ほど堅く、しかも家格に気後れせず組める相手はそう多くない。
ヘレンはその言葉に、ふいに乾いた笑いが出そうになった。
「ようやく、そこへいらしたのね」
エドマンドが顔をしかめる。
「何だ」
「いえ。ただ」
ヘレンは視線を窓のほうへ向けた。
「あなたが本気で困るのは、いつもそこなのだと思って」
家の名でもなく、息子の不出来でもなく、預かり物の厄介さでもなく、具体的な損失になった時にようやく“まずい”が輪郭を持つ。
悪い人ではない。だが、それが夫という人の限界でもあった。
エドマンドはしばらく何も言わなかった。
外はもう暗くなりかけていて、窓硝子には室内の灯りがぼんやり映っている。その中に、自分の顔が少し疲れて見えるのを、ヘレンは嫌でも認めるしかなかった。
「……返答はどうする」
やがて夫が問う。
「当主としては、すぐに受けるわけにもいかん」
「ええ。すぐに頭を下げれば済む話ではないでしょうね」
ヘレンは落ち着いた声で答えた。
「けれど、押し切れる話でもないわ。アシュフォード家は、感情で騒いでいるのではなく、家として切ると決めたのですもの」
「なら、どうする」
「一度は会うべきでしょう」
ヘレンはそう言った。
「書状だけで返しても、先方はもう言葉の綾では動かない。あなたが出向くか、あるいはこちらへお招きするか」
そこまで言ってから、彼女は少しだけ目を細める。
「ただし、“若い者の行き違い”などという言い方は、もう通じないわ」
エドマンドは頷いた。それでも、完全には腹をくくれていない顔だった。
ヘレンはその横顔を見ながら、胸の奥でじわじわとした苛立ちを噛みしめる。
この家は、ずっとこうなのだ。
誰かが綻びを見つけても、すぐには布を裁ち直さない。とりあえず端を折り込んで、見えないようにして、次の客の前では何事もない顔をする。そうしているうちに、縫い目の内側から傷みが広がる。
そして、それが本当に破れた時になって初めて、皆でその裂け目を見下ろすのだ。
ヘレンは自分の手元を見た。
細い指が、知らないうちに手袋の端をきつくつまんでいる。
――疲れる。
その思いは、口にしなかった。
だが、その疲れは近ごろ確かに形を持ち始めていた。
家の内側を整えることにも、息子の鈍さにも、本家への遠慮にも、預かり物の娘の曖昧な顔にも。全部に少しずつ、うんざりしていた。
「ともかく」
彼女は手袋を離し、いつもの声に戻った。
「もう、リチャードを動かさないことです。あの子が勝手な真似をすれば、事業の話どころではなくなるわ」
エドマンドは短く頷く。
それが今この場での、せめてもの現実的な合意だった。
名と実入り。
どちらも欲しがって、どちらも曖昧に保とうとした結果が、いまこうして机の上に載っている。
ヘレンはアシュフォード家の書状を見た。
赤い封蝋はもう剥がされているのに、その跡だけがまだやけに固く見えた。
◇
グランヴィル家からの訪問願いがアシュフォード家へ届いたのは、婚約解消の書状を出してから二日後のことだった。
封を受け取った時、アシュフォード卿は驚かなかった。
むしろ、ようやく来たかと思ったくらいである。
先方が書面だけで済ませるはずがないことは、最初から分かっていた。
あれほどきれいに体面を整えたがる家が、正式な婚約解消の申し入れを受けて、そのまま黙って引くわけがない。おそらくは当主が出てくるだろう、という予想もついていた。
だから、執事から封を受け取った時点で、彼の中ではもう半分ほど段取りが決まっていた。
書斎で手紙を読み終えると、彼は机の上へ便箋を置き、しばらく指先でその端を押さえた。
文面は丁重だった。だが、丁重であることと、譲る気があることとは別だ。
むしろ、言葉が整っている時ほど、内側にあるものは譲らない場合も多い。
先方の当主、エドマンド・グランヴィルは、面談の機会を求めてきていた。
若い者同士だけでは行き違いが深まるばかりであり、家同士できちんと話したい――おおむね、そういう趣旨だった。
それを読んだ時、アシュフォード卿は心の中で、ごく小さく息をついた。
家同士。
そこを持ち出してくるのは、いかにも向こうらしい。
しかし同時に、それは間違ってもいなかった。
今回の婚約は、もともと家同士の結びつきを前提に整えられたものだ。感情だけの問題なら、ここまで慎重に扱う必要はない。娘ひとりの傷心として処理するには、向こうの思惑も、こちらの損得も、もう少し大きすぎた。
だからこそ、彼は逆に腹を決めていた。
娘の気持ちを守ることと、家として筋を通すことは、今回はきれいに重なっている。そこを曖昧にしてやる必要はない。




