29 きょうだいだけの話②
私は膝の上に置いた自分の手を見た。
たしかにそうだ。知らせなかった、言わなかった、若いから背負わせなかった。そういうもっともらしい言い方の結果、何も知らない婚約者だけが待たされ、譲らされてきた。
「ほんとさあ」
ジョン兄様が天井を見上げる。
「イブリンじゃなかったら、もっと早く揉めてたと思うよ」
「それはそうでしょうね」
キャサリン姉様が即答された。
「わたくしだったら、三回目くらいでお母様に言っているもの」
「三回も待つの?」
「一回目は様子見、二回目は警戒、三回目で十分よ」
「姉様、容赦ない」
「当たり前でしょう」
その言い方がおかしくて、私は少し笑ってしまった。
するとキャサリン姉様が、ふっと表情をやわらげた。
「でも、あなたが悪いわけじゃないのよ、イブリン」
その言葉に、私は笑いかけた口元を少し止めた。
「頭では分かっております」
「頭だけでなくて、ちゃんとそう思ってちょうだい」
姉様はまっすぐ私を見る。
「あなたは我慢しすぎた。でも、それは“我慢できるからもっと我慢しなさい”の意味ではないの。向こうが勝手にそう扱っただけよ」
私はすぐには返事ができなかった。
たぶんまだ、どこかで残っているのだ。もう少し早く何か言えたのではないか、とか。病弱な従妹という話に、もう少しうまく付き合えたのではないか、とか。そんな、役に立たない考えが。
けれど、ジョン兄様まで珍しく真顔で言った。
「ほんとにそう。イブリンさ、たぶん相手がまっとうなら、それで十分うまくやれてたんだよ」
「え?」
「お前、別にわがままじゃないし、気も利くし、相手の事情も見ようとするし。普通の相手ならかなり当たりの婚約者だって」
「ジョン」
ハロルド兄様が少しだけ眉を動かす。
「何だよ、本当だろ」
「言い方が軽い」
「でも本当じゃないか」
そう言って兄様は私を見る。
「問題は、お前が足りなかったことじゃなくて、向こうがそれを当然だと思ったことだよ」
私は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
こういう時のジョン兄様はずるい。
普段は少し軽くて、調子のいいことも言うのに、たまにこうやってまっすぐなことを言うから、余計に胸に残る。
ハロルド兄様も、結局は小さく頷いた。
「その通りだ。まともな家なら、婚約者の辛抱を“便利”とは読み違えん」
そこまで言われると、さすがに私は顔を上げていられなくなって、少しうつむいた。
「ありがとう、ございます」
「そこは礼じゃないわ」
キャサリン姉様が言う。
「家族なのだから当然でしょう」
その“当然”が、今日もまたありがたかった。
少し間が空いて、暖炉の薪が小さく鳴る。
それからジョン兄様が、今度は少し違う調子で言った。
「でもさ、正直ひとつだけ気になるんだけど」
「何?」
キャサリン姉様が聞き返す。
「リチャード、今どこまで分かってないんだろうね」
私は思わず顔を上げた。たしかに、それは気になる。
気になるけれど、考えると少し疲れることでもあった。
「分かっていない、とは」
ハロルド兄様が問う。
「いや、婚約がまずいってことはさすがに分かってるでしょ。でも、自分が何をしたかの中身まで分かってるのかって話」
ジョン兄様は肩をすくめる。
「たぶんあいつ、“エミリーを助けたこと”と“イブリンを後回しにしたこと”を、まだ同じ箱に入れてるよね」
「ええ」
私は静かに答えた。
「きっと、そうです」
あの人は、善意だった、と言いたがるだろう。気づかわなければならない相手がいた、と。事情があった、と。
そういう説明の中に、自分が私へ何をさせたのかは、たぶん薄くしか入っていない。
「だとしたら」
キャサリン姉様が言われた。
「今ごろ、ずいぶん不本意でしょうね」
「不本意、で済めばいいけどな」
ハロルド兄様の声は冷たかった。
「自分は悪人ではない、ただ事情があっただけだ、と思っている人間は、相手が離れた時に妙な正義感を持ちやすい」
私はその言葉に、少しぞくりとした。
妙な正義感。
たしかに、ありそうだった。
僕は悪くない、誤解されている、きちんと説明すれば分かってもらえる。
あの人は、そういう方向へ行きそうな顔をしていた。
ジョン兄様も同じことを思ったらしく、嫌そうな顔をした。
「うわ、ありそう」
「ありそうで済ませるな」
「だってありそうなんだもん」
それから兄様は私を見た。
「でも安心して。来ても会わせないから」
その言い方があまりに当然で、私は少しだけ笑った。
「頼もしいですわね」
「頼もしいよ、僕」
「自分で言うのは少しださいわ」
キャサリン姉様に言われて、ジョン兄様が「姉上は厳しい」とぼやく。
そのやりとりがおかしくて、今度はもう少し自然に笑えた。
ハロルド兄様はそんな私たちを見て、ようやく少し表情をゆるめた。
「ともかく、しばらくは家の中だけで抱え込むな。何かあればすぐ言え」
「はい」
「それから」
兄様は少し言いにくそうにしながら続けた。
「今日のお前の話を聞いて、私も見方を変えた。あの家は、単に縁談相手として不適当というだけではない。関わり方そのものを誤ると面倒だ」
その言い方は、いかにもハロルド兄様らしかった。
怒りを言葉にしすぎず、それでも危険なものは危険だときっちり置く。
「だから、お前が一人で向こうと向き合うことは、もうないと思っていろ」
私は、その言葉をゆっくり聞いた。
一人で向き合わなくていい。
何度ももらっているはずの安心なのに、そのたびにちゃんと効く。
「はい」
そう答えると、キャサリン姉様が立ち上がった。
「では、この話はひとまずおしまい。これ以上続けると、ジョンが妙に張り切って明日にでもグランヴィル家のまわりをうろつきそうだもの」
「そこまで暇じゃないよ」
「どうかしら」
「どうかしら、じゃない」
兄妹のそんな応酬を聞きながら、私はようやく肩の力を抜いた。
ぶっちゃけた話ばかりだった。
きれいごとではないし、少し言葉の悪いところもあった。けれど、だからこそ助かった気がする。上品な慰めで撫でられるより、ずっと息がしやすかった。
立ち上がる時、私はふと思った。
あの家には、たぶんこういう話し方をする兄妹はいないのだろう。
誰かが困っても、誰かが曖昧に整えて、誰かが見ないふりをして、それで何となく日が過ぎていく。そんな家なのかもしれない。
そう考えると、ますます戻りたくなくなった。
でもそれは、もう悲しいだけの気持ちではない。むしろ、はっきり分かったことへの安堵に近かった。




