35 戻りたいとは思わない
「読んでみるか」
お父様がそうおっしゃったので、私は少しためらってから頷いた。
便箋を受け取る。紙は上等で、筆跡はいつも通り整っていた。
でも、その一行一行の重さは、ふだん私が目にする手紙とはまるで違った。
言葉は決して荒くない。
けれど、逃げ道を残さない書き方だった。
――娘の気持ちを“ひとときの感情”として扱うことはできないこと。
――婚約者に求められるべき敬意が、繰り返し損なわれてきたこと。
――従妹の問題を含めた家内の事情を、こちらの娘へ黙って引き受けさせるような縁組は認められないこと。
そして最後に、
――婚約解消の申し入れを正式に行うこと。
読み終えた時、私はすぐには紙を伏せられなかった。
まるで、自分の中で曖昧にしていたものを、代わりに誰かがきれいに書き表してくれたみたいだったからだ。
「どうだ」
お父様に問われて、私は便箋を丁寧に戻した。
「……十分すぎるほどです」
声が少しだけ低くなる。でも、震えてはいなかった。
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
お父様は短く言われる。
「こちらがするべきことをしているだけだ」
その言葉を聞いて、私はひどく静かな気持ちになった。
するべきこと。
今までの私は、たぶんそこを履き違えていたのだろう。
黙ること、譲ること、角を立てないことが、するべきことだと思っていた。
けれど違った。守るべきところを守り、終わらせるべき時に終わらせることもまた、ちゃんとした“するべきこと”なのだ。
「先方は、素直に受けるでしょうか」
私がそう尋ねると、お父様は少しだけ口元を固くされた。
「受けたくはないだろうな」
率直な返事だった。
「事業のつながりもある。世間体もある。向こうから望んだ縁でもある。簡単に引き下がる話ではない」
「ですが」
「だが、引かせる」
その一言に、私は黙った。
力のある言葉だ。大声でもなく、乱暴でもない。ただ、決めた人の声だった。
ハロルド兄様がそこで、机の端に置かれた別の紙を示した。
「こちらから使者を立てる。書状だけでは、先方が都合よく解釈しかねない」
私はそちらを見た。
封筒の表には、すでにグランヴィル家の名が書かれている。
「もうそこまで」
「当然だ」
兄様の返事もまた早かった。
「向こうは“少し時間を置けば”で済ませたがっている。ならこちらは、“もう時間の問題ではない”と形で示す」
私はその言葉に、少しだけ息をついた。
いよいよ本当になる。
そのことが、怖くないわけではない。婚約というものは、整ったら整ったで重みがあり、壊れるなら壊れるでまた別の重みがある。
でも、戻りたいとは思わなかった。
「イブリン」
お父様が私を呼ばれる。
「はい」
「この書状が出れば、向こうは動く。父親が来るかもしれんし、夫人がもう一度何か言ってくるかもしれん。リチャード本人が、何とかして話そうとする可能性もある」
私はまっすぐ頷いた。
「はい」
「だが、お前が応じる必要はない」
お父様はゆっくり言われる。
「向こうがどれだけ“二人で話を”と言っても、それはもう済んだ話だ」
その“済んだ話だ”が、ひどく心強かった。
済んだ。
たしかに、私の中ではもう、かなり前から終わりに向かっていたのだ。
手紙が積もるたび、約束が消えるたび、少しずつ。いまはただ、それが家としても正式に終わる形になるだけなのだろう。
「分かりました」
そう答えると、お父様は便箋を封筒へ入れられた。
その動作はゆっくりで、少しの乱れもない。封蝋があたためられ、家の印章が押されるまで、私はずっとそれを見ていた。
赤い蝋が押し固められていくのを見た時、不思議な気持ちになった。
何かが切れる、というより、ようやく形になる感じだった。
「これで出す」
お父様は封筒を机の上へ置かれた。
私はその赤い印を見つめたまま、小さく頷いた。
ハロルド兄様が、少しだけ声音をやわらげて言う。
「今日はもう、それでいい」
「はい」
「余計なことは考えるな、と言っても無理だろうが」
そこまで言って、兄様はほんのわずかに口元をゆるめた。
「少なくとも、次に来るものを一人で受けるつもりではいるな」
「……はい」
私はもう一度答えた。
書斎を出る時、扉のところで一度だけ振り返る。
お父様はすでに執事を呼んでいらして、封筒はその手へ渡されるところだった。
もう止まらないのだと思うと、胸の中にひやりとするものと、逆に落ち着くものとが同時にあった。
廊下へ出ると、夕方の光はだいぶ傾いていて、窓の外の空が薄く金色になっていた。
私はそのまま、すぐには歩き出さなかった。
婚約解消。
口にしたことは何度もある。頭でもずっと考えてきた。
けれど、お父様の手で正式な書状になった今、その言葉は今までよりずっと重く、そして、ずっと静かだった。
もう戻らない。
それを改めて思っても、涙は出なかった。
ただ、長く首に巻きついていたものが、ようやく外れはじめたみたいな感覚だけがあった。




