20 もう十分ですわ
「リチャード様からも、ですか」
「もちろんだ」
お父様の声には少しも揺るぎがなかった。
「本人がまだ分かっていないなら、なおさらこちらがはっきり線――」
そこでお父様は一瞬だけ言いよどみ、言葉を変えられた。
「――けじめを示さねばならん」
私はその言い換えに、ほんの少しだけ気持ちがやわらいだ。
お父様の口から出ると、そういう言葉も妙に重みがある。
キャサリン姉様が、椅子の背に軽くもたれながら言う。
「でも、あちらはまだ押してくるかもしれませんわね」
「来るだろう」
ハロルド兄様が先に答えた。
「母親が出てだめなら、今度は父親か、そうでなければ本人だ」
「本人のほうがありそう」
ジョン兄様が言う。
「“誤解を解きたい”とか何とか言って」
その言い方があまりにもありそうで、私は口元をこわばらせた。
たしかに、そう言いそうだった。
自分ではきちんと説明したつもりで、それでも足りなかったのなら、もう一度話せばよいと考えそうな人だ。
けれど私は、もうあの人と何かを“解きほぐす”気にはなれなかった。
結び目があるなら、それはずっと前から向こうが作ってきたもので、今さら私ひとりの手ではどうにもならない。
「会いたくありません」
気づけば、私はそう言っていた。
お父様もお母様も、驚かなかった。
「会わせん」
お父様は短く言った。
「少なくとも、この件が片づくまで、お前は向こうと顔を合わせる必要はない」
それを聞いた時、背のあたりに入っていたこわばりがほどけるのを感じた。
会わなくていい。
その当たり前のことが、こんなにありがたく聞こえるとは思わなかった。
お母様が私のほうへ身を寄せる。
「イブリン。ここまで来てもなお、相手の事情を慮りすぎなくていいのよ」
「……はい」
「あなたはもう十分に考えたわ」
そう言われて、私は小さく頷いた。
十分。
ほんとうに、そうなのだと思う。
少し前までの私は、まだどこかで“自分が狭量なのではないか”と考えていた。
病弱な従妹がいて、婚約者がそちらを気にかけるのは当然なのではないか、と。
けれど、話がここまで来てみれば、あれはただの善意だけではなかった。
家の都合も、親の見通しの甘さも、面倒ごとを曖昧に押し込めるやり方も、全部まとめて私の上に流れてきていたのだ。
私はその流れを、ずっと受け止めていただけだった。
「先方は、わたくしを“賢い娘”だとおっしゃったのですよね」
ふと、応接間での言葉を思い出して私は言った。
お母様が少しだけ眉を寄せる。
「ええ」
「賢いなら、これくらいは飲み込めるだろう、という意味で」
口にすると、妙な苦さがあった。
でも、今はその苦さを避ける気になれない。
キャサリン姉様が、低い声で言う。
「賢い娘、ねえ。便利な娘、の言い換えでしょうね」
私は姉様を見た。
姉様は笑っていなかった。
「家の事情を察して、余計なことを言わず、黙って座りのいい場所へ戻ってくれる娘。あちらが欲しかったのは、たぶんそういう相手よ」
その言葉は残酷なくらいまっすぐだった。
でも、もう否定できなかった。
お父様が机から手を離す。
「ならばなおさら、この縁はここで終わりだ」
その口調は落ち着いていたけれど、言葉はまるで動かなかった。
私はその言葉を聞きながら、胸の内が静かになっていくのを感じた。
悲しさが消えたわけではない。長く婚約者だった人とのことだもの、まるで何もなかったみたいにはなれない。
でも、もう戻りたくはない。
その気持ちだけは、むしろ前より鮮明になっていた。
「お父様」
「何だ」
「もし、向こうからまた何か届いても、私には見せなくてかまいません」
言ったあとで、自分でも少し驚いた。
けれど、それは衝動ではなかった。
何かを怖がって目をそらしたいのでもない。ただ、もう同じ種類の言葉を何度も受け取る必要がないと思ったのだ。
少し待てば、落ち着けば、分かってくれるはずだ――そういうふうにこちらの気持ちを軽く扱う文面は、もう十分読んだ。
お父様は少しだけ私を見つめてから、頷いた。
「分かった。必要なことだけ、こちらで伝える」
その返事が、ひどく頼もしかった。
ジョン兄様が窓のほうを見やって言う。
「これで向こうがまだ来るなら、ほんとにもう家ぐるみだね」
「もう十分そうだろう」
ハロルド兄様の言葉に、私は小さく息をついた。
ええ、本当に。
今になってみれば、リチャードひとりだけがおかしかったのではない。母親も父親も、それぞれ別の顔をしながら、結局は同じところへ私を押し戻そうとしていた。
静かで、上品で、表向きは穏やかなまま。
そのやり方のほうが、かえって性質が悪い。
書斎を出る頃には、外の空はもう少しだけ明るくなっていた。薄曇りの向こうから、遅い午後の光がにじむように庭へ落ちている。
廊下へ出たところで、私はふと立ち止まった。
「イブリン?」
お母様に呼ばれて、私は振り返る。
「いえ……何だか、ようやく終わりのほうへ進んでいる気がして」
そう言うと、キャサリン姉様が少しだけ笑った。
「ええ。ちゃんと進んでいるわ」
その言葉を聞いて、私はようやく肩の力を抜いた。
終わりに向かっている。
そのことが寂しくないわけではない。けれど、ずるずる同じ場所へ引き戻されるより、ずっとましだった。
――もう十分ですわ。
心の中でそう呟いた時、その言葉は前よりも静かで、前よりも確かだった。




