36 封蝋の重み
(俯瞰視点)
アシュフォード家からの書状がグランヴィル家へ届いたのは、午後も少し遅い刻限だった。
封蝋を見た時点で、ヘレン・グランヴィルはそれがただの往復書簡ではないと分かった。
季節の挨拶でもなければ、曖昧な牽制でもない。ああいう赤い印章の固さは、先方がもう言葉を濁さないつもりの時にだけ出る。
彼女は受け取った封筒を、その場では開かなかった。
まずは書斎へ向かい、夫を呼ばせる。
その手順自体が、この家における力関係をよく表していた。
正式な文書の宛先は当主であり、読むのも本来は当主の役目だ。
だが、こういう時、先に重みを察し、部屋を整え、誰が同席すべきかを決めるのはいつもヘレンのほうだった。
エドマンド・グランヴィルが書斎へ入ってきた時、彼はまだ事態の深刻さを半分ほどしか読めていなかった。
「そんな顔をして、何だ」
そう言いながら受け取った封筒の印章を見て、ようやく眉を寄せる。
「アシュフォード家からですわ」
「見れば分かる」
「ええ。でも、たぶん中身は、もう分かっていらっしゃるでしょう」
ヘレンがそう言うと、エドマンドは返事をしなかった。
封を切る音だけが書斎に落ちる。
厚手の紙を取り出し、夫は黙って読み進めた。
最初の数行はまだ平然としていた顔が、途中から少しずつ固くなる。最後まで目を通し終える頃には、もう苦いものを噛んだような顔になっていた。
「……正式な婚約解消の申し入れ、か」
低い声だった。
ヘレンは黙っていた。
夫が自分でその文言を口にするのを待っていたのである。
「娘本人に継続の意思がなく、こちらの家の事情を理由にたび重なる負担を強いてきたことを看過できない、だと」
そこには感情より、まず不快があった。
当主として名指しで責任を問われたことへの不快だ。
「よくもここまで書いたものだな」
「書かれて当然の下地は、こちらにもありましたわ」
ヘレンは静かに言う。エドマンドはすぐに顔を上げた。
責められたと思ったのだろう。けれどヘレンは責めるつもりではなかった。少なくとも、今は。
今必要なのは責任の押し付け合いではなく、どう対処するかの見極めだった。
「それに」
とヘレンは続けた。
「もう、アシュフォード家は“若いふたりの行き違い”としては扱わないと決めたのでしょう」
エドマンドは便箋を机へ置いた。
「君が行っても駄目だったか」
その言い方に、ヘレンは少しだけ目を細めた。
――駄目だったか。
まるで自分が穏当に収める役目を引き受けて、失敗したみたいな言い方だ。
実際その通りではあったけれど、彼女にとって引っかかるのは別のところだった。
夫はいつもこういう時、自分が何かを誤ったとは考えず、“回収役が間に合わなかった”くらいに捉えがちなのだ。
「ええ。思った以上に固かったですわ」
「イブリン嬢が?」
「ええ。それに、アシュフォード夫人も姉君も」
そこまで言ってから、ヘレンは少し間を置いた。
「何より、アシュフォード卿ご本人が、もう引く気がないのでしょう」
エドマンドはそれを聞いて、椅子の背にもたれた。
彼は決して愚鈍ではない。事業の話になれば慎重だし、外の付き合いでも決して無礼は働かない。
ただ、家の内側の歪みが、外へどうにじむかという種類のことには鈍かった。
いや、鈍いというより、そういうものはたいていヘレンが整えてきたため、自分で真正面から扱う癖がついていないのかもしれない。
「息子には知らせるのか」
「いずれは」
「いずれ、では遅いかもしれん」
その返事に、ヘレンは少しだけ黙った。
たしかに遅いかもしれない。
しかし、では何をどこまで言えばよいのか?
エミリーがこちらに長く留まっている事情、本家の顔色、兄の縁談への差し障り、そうしたものを、今この段になって一人息子へどう聞かせるべきなのか?
ヘレンにはまだ答えが定まらなかった。
息子に甘いのだ、と言われればその通りなのだろう。
だが彼女には彼女の理屈がある。
リチャードは、もともと込み入った事情を抱えて立ち回るのに向いた性格ではない。
余計なものを知らせず、目の前の役目だけを果たさせるほうがよい。ずっとそう考えてきた。
その考えの結果がいまこうして返ってきているのだとしても、習い性はすぐには変わらない。
「少なくとも今夜は、落ち着いて話したほうがいいでしょう」
ヘレンはそう言った。
それは半分本音で、半分は先延ばしだった。
エドマンドも、そのくらいは分かったのかもしれない。彼は深く追及しなかった。
ただ、机の上の便箋を指先で軽く叩いて言う。
「アシュフォード家は、今後リチャードからイブリン嬢への直接の接触も慎むよう求めている」
「ええ」
「つまり、こちらが息子を放っておけば、勝手に動く危険があるということだ」
そこはさすがに、ヘレンも否定できなかった。
リチャードはまだ、状況の重さを十分に飲み込めていない。
婚約が危ういことは分かっていても、それが自分の思うよりずっと手前の段階を過ぎていることまでは、おそらく見えていない。
あの子は、説明すれば伝わると思っている。誠意を見せれば戻るはずだと思っている。
そういう甘さを、まだ捨てていない。
「呼びましょうか」
ヘレンが言うと、エドマンドは頷いた。
「呼べ」
短い返答だった。




