26 見てしまったものは
屋敷へ戻るころには、空がすっかり夕方の色に変わっていた。
玄関の扉をくぐった時、ようやく足元は自分のものに戻った気がした。
外套を脱いで、帽子を侍女へ渡して、それでもまだ、通りの向こうを鏡越しに見た時の感触が背のあたりに薄く残っている。
私はそのまま自室へ引き上げるつもりでいたのだけれど、キャサリン姉様はそうはなさらなかった。
「お父様にお話ししておきましょう」
静かな声だった。その静かさが、かえって逆らいにくい。
「今すぐですか」
「ええ。今すぐ」
私は少しためらった。
少し休みたい気持ちはあったし、あれをもう一度言葉にするのも、正直あまり気が進まなかった。
でも、姉様の顔を見ていると、ここで曖昧にしてはいけないのだと分かる。
「……分かりました」
書斎へ行くと、お父様はちょうど何か手紙を読んでいらした。
ハロルド兄様もいて、暖炉のそばに立っている。ジョン兄様は窓辺に腰をかけるようにして、何やら新聞を眺めていたけれど、私たちが入るなり顔を上げた。
「どうした」
お父様がそうおっしゃる。
その問いに、キャサリン姉様が私より先に口を開かれた。
「出先で、少し見てしまったものがございますの」
部屋の空気がわずかに変わった。
私は勧められるまま椅子へ座ったけれど、すぐには言葉が出なかった。
何から話せばよいのか、自分でも少し迷ったからだ。ボンド街で見かけたことから話すべきか、鏡越しだったことから言うべきか、それとも、もっと手前の、ミセス・ハワードのおしゃべりから順に置くべきか。
迷っているうちに、キャサリン姉様がやわらかく言われた。
「イブリン、急がなくていいわ。順番に話して」
その声に押されるように、私は口を開いた。
「ティールームで、ミセス・ハワードに会いましたの」
そこから、私はできるだけそのままを話した。
先日、リチャードとエミリーを見かけたと、悪気なく教えられたこと。
帽子店で、エミリーが熱心に品を選んでいたと聞いたこと。
それだけでもう気持ちは重くなっていたのに、そのあと入った帽子店の鏡越しに、通りの向こうの二人を見てしまったこと。
話しているあいだ、部屋の中はひどく静かだった。
誰も口を挟まず、急かさず、ただ聞いている。だからこそ、私も途中で曖昧にせずに済んだ。
「……リチャード様が店員に支払いをしている時、エミリー様は別の品を指して、何かおっしゃっていました。はっきりしたお顔で」
自分で口にすると、またあの時の鏡の光景が浮かぶ。
「でも、リチャード様が振り向かれた途端に、急に……何と申しますか、頼りなさそうなお顔に戻られて」
私はそこで少し黙った。言葉が足りない気がしたからだ。
芝居、とは言いたくない。そこまで断じることは、まだ私にはできない。
けれど、違った、としか言いようがない。
「別の方みたいでした」
やっとそう言うと、キャサリン姉様がすぐに頷かれた。
「私も見ましたわ」
その一言に、私は少しだけ肩の力が抜けた。
「イブリンの見間違いではありません。少なくとも、リチャード様がこちらを向いていない時と、向いた時とで、エミリー様の様子は変わって見えました」
ハロルド兄様の表情が、目に見えて冷えていった。
「なるほどな」
それだけだった。でも、その短い言葉の中に、呆れと警戒とがちゃんと入っていた。
ジョン兄様が新聞を膝へ投げ出す。
「うわ……気味悪いね」
あまり飾らない、兄様らしい言い方だった。けれど私は、その率直さに少し救われた。
そう感じたのが、自分だけではなかったと分かるからだ。
「気味が悪い、というのは言いすぎかもしれません」
私はそう言ったけれど、自分の声にはあまり自信がなかった。
お父様がそこで初めて口を開かれる。
「いや。そう感じるのも無理はない」
私は顔を上げた。
お父様は少し考えるような目をしていらした。
怒っているというより、物事の組み立てを変えた時の顔だった。
「病弱であることと、人の前で見せる顔が変わることは別だ」
落ち着いた声だった。
「しかも、それを息子が見抜けていない。親も承知の上で曖昧に抱え込んでいる。そういう家へ、お前をやれるかと問われれば、答えはますます簡単になるな」
その言葉は、静かだったのにひどくはっきりしていた。
ますます簡単になる。
つまり、もう駄目だということだ。
私はそれを聞いて、胸の奥にあった小さな揺れがまたひとつ消えるのを感じた。
「お父様」
「何だ」
「私、エミリー様のことを、ただ悪い方だと決めつけたいわけではありませんの」
そう言わずにはいられなかった。
それを口にしないと、自分がただ感情的になっているみたいで嫌だったのだ。
「ええ、分かっているわ」
先に答えたのはお母様だった。
いつの間にか書斎へ入っていらしたらしい。私の後ろへ静かに来て、そのまま隣へ座られる。
「でも、だからといって、見てしまったものまで打ち消す必要はないのよ」
私はその言葉に、ゆっくり頷いた。
「見てしまったものは、見てしまったものですものね」
キャサリン姉様がそうおっしゃる。
「それに」
ハロルド兄様が続けた。
「問題はエミリー嬢ひとりじゃない。そういう相手を長く預かって、しかもろくに扱いきれていない家のほうだ」
私はその言い方に、はっとした。
そうだ。
つい、鏡の向こうのエミリーばかり考えてしまっていたけれど、本当にまずいのはそこだけではない。
もしエミリーが人に応じて顔を変える人なのだとして、それをそのまま家の中へ置き、息子を巻き込み、婚約者にしわ寄せしてきたのはグランヴィル家のほうなのだ。




