34 お父様の書状
その翌日の午後、私はお父様に書斎へ呼ばれた。
呼びに来たのは執事で、用向きは多くを言わなかった。けれど、いまこの時期にお父様が私をお一人で書斎へ呼ばれるとなれば、何の話かはだいたい分かる。
廊下を歩きながら、私は思っていたより落ち着いていた。
緊張していないわけではない。
でも、それは何かを言い渡される怖さではなくて、いよいよ本当に形になるのだという緊張だった。
書斎の扉を開けると、お父様は机の向こうではなく、窓際の小さな卓のほうにいらした。
ハロルド兄様もいて、暖炉のそばに立っている。
ジョン兄様の姿はない。たぶん、わざと外してあるのだろう。
こういう場で余計なことを言わないように、という意味もあるかもしれないし、これはまず家の正式な話だから、ということかもしれなかった。
「お入り、イブリン」
「はい、お父様」
私は勧められた椅子へ腰を下ろした。
卓の上には、まだ封をしていない便箋が置かれている。
書きかけではなく、きれいに書き上げられたものだった。その隣に、インク壺とペーパーナイフ、それから吸い取り紙。
私は、その便箋からすぐに目をそらした。
まだ読まなくても分かる。婚約のことだ。
お父様は椅子に深くもたれず、背筋をまっすぐにしたまま私をご覧になった。
「まず、お前の気持ちをもう一度だけ確かめる」
低く落ち着いた声だった。
「はい」
「婚約の解消について、考えは変わらないか」
私は、その問いを正面から受けた。
少し前までなら、こう聞かれた時に胸のどこかが揺れたかもしれない。
家同士のこと、世間体、今までの時間、そういうものが頭をかすめて、返事の前にひと呼吸要っただろう。
けれど今は違った。
「変わりません」
自分でも驚くほど、声は安定していた。
「私は、もうあの婚約を続けたくありません」
お父様は頷かれた。
それだけだった。念を押すでもなく、本当にいいのかと重ねるでもなく、ただ受け取る頷き方だった。
「分かった」
その一言で、胸の内の何かが落ち着いた。
ハロルド兄様も何も言わない。けれど、暖炉のそばに立ったまま、少しだけ肩の力を抜いたのが分かった。
お父様は卓の上の便箋へ手を伸ばされた。
「では、こちらから先方へ正式に申し入れる」
私は、その紙を見るともなく見つめた。
「書いてあるのは、まず第一に、お前本人に婚約継続の意思がないということだ」
お父様は便箋を持ち上げる。
「第二に、これは若い者同士の一時的な行き違いではなく、度重なる約束の軽視と、そのたびにお前へ理解と譲歩ばかりが求められてきた結果であること」
私は膝の上で指先を重ねた。
書き方は静かなのに、内容は少しも曖昧ではない。
それが、お父様らしかった。
「第三に」
お父様は続けられる。
「先方の従妹君の事情がどうであれ、それを理由に婚約者へ負担を流し続ける構図は、今後の縁組を考える上でも看過できない、とした」
私はゆっくり息を吸う。そこまで入れてくださるのだと思うと、ありがたかった。
“娘が感情的になっている”のような受け取られ方を、ここできちんと塞いでくださるのだ。
「それから、もうひとつ」
お父様の声音が、少しだけ固くなる。
「今後この件について、お前へ直接働きかけることは控えるよう求める」
私は思わず顔を上げた。
「そこまで」
「当然だ」
お父様はまったく迷わず言われた。
「花を送る、手紙を寄越す、偶然を装って顔を合わせる。そういったことを許しておく理由はない」
その言い方は静かだった。
でも、たぶんお父様は、そこをかなり重要に見ていらっしゃるのだ。
そこでハロルド兄様が口を開く。
「向こうはまだ、“話せば戻る”と思っている節がある」
「ええ」
私は頷いた。
「リチャード様は、きっとそうお考えだと思います」
「ならなおさらだ」
兄様の声は冷たかった。
「会わせれば、また事情だの誤解だのと言い出すだろう。お前がそれに付き合う必要はない」
私はその言葉に、胸のあたりが少しほどけるのを感じた。
ずっと、何か来るたびに受けなければならないような気がしていたのだ。
婚約者だったのだから、無視してはいけないのではないか? 家同士のことだから、どこかで顔を合わせるのは仕方ないのではないか?――とか。
けれど、そうではない。
もう、そこまでしなくていい。




