25 彼は気付いていないのだ
「姉様、ご覧になりました?」
「ええ」
姉様は短くおっしゃった。
「十分に」
その返事に、私はようやく鏡越しに見たものが、自分だけの見間違いではなかったのだと知った。
「私……何だか、少し怖かったのです」
言いながら、背のあたりがひやりとした。
「大げさかもしれませんけれど、さっきまでと違う方を見たみたいで」
「大げさではないわ」
姉様はすぐにそうおっしゃった。
「少なくとも、私にも、あの方がリチャード様の前で見せる顔と、そうでない時の顔が違うようには見えたもの」
私は黙った。
やっぱり、と思う一方で、その“やっぱり”を認めるのが少しだけ嫌だった。
病弱な従妹を一方的に悪く取りたいわけではない。そういう気持ちは、まだどこかにある。
けれど、さっき鏡の向こうで見たものは、ただの気のせいとして片づけるには、あまりにもはっきりしていた。
「リチャード様は」
私は唇を湿らせてから続けた。
「お気づきではないのでしょうね」
「たぶん、気づいていないでしょうね」
キャサリン姉様の声は、少しも驚いていなかった。
「気づかないからこそ、ああしてずっと連れ歩けるのでしょうし」
その一言で、胸の中にあったものが、すとんと落ちた。
そうだ。
気づいていないのだ。
自分が何を見せられているのかも、何を信じ込まされているのかも、そのせいで誰を後へ回しているのかも。
「……でも、気づいていないからといって」
そこまで言って、私は言葉を切った。
姉様がその先を待ってくださる。
「それで済むわけではありませんわね」
言い終えた時、自分の中で何かが、ひどく静かに定まった気がした。
知らなかったから。騙されていたのかもしれないから。
そういう言い訳を、私はもう彼に与えたくなかった。
たとえ本当に気づいていないのだとしても、私との約束を何度も後に回してきたのはリチャード自身だ。
私が悲しんでいるのに、自分のほうの事情ばかり説明して済ませようとしてきたのも、やっぱりあの人だった。
姉様が、私の手を軽く握る。
「見てしまってよかったのよ」
「そうでしょうか」
「ええ」
きっぱりした声だった。
「見なければ、またどこかで“私の考えすぎかもしれない”と思ってしまったでしょう」
私はその言葉に、返事ができなかった。
まさしくその通りだったからだ。
家の中で手紙を読んでいるだけなら、まだ“具合が悪いのだから”“不安定なのだから”と自分に言い聞かせる余地があった。
けれど、外の店先で見たものは違う。
買い物をして、品を選んで、相手が振り向いた途端に頼りない顔へ戻る。
その切り替わりを見てしまった以上、私はもう前のようには考えられない。
通りのほうから、馬車の音が聞こえてきた。
人々の笑い声も、遠くでかすかに混じっている。街はいつも通り動いていて、私だけがそこで立ち止まっているみたいだった。
「帰りましょうか」
姉様がうながす。私は頷いた。
もう店を見る気にもなれなかったし、これ以上ここにいて、また向こうの姿が目に入るのも嫌だった。
馬車へ戻る途中、私は一度だけ通りの先を見た。
もうリチャードたちの姿は見えなかった。けれど見えないことが、少しも安心にはつながらなかった。
帰りの馬車の中で、姉様は無理に話しかけてこられなかった。
私は窓の外を見ていた。流れていく店先や石畳の色が、目に入っているのに、うまく形として頭に残らない。
代わりに残っているのは、鏡の中のエミリーの顔だけだった。
欲しいものを選んでいる時の、あのはっきりした目。リチャードが振り向いた瞬間に、すっと弱々しさへ戻った口元。
ぞっとするほど大きな何かではない。
けれど、小さいからこそ厄介な違和感だった。
屋敷へ着いたあと、玄関で外套を脱ぎながら、私はようやく姉様に言った。
「姉様」
「なあに」
「私、もう本当に、戻れません」
その言葉は、前にもどこかで思ったことのはずだった。
でも今は、その時よりずっと重みがあった。
キャサリン姉様は少しも驚かず、ただ穏やかに頷かれた。
「ええ。戻らなくていいわ」
その一言で、胸の奥がじんわりと熱を持った。
傷ついたのだと思う。呆れもした。
でもそれだけではなく、ようやく自分の目で見てしまったものがある。
そのことが、今まで曖昧だった部分を一気に固めてしまったのだ。
もう十分だ。
再びそう思った時、その言葉は前よりもずっと静かで、前よりもずっと動かなかった。




