21 リチャードの予想外
(俯瞰視点)
ヘレン・グランヴィルがアシュフォード家から戻ったのは、夕方もかなり遅くなってからだった。
屋敷の居間では、リチャードが待っていた。
本は開いているものの、ほとんど読んでいないことは誰の目にも分かる。
ページは同じところで止まったまま、時計の音ばかりが耳につくような待ち方だった。
母親の顔を見た途端、彼は立ち上がった。
「どうだった?」
待ちかねていた声音だった。
その調子に、ヘレンは少しだけ眉を寄せる。
こういうところが、息子の浅いところだと彼女は思っていた。自分が待っていたから、相手もまだ待っているはずだと、どこかでそういう前提に立ってしまう。
ヘレンは外套を侍女に預けながら、短く言った。
「よくはありませんでしたわ」
それだけで、リチャードの顔色が変わった。
彼はすぐに居間の中央へ戻り、母も向かいの椅子へ腰を下ろした。部屋の灯りはまだ控えめで、隅には夕方の影が残っている。
「イブリン嬢は、お考えを変える気はないようです」
ヘレンがそう告げると、リチャードは言葉を失った。
彼としては、少しこじれているだけのつもりでいた。
たしかに何度か約束を違えた。
しかしそのたびに事情はあり、説明もしてきたつもりでいる。
だからこそ、母が出向いて話せば、少なくとも“いったん静まる”くらいのことはあると思っていた。
それが、ない。
「そんなはずは……」
思わずこぼれた声は、否定というより、現実の悪さをまだ飲み込みきれない声だった。
ヘレンはその反応を見て、また小さく息をつく。
この息子は、人の気を損ねることはできても、その損ねた相手が本当に離れるところまでは、なかなか想像できない。
「そういう顔をするんじゃありません。上手くいかなかったのは事実ですけれど、だからといって今すぐ何もかも決まるわけではありません」
彼女はそう言った。
半分は息子を落ち着かせるため、もう半分は自分でもそう思いたかったからだ。
実際、ヘレンはまだ、どこかで事態を“収まる範囲”のものとして見ていた。
アシュフォード家の態度は固かったが、家同士の付き合いまで含めて考えれば、完全に切れるとはまだ思いたくなかったのである。
「でも、母上」
リチャードは身を乗り出した。
「僕がもう一度会って話せば」
「やめなさい」
ヘレンはすぐに制した。
「今のお前が出ていっても、余計に拗らせるだけです」
「そんな言い方は」
むっとしたように言い返しかけたが、ヘレンは構わず続けた。
「お前は昔からそうよ。目の前で弱っている人間がいると、ほかが見えなくなる。その時々では親切なのだけれど、その親切の外へ追いやられた相手のことは、後になってからしか考えない」
リチャードは不服そうな顔をした。
自分に非がまったくないとは思っていない。だが、彼の中では“仕方がなかった事情”のほうが、まだ大きい。
そこへ母から「今は黙っていなさい」と言われるのは、自分がひどく無力な人間にされたようで面白くないのだった。
「僕だって考えている」
「足りないの」
ヘレンは言い切った。
「それに、花も手紙も、もう気を晴らす道具にはなりません。あちらはそこまで来ています」
花、という言葉に、リチャードの顔がわずかに曇る。
今朝自分が送った花束も手紙も、返事はなかった。届いたかどうかすら、今の彼には分からない。
ちょうどその時、居間の扉のそばで小さな物音がした。
振り向くと、エミリーが立っていた。
白っぽい部屋着をまとい、肩に柔らかなショールを掛けている。昼間よりは顔色も戻っていたが、病み上がりらしい頼りなさはまだ残っていた。少なくとも、そう見える姿だった。
「ごめんなさい……お話し中だったのね」
控えめな声に、ヘレンは少しだけ表情を固くした。
エミリーは本家からの預かり物だ。
客というには長く居つき、家族というには厄介ごとが多すぎる。
だからこそ、露骨に邪険にもできないし、甘やかしすぎてもいけない。そう思いながら、結局は曖昧に扱ってきたのがグランヴィル家だった。




