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病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?  作者: さんけい


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39/41

39 名と実入り

「でも」


 エドマンドが言った。


「アシュフォード家も、そこまで堅いなら、少しの行き違いで話を壊す必要もないだろう」


 その言葉に、ヘレンはとうとう夫をまっすぐ見た。


「まだ、そんなことを?」


 声は高くなっていない。

 けれど、怒っているとエドマンドにも分かったはずだった。


「少しの行き違いではなかったから、こうなっているのよ。あなたも、書状を読んだでしょう。先方はきちんと見ていたの。こちらが内輪の問題を曖昧に抱えたまま、婚約者の娘へ我慢を流していたことを」


 エドマンドは言い返さない。

 ヘレンはそこで止まらなかった。


「アシュフォード家は堅い家よ。堅い家だからこそ、曖昧な善意には付き合わないの。商売でもそうでしょう? どれだけ体面のよい言葉を並べても、支払いが崩れれば終わる。今回はそれと同じよ。こちらは“情のある息子”だの“事情のある従妹”だのと体裁を整えてきたけれど、向こうから見れば、約束を守れず、負担だけを相手へ押しつける家だったの」


 その言い方は容赦がなく――ヘレン自身にも刺さっていた。

 エドマンドはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。


「君は、そこまで分かっていたのか」

「分かっていたわよ」


 ヘレンは答える。


「分かっていて、まだ回せると思っていたのよ」


 そこに、自分でも嫌になるくらいの苛立ちが混じった。

 回せると思っていた。それが甘かったのだ。

 エミリーを穏便に預かり、リチャードには余計なことを知らせず、イブリンには“賢い娘”としての辛抱を期待する。

 その全部を少しずつ回していけば、家も、縁談も、見た目だけは整うはずだと。

 だが実際には、整っていたのは見た目だけだった。


「では、事業の話も終わりだな」


 エドマンドがそう言った時、その声音には本気の渋さがあった。

 婚約が切れれば、話も切れる。

 優先取引も、倉庫の共同利用も、港の便宜を見込んだ輸入品の回し方も、すべて最初からやり直しだ。

 アシュフォード家ほど堅く、しかも家格に気後れせず組める相手はそう多くない。

 ヘレンはその言葉に、ふいに乾いた笑いが出そうになった。


「ようやく、そこへいらしたのね」


 エドマンドが顔をしかめる。


「何だ」

「いえ。ただ」


 ヘレンは視線を窓のほうへ向けた。


「あなたが本気で困るのは、いつもそこなのだと思って」


 家の名でもなく、息子の不出来でもなく、預かり物の厄介さでもなく、具体的な損失になった時にようやく“まずい”が輪郭を持つ。

 悪い人ではない。だが、それが夫という人の限界でもあった。

 エドマンドはしばらく何も言わなかった。

 外はもう暗くなりかけていて、窓硝子には室内の灯りがぼんやり映っている。その中に、自分の顔が少し疲れて見えるのを、ヘレンは嫌でも認めるしかなかった。


「……返答はどうする」


 やがて夫が問う。


「当主としては、すぐに受けるわけにもいかん」

「ええ。すぐに頭を下げれば済む話ではないでしょうね」


 ヘレンは落ち着いた声で答えた。


「けれど、押し切れる話でもないわ。アシュフォード家は、感情で騒いでいるのではなく、家として切ると決めたのですもの」

「なら、どうする」

「一度は会うべきでしょう」


 ヘレンはそう言った。


「書状だけで返しても、先方はもう言葉の綾では動かない。あなたが出向くか、あるいはこちらへお招きするか」


 そこまで言ってから、彼女は少しだけ目を細める。


「ただし、“若い者の行き違い”などという言い方は、もう通じないわ」


 エドマンドは頷いた。それでも、完全には腹をくくれていない顔だった。

 ヘレンはその横顔を見ながら、胸の奥でじわじわとした苛立ちを噛みしめる。

 この家は、ずっとこうなのだ。

 誰かが綻びを見つけても、すぐには布を裁ち直さない。とりあえず端を折り込んで、見えないようにして、次の客の前では何事もない顔をする。そうしているうちに、縫い目の内側から傷みが広がる。

 そして、それが本当に破れた時になって初めて、皆でその裂け目を見下ろすのだ。

 ヘレンは自分の手元を見た。

 細い指が、知らないうちに手袋の端をきつくつまんでいる。


 ――疲れる。


 その思いは、口にしなかった。

 だが、その疲れは近ごろ確かに形を持ち始めていた。

 家の内側を整えることにも、息子の鈍さにも、本家への遠慮にも、預かり物の娘の曖昧な顔にも。全部に少しずつ、うんざりしていた。


「ともかく」


 彼女は手袋を離し、いつもの声に戻った。


「もう、リチャードを動かさないことです。あの子が勝手な真似をすれば、事業の話どころではなくなるわ」


 エドマンドは短く頷く。

 それが今この場での、せめてもの現実的な合意だった。

 名と実入り。

 どちらも欲しがって、どちらも曖昧に保とうとした結果が、いまこうして机の上に載っている。

 ヘレンはアシュフォード家の書状を見た。

 赤い封蝋はもう剥がされているのに、その跡だけがまだやけに固く見えた。


 ◇


 グランヴィル家からの訪問願いがアシュフォード家へ届いたのは、婚約解消の書状を出してから二日後のことだった。

 封を受け取った時、アシュフォード卿は驚かなかった。

 むしろ、ようやく来たかと思ったくらいである。

 先方が書面だけで済ませるはずがないことは、最初から分かっていた。

 あれほどきれいに体面を整えたがる家が、正式な婚約解消の申し入れを受けて、そのまま黙って引くわけがない。おそらくは当主が出てくるだろう、という予想もついていた。

 だから、執事から封を受け取った時点で、彼の中ではもう半分ほど段取りが決まっていた。

 書斎で手紙を読み終えると、彼は机の上へ便箋を置き、しばらく指先でその端を押さえた。

 文面は丁重だった。だが、丁重であることと、譲る気があることとは別だ。

 むしろ、言葉が整っている時ほど、内側にあるものは譲らない場合も多い。

 先方の当主、エドマンド・グランヴィルは、面談の機会を求めてきていた。

 若い者同士だけでは行き違いが深まるばかりであり、家同士できちんと話したい――おおむね、そういう趣旨だった。

 それを読んだ時、アシュフォード卿は心の中で、ごく小さく息をついた。

 家同士。

 そこを持ち出してくるのは、いかにも向こうらしい。

 しかし同時に、それは間違ってもいなかった。

 今回の婚約は、もともと家同士の結びつきを前提に整えられたものだ。感情だけの問題なら、ここまで慎重に扱う必要はない。娘ひとりの傷心として処理するには、向こうの思惑も、こちらの損得も、もう少し大きすぎた。

 だからこそ、彼は逆に腹を決めていた。

 娘の気持ちを守ることと、家として筋を通すことは、今回はきれいに重なっている。そこを曖昧にしてやる必要はない。

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