19 でも今は違う
グランヴィル夫人が帰られたあと、私はしばらくそのまま応接間に残っていた。
立ち上がろうと思えば立てたのに、すぐには動く気になれなかったのだ。
お茶の香りはまだ部屋に残っているし、窓辺には午後の光が薄く差していた。
ついさっきまで向かいに人が座っていたはずなのに、その気配だけがきれいに抜け落ちて、妙に静かな部屋になっている。
「疲れたでしょう」
お母様がそうおっしゃって、私の前に置かれたカップをそっと脇へ寄せた。
「……少しだけ」
そう答えると、キャサリン姉様がふっと息をついた。
「少し、で済んでいるなら上出来よ。私だったら、もっと嫌な顔をしていたわ」
その言い方に、私はようやくわずかに笑った。
たしかに疲れた。
けれど、それ以上に、妙な澄み方をした気持ちが残っている。
あの方は最初から最後まで穏やかだった。声を荒らげることもなく、言葉もきれいだった。
なのに、話しているあいだじゅう、私はずっと、自分の気持ちが誰かの手で上から撫でつけられていくみたいな感じがしていた。
落ち着いて。賢く。家同士のことを考えて。
そういう言葉で、私がまた元の位置へ戻ると思っていらしたのだろう。
でも、もう戻れない。
「お母様」
「何かしら」
「私、あの方とお話しして、かえってはっきりしました」
お母様は黙って私を見つめる。
先を急がせない、その待ち方がありがたい。
「グランヴィル家では、たぶん、私が本当に嫌だったことが、最後までよく分かっていないのだと思います」
口にすると、それは思った以上にすんなり自分の中へおさまった。
「約束を一度破られたから腹を立てた、と思っていらっしゃるのではなくて?」
キャサリン姉様がそう言うので、私は首を振った。
「腹立たしさもありますけれど、それだけではありませんわ。あちらは、私が嫌だと思ったことを、時間を置けば薄れる程度のものと見ているのです」
お母様が静かに頷かれる。
「ええ。気持ちそのものを軽く見ているのね」
「たぶん、そうです」
私は膝の上に置いた手を見下ろした。
指先は落ち着いている。震えてはいない。
「リチャード様もそうでした。あの方も同じでした。どちらも、私が何を苦しんだのかより、どうすればこの場を丸く収められるかのほうを先にお考えになっているように見えました」
そこまで言ってから、自分でも少し驚いた。
前の私なら、ここまで言葉にしようとしなかった気がする。どこかで相手の事情を思って、曖昧なところへ逃がしていたはずだ。
でも今は違う。違う、と自分で分かる。
「それでいいのよ」
お母様が言った。
「ようやく見えたものを、また見えないふりをしなくていいの」
その言葉を聞いた時、胸の内で長く固まっていたものが、少しだけやわらいだ。
私は強がっているわけではない。冷たくなったわけでもない。
ただ、ようやく認められるようになったのだ。あの人たちのやり方では、私は大切にされないのだと。
部屋の外で、控えめな足音がした。少しして、執事が顔を出す。
「旦那様が、皆様そろって書斎へと」
私はお母様と姉様の顔を見た。
二人とも、何が来るのかもう分かっている顔をしていた。
書斎へ入ると、お父様のほかにハロルド兄様とジョン兄様もいた。
窓際の机の上には、書きかけの便箋が広げられている。インク壺のふたも開いたままだ。
お父様は私たちが入るのを待ってから口を開いた。
「グランヴィル夫人の様子を聞いた」
誰からとは言わなかったけれど、たぶん応接間の近くで控えていた使用人から、ある程度の話は届いているのだろう。
そういうことを、いまさら隠そうとも思わなかった。
「ええ」
お母様が答える。
「やはり、“少し行き違っただけ”にしたいようでしたわ」
お父様は予想していたらしく、特に驚いた様子を見せなかった。
「だろうな」
その一言が、かえって重かった。
この先どう出るか、もう考えていらっしゃるのだ。私はそう感じた。
「お前はどうだ、イブリン」
私はまっすぐお父様を見た。
「変わりません」
その返事には、自分でも驚くほど迷いがなかった。
「今日お会いして、むしろ、変えようがないと思いました」
ハロルド兄様が腕を組んだまま、低く言う。
「なら、それで十分だ」
ジョン兄様も珍しく真面目な顔で頷いた。
「向こうはまだ、何かしら説得すれば戻ると思ってるんだろうけどね」
「ええ」
私は息をついた。
「でも、あれは説得ではありませんわ。私がまた黙って飲み込むように仕向けているだけです」
言い終えたあと、部屋の空気がひどく静かになった。
自分で口にしたくせに、その言葉の形のはっきりさに、少しだけ胸が締まる。
けれど、お父様は目を細め、
「その通りだ」
はっきりそう言ってくださった。
「こちらとしても、もう余地を残す言い方はせん」
お父様は机の上の便箋を指先で軽く押さえた。
「先方には、今後この件についてお前へ直接働きかけることは一切慎むよう伝える。花も手紙も訪問も不要だとな」
私は思わず、目を瞬いた。
そこまで言ってくださるのだ、と。
ありがたさと同時に、ようやくそこまで来たのだという気持ちもあった。




