3 婚約者リチャードの来訪
お母様が部屋を出てからも、私はしばらく鏡の前に立ったままだった。
帽子の飾りを外して、真珠の耳飾りを小箱へ戻して、片方だけはめていた手袋も脱ぐ。
そうやって支度をほどいていくうちに、さっきまで胸の内にあったはずの外出の楽しみが、指のあいだからこぼれていくみたいだった。
こういう時に嫌なのは、約束そのものが駄目になったことだけじゃない。
そのために整えていた時間まで、一緒にしぼんでしまうことだ。
鏡の中の私は、少し前までの私とほとんど同じ顔をしていた。
髪も乱れていないし、頬の色だってまだ残っている。
なのに、ついさっきまでの気分だけが、すっかりどこかへ消えていた。
机の上には、リチャードからの手紙が置いてある。
『ごめん! エミリーが今日は熱を出したから……』
最初の一文だけでも、もう十分だった。続きを読み返す気には、どうにもなれない。
私は便箋に手を伸ばしかけて、やめた。
読み返したところで文面が変わるわけでもないし、私の気持ちが軽くなるわけでもない。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様」
メアリの声だった。
「どうぞ」
入ってきたメアリは、いつもよりわずかに言いにくそうな顔をしていた。
こういう時の彼女は、こちらが何を聞かされるのか、自分でも分かっている顔をする。
「……リチャード様が、お見えです」
「今?」
思わず聞き返してしまった。
「はい。どうしても直接お話ししたいと」
私は一瞬、何も言えなかった。
来られないと手紙を寄越しておいて、その日のうちに訪ねてくる。
丁寧と言えば丁寧なのだろう。
けれど、その丁寧さが少しもこちらの心に沿っていないから、かえってたちが悪い。
たぶん彼の中では、きちんと説明しに来た、自分は誠実だ、くらいのつもりなのだろう。
そう思うと、腹立たしいというより、妙に白けた。
「どちらに?」
「応接間にお通ししております。奥様が」
お母様らしい、と思った。
逃げるな、でも曖昧に丸めるな、ということなのだろう。
「……分かったわ。すぐに行きます」
メアリが一礼して下がる。
扉が閉まってから、私はもう一度鏡を見た。
泣いたあとのような顔ではない。怒って真っ赤になっているわけでもない。
ただ、朝より少しだけ表情が固い。
でも、それでいい。
いまさら取り繕って、やわらかい顔を作る気にはなれなかった。
私はスカートの皺を軽く撫でて、部屋を出た。
応接間へ向かう廊下は、昼と夕方のあいだの半端な明るさに包まれていた。窓から入る光はもうやわらかくなっていて、壁に掛けられた額縁の金の縁だけを鈍く照らしている。
その廊下を歩きながら、私は不思議なくらい落ち着いていた。
数時間前までの私なら、婚約者が来たと聞けば、もう少し素直に心が動いただろう。
どんな事情であれ、会えるのだと思って、少しは嬉しくなったかもしれない。
けれど今は違う。
彼は約束を違えた人として、ここにいる。
しかもたぶん、自分がどれだけ私を軽く扱ってきたのか、ろくに分からないままで。
そう考えると、胸の内が妙に静かになっていった。
荒れるというより、冷める、というほうが近かった。
応接間の扉の前で一度だけ息を整え、私は中へ入った。
リチャードは、私の姿を見るとすぐに立ち上がった。
相変わらず見栄えのする人だった。
濃紺の上着もよく似合っているし、髪もきちんと整えられていて、こうして立っているだけなら社交界で褒められる要素がひと通り揃っている。
けれど、その整った顔に浮かんでいる表情を見た途端、私はひどく醒めた。
困ったような、申し訳なさそうな、それでいてどこか甘えた顔。
あれは、叱られに来た顔ではない。
事情を話せば分かってもらえると思っている人の顔だ。




