2 温かい母の言葉
私は机の上に置いた手紙を、あらためて見下ろした。
「埋め合わせは必ずする、ね……」
口に出してみると、その文句の軽さがいっそう際立つ。
リチャードはきっと、嘘をついているつもりはないのだろう。
本気でそう思って書いているのだと思う。思うからこそ、かえって始末が悪い。
「また、お断りでしたか」
不意にかけられた声に振り向くと、母が扉のところに立っていた。
いつからそこにいたのだろう。
私が返事をするより先に、母は室内へ入り、鏡の前に置かれた帽子や、手袋、そして机の上の開いた手紙をひと目見て、おおよその事情を察したらしかった。
「ええ」
私はそう答えた。
「エミリー様が、今日は熱を出したそうで」
母は眉をわずかに寄せた。
露骨に顔をしかめるほどではない。けれど、その沈黙には、聞き飽きたという気配が確かにあった。
「……そう」
短い相づちのあと、母は私のそばへ歩み寄る。
そのまま鏡台の前に立つ私を見て、片方だけはめた手袋に目を留めた。
「出かける支度は、ほとんど済んでいたのね」
「はい。ちょうどこれから耳飾りをつけようと思っていたところでした」
そう言って、私は真珠の粒をひとつ摘まみ上げた。
指先で光が転がる。白く、丸く、きれいだった。
きれいなものほど、こういう時には少しだけ腹が立つ。
「リチャード様から、お詫びは?」
「ええ、《《一応は》》。埋め合わせをすると」
母はそこで、ほんの小さく息をついた。
それは呆れにも似ていたし、怒りにも似ていた。けれどどちらでもなく、もっと長い時間を経たあとの疲れのようにも思えた。
「イブリン」
「何でしょう、お母様」
「あなたは、あの方に対して、ずいぶん我慢強く《《してきた》》わね」
私は少しだけ目を伏せた。
我慢強く。
その言葉はたぶん正しい。正しいけれど、褒め言葉のようには聞こえなかった。
「婚約というものは、多少の行き違いがあっても、すぐ顔に出すものではありませんもの」
「そうね。けれど、いつでも黙って受け入れることが、美徳とは限らないわ」
母の声は静かだった。
静かなのに、その言葉は思いのほか真っすぐこちらへ届いた。
私は思わず、手にした耳飾りをまた鏡台へ戻した。
かすかな音がして、白い粒がもう一つの隣へ収まる。
「私、別に、怒っているわけではないのです」
口に出してみて、自分でも少しおかしかった。
怒っていない、はずがない。
ただ、その怒りが表へ出る前に、がっかりする気持ちや、呆れる気持ちや、もう何も言いたくない気持ちが先に積もってしまって、どれをどう言えばよいのか分からなくなっているだけだ。
母はそんな私を見て、やわらかく、けれど容赦のない目をした。
「そう。では、悲しいのね」
その言い方に、私はすぐには返事ができなかった。
悲しい。
そう言われると、それも少し違う気がする。
もっと乾いたものだと思っていた。けれど、違うと言い切れないくらいには、心のどこかがひりついていた。
「……分かりません」
ようやく出たのは、それだけだった。
「分からなくなるほど、我慢してしまったのよ」
母はそう言って、私の肩にそっと手を置いた。
「イブリン。あなたは、婚約者の身内の事情にまで、何もかも付き合って差し上げる必要はないのよ」
その言葉を聞いたとたん、胸の奥に、かすかに風が通った気がした。
――そうだ。まさに、そこなのだ。
エミリーが病弱であろうと、気難しかろうと、寂しがりであろうと、本来それはリチャード側の事情であって、私が何度も予定を潰されて当然の理由にはならない。
けれど、いざそれを自分で認めようとすると、どこかでためらってしまっていた。
思いやりのない女だと思われたくなかったし、婚約者の身内に冷淡だと見なされるのも厄介だったからだ。
けれど、母はそこをためらわなかった。
「お母様……」
「今日はもう、その格好をほどいてしまいなさい。せっかく整えたのに腹立たしいでしょうけれど、そのままでいると気持ちまで宙に浮くわ」
私は小さく笑った。
たぶん今日、初めて少しだけ自然に笑えたのだと思う。
「そういたします」
「夕食のあと、少しお話ししましょう。お父様にも、ハロルドにも、ジョンにも、キャサリンにも、そろそろきちんと伝える時かもしれないわ」
その言葉に、私は母の顔を見た。
叱られるでもなく、諭されるでもなく、ただ“伝える時かもしれない”と言われたことが、思いのほか心に残った。
いままで私は、自分が我慢すれば済むことだと思っていた。
家のためにも、そのほうが穏やかだと。
けれど、穏やかだったのは表面だけだったのかもしれない。
母は私の頬をひと撫でして、それ以上は何も言わずに部屋を出ていった。
扉が閉まったあと、私は鏡の中の自分を見つめた。
片方だけ手袋をしたままの、少し滑稽な姿だった。
けれど、そのちぐはぐさが、今の自分には妙に似合っている気もした。
私はゆっくりと、もう片方の手袋に手を伸ばした。




