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病弱な従妹に思いやりがない」? 婚約者様、それが私に何の関係が?  作者: さんけい


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37 締め出せない扉

 しばらくして、リチャードが書斎へ入ってきた。

 呼ばれた時点で、何かよくない話だとは感じていたのだろう。

 ふだんより背筋が固く、顔色もよくない。だがまだ、ここまでだとは思っていない顔だった。


「父上、母上――?」

「座りなさい」


 エドマンドの声は、いつもより少し低かった。

 リチャードは一度、机の上の便箋を見た。

 封筒はもう脇へ置かれていたが、赤い印章の跡はまだ目立っている。彼はそこで何かを察したらしく、目元がひきつった。


「……アシュフォード家から?」

「そうだ」


 父の答えは簡潔だった。


「正式に、婚約解消の申し入れがあった」


 その言葉を聞いた瞬間、リチャードの顔から血の気が引いた。

 だが彼は、すぐには言葉を返せなかった。

 婚約が危ういとは思っていた。だがそれはまだ、どこかで“こじれている”程度の認識だったのである。

 正式に。解消。

 そういう言葉になると、急に目の前の現実が別物のように感じられた。


「そんな、急に……」


 やっと出たのは、それだけだった。

 ヘレンはその言い方に、胸の奥で小さく苛立った。

 急に、ではない。急に見えたのだとしたら、それは息子が見ていなかっただけだ。


「急ではありません」


 彼女は静かに言った。


「イブリン嬢は前からずっと不満を溜めていらしたのでしょう。あなたが見ようとしなかっただけよ」


 リチャードは母を見た。

 反発したい気持ちと、すがりたい気持ちと、そのどちらもある顔だった。


「でも、僕は……僕はちゃんと説明するつもりだった」

「まだそんなことを言うのか」


 エドマンドが、そこで初めてはっきり不快をにじませた。

 リチャードは黙る。


「先方は、説明が足りなかったと言っているのではない。お前が婚約者をたびたび後回しにし、その負担を当然のように押しつけてきたことを問題にしている」

「後回しにしたつもりなんて」

「つもりの話ではない」


 その一言は重かった。

 リチャードはそこでようやく、本当に責められているのだと分かったらしい。肩が目に見えて強張る。

 だが、彼の中にはなおも“仕方がなかった事情”が残っている。それが顔に出ていた。


「エミリーのことは、放っておけなかったんだ」


 出てきたのは、やはりその言葉だった。ヘレンは目を閉じたくなった。

 そこなのだ。そこから動かない。

 その言葉が、もう先方には届かないところまで来ているのに、まだ息子は同じ箱の中でものを考えている。


「放っておけなかったことと、婚約者への不実は別です」


 そう言ったのはヘレンだった。

 リチャードは、まるでその言葉を初めて聞いたみたいな顔をした。


「母上まで」

「母上まで、ではありません」


 彼女はきっぱりと言う。


「むしろ今まで、そこを甘く見すぎたのです」


 その言葉は、息子だけでなく自分にも返ってきた。

 ヘレン自身、それは分かっていた。分かっていても、ここで引き受けるしかなかった。

 エドマンドは書状を指先で示す。


「先方は、今後お前からイブリン嬢への直接の接触も禁じている」


 リチャードは思わず身を乗り出した。


「そんなことまで?」

「当然だろう」

「でも、僕が話せば――」

「話すな」


 父の声は低く、はっきりしていた。

 その一言で、リチャードはようやく言葉を失った。


「お前は事の大きさがまだ分かっていない。今お前が動けば、ますます先方の心証を悪くするだけだ」

「じゃあ僕は、何もしないでいろと?」


 その問いには、情けなさより不服の色が強かった。

 ヘレンはそこにまた、息子の浅さを見る。自分が失ったかもしれないものより、いま動けないことのほうが先に不本意なのだ。


「そうです」


 ヘレンが言った。


「少なくとも今は」


 その時だった。

 書斎の扉の向こうで、かすかな物音がした。三人の視線がそちらへ向く。

 ノックはない。けれど、気配だけはある。

 ヘレンはその瞬間、何となく誰かが分かった。分かったが、心の底では、どうか違ってほしいとも思った。

 エドマンドが低く「誰だ」と言う。

 すこし間があってから、扉の向こうで細い声が返った。


