32 兄の報告
その夜の夕食は、思っていたより静かに進んだ。
重たい話が家の中にあるときほど、食卓ではかえって当たり障りのない会話が交わされることがある。
お父様は昼の来客の話を少しなさり、キャサリン姉様は仕立て屋の手が遅いと軽くこぼし、ジョン兄様は新しく入った菓子職人の焼き菓子を褒めていた。
私もちゃんと食べた。
食べる、ということに少し意味がある気がした。こういう時に食欲まで失くしてしまうと、いよいよ自分が出来事に呑まれていく感じがするからだ。
食後、お父様は書斎へ戻られ、お兄様たちもいったん席を外した。
私はそのまま母とキャサリン姉様と一緒に、小さな居間へ移った。ここで出るのは、夕食の締めのための軽いお茶だ。紅茶の香りも、部屋の灯りも、いつも通りだった。
いつも通りなのに、空気の端にだけ、まだ話し残したものがある。
お母様は、侍女が下がるのを待ってから口を開かれた。
「さっきは自室で少しだけ話したけれど、キャサリンにもきちんと聞いてもらったほうがいいと思って」
私は頷いた。
昼間、お母様から聞いたことを、私はもう一度姉様の前で話すことになった。
外では思っていたよりエミリーが出歩いていること。集まりの席で、相手や話題によって驚くほど調子が変わるらしいこと。グランヴィル夫人が、そのたびにやわらかく場を整えてしまうこと。
キャサリン姉様は途中で口を挟まず、最後まで聞いてくださった。
「やっぱり、そうでしたのね」
とおっしゃったのは、話がいったん切れたあとだった。
私はその声に、少しだけ顔を上げる。
「姉様も、そうお思いに?」
「ええ」
キャサリン姉様は、ティーカップの縁を指先でそっとなぞられた。
「鏡越しに見た時だけでも、十分に妙でしたもの。でも、あの時はまだ、私たちがたまたまそう見ただけかもしれないとも思えたのよ」
「わたくしもです」
「でも、外で似たような話が自然に出てくるなら、もう“たまたま”では済まないわ」
お母様が小さく息をつかれる。
「ええ。そこがいちばん大きいと思ったの。何かを悪く言いたくて話しているのではなくて、皆さま、何となく違和感を持ったことを“そういえば”の形で口になさるのよ」
私はその言葉を聞きながら、昼間の安堵に似たものがまた胸へ落ちてくるのを感じていた。
自分だけではない。見た人は見ている。
それだけで、ずいぶん違う。
その時、廊下のほうで足音がして、次の瞬間、ジョン兄様が何の遠慮もない顔で入ってきた。
「まだお茶やってる?」
「見れば分かるでしょう」
キャサリン姉様が言う。
「だって、今ならちょうどいいと思って」
そう言いながらジョン兄様は空いている椅子へ腰を下ろした。少しだけ口元が妙だった。いつもの軽い調子が全然ないわけではないけれど、その下に、何か面白くないものを持ってきた顔をしている。
お母様がそれを見て、すぐに察したらしい。
「何か聞いたのね」
「うん」
ジョン兄様は頷いた。
「ちょっと嫌なやつ」
私は思わず、膝の上で手を重ねた。
「どんなお話ですの」
「若いのが集まるほうの話だから、言い回しは少し雑だよ」
前置きしてから、兄様は私を見た。
「でも、たぶん聞いといたほうがいい」
私は頷いた。
ジョン兄様は、夕方立ち寄った先で耳にしたことを話してくれた。
リチャードの名が出ると、いま若い男性たちのあいだでは、半ば冗談めかして“ああ、従妹の方の”という空気になること。
エミリーが同席する場では、最初はとても大人しそうにしていても、自分が気に入った相手には妙に距離が近くなること。反対に、相手が自分へ注意を向けないと、急に具合が悪そうになること。
私は、一つひとつを黙って聞いていた。
「露骨に悪い噂ってほどじゃないんだ」
ジョン兄様は言う。
「でも、“何か変だよね”って認識はもうある。で、男のほうは、ああいうの苦手なやつ多いから、わりと避けてる」
「避けている……」
「うん。だってさ、急に頼られたかと思うと、別の誰かが来た瞬間そっちへ甘い声出すような相手、面倒くさいでしょ」
キャサリン姉様が、ほんの少し眉を寄せられる。
「言い方はもう少し選びなさい」
「選んでるよ、一応」
ジョン兄様はそう返したが、そこは本題ではなかった。
「で、そこへ毎回ひっかかるのがリチャードなんだって」
その一言に、部屋の空気が少し変わった。