「……エミリーです」


 ヘレンは、ほんのわずかに目を閉じた。

 やはり、と思う。

 この家では、肝心な時に限って、きれいに区切られたはずの内と外が、曖昧に混じる。

 リチャードが、ほとんど反射みたいに扉のほうを見た。

 その速さを見た時、ヘレンは改めて、ここまで来てもまだ遅すぎるのかもしれないと感じた。


 ヘレンは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。

 ここで「お休みなさい」と言って帰せばよい。

 本来なら、それで済む話だった。いま書斎でしているのは家の正式な話であり、預かっている親族の娘が口を挟んでよい場ではない。

 けれど、そう言い切れないのが、この家の面倒なところでもあった。

 エミリーは客ではない。だが、家族でもない。

 本家筋の娘で、事情があって長く預かっている存在だ。

 だから、使用人の前であまり露骨にあしらうわけにもいかず、家族のように叱りつけることもできない。

 その曖昧さが、いつもこういう場で足を引く。


「エミリーさん、今は――」


 ヘレンが言いかけたところで、リチャードが先に動いた。

 扉のほうへ半歩だけ身を向ける。

 それだけのことなのに、ヘレンにはひどく腹立たしかった。

 父から“話すな”と言われた、そのすぐあとで、もう別のほうを向いている。

 悪気ではないのだろう。だが悪気がないことと、間が悪いこととは別だった。


「どうしたんだ、エミリー」


 その声が、向こう側の気配を招く。ヘレンは内心で舌打ちしたくなった。

 いまの一言で、もう締め出しにくくなったのだ。

 扉が、わずかに開く。

 エミリーは夜着ではなく、部屋着の上に薄いショールを掛けていた。いかにも休む前に気になって出てきた、という姿だ。

 顔色は青白く、まぶたも少し重たげに見える。少なくとも、彼らにはそう感じられた。


「ごめんなさい……お話し中なのは分かっていたのだけれど」


 細い声だった。

 ヘレンはその顔を見て、余計に気が重くなる。

 ああいう顔をされると、エドマンドは露骨に冷たくできない。リチャードなど、なおさらだ。

 そしてヘレン自身も、ここで本家の娘に強く出たと伝わった時の面倒を考えてしまう。

 結局、その一拍のためらいが、いつも相手に入り込む隙を与えるのだった。


「今夜はもう休むよう申し上げたはずよ」


 ヘレンは、できるだけ平らに言った。


「ええ……でも、少しだけ物音がして、何だか、わたくしのことで叱られているみたいで……」


 その言葉に、リチャードの顔がすぐに曇る。

 ヘレンはその横顔を見て、胸の内で小さく諦めた。

 この息子は、本当に分かりやすい。相手が“自分のせいで”と口にした瞬間、もうそちらを放っておけなくなる。

 エドマンドが、そこで初めてはっきり嫌な顔をした。


「叱ってなどいない」


 低い声だった。

 だが、その低さは人を黙らせるためのものというより、面倒を増やされたことへの不機嫌さに近い。

 ヘレンはそこにも、夫の限界を見る。

 こういう時、この人は場の境目をきっぱり切れない。ただ不快そうな顔をするだけで、事を片づけるのは結局こちらになる。


「エミリーさん」


 ヘレンはもう一度言った。


「これはあなたが気に病むことではありません」

「でも……」


 エミリーは扉のところから動かない。

 その“でも”の言い方が、ひどく扱いづらかった。

 反抗ではない。素直に引き下がりたいが、不安で立ち止まっているように聞こえる。そう聞こえるから、なおさら厄介なのだ。


「わたくしがこちらに来てから、皆さまにご迷惑ばかり……」


 そう言って目を伏せる。

 ヘレンは、その伏せ方を見ていた。慎ましいようで、ちゃんと相手の反応を待っている伏せ方だ。

 本人に自覚があるのかないのかは分からない。ただ、いつも少しだけ、相手に言葉を出させる間を知っている。

 案の定、リチャードが先に口を開いた。


「そんなことはない」

「でも、今のは……」

「君のせいじゃない」


 ヘレンは目を閉じたくなった。

 そういうやり取りを、いまこの場でやること自体がまずいのだと、どうしてこの子は分からないのだろう。

 婚約解消の書状を受け取ったその日に、なおも同じ位置へ戻ってしまう。まるで何も変わっていないように。

 エドマンドも、それを見て眉間を押さえた。


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