12 花では足りない
翌朝、私は思っていたほど眠れていなかった。
夜のあいだに何度か目が覚めて、そのたびに、もう婚約は終わるのだと確かめるみたいに天井を見つめた。
泣きはしなかったし、取り乱しもしなかったけれど、気持ちがすっかり軽くなったわけでもない。
ただ、不思議と迷いはなかった。
朝の支度を済ませて食堂へ下りると、お母様はいつも通り落ち着いていらしたし、お父様も普段と変わらぬ顔で新聞に目を通していた。
けれど、食卓の空気には昨夜の続きがちゃんと残っていた。
「よく眠れた?」
お母様に聞かれて、私は少し考えてから答えた。
「……それなりに」
「そう」
無理に慰めるようなことを言われないのが、ありがたかった。
朝食のあと、お父様はナプキンを置いて私を見た。
「先方への書状は、もう出した」
私は背筋を伸ばした。
「ありがとうございます」
「こちらの意思ははっきり書いた。これまでの度重なる不誠実な対応についても触れてある。曖昧に話を濁されてはかなわんからな」
その言葉を聞いた時、胸の中が少しだけ静かになった。
昨夜の決意が、もう家の中だけのものではなくなったのだと思えたからだ。
「返事はすぐ来るかしら」
キャサリン姉様がバタつかせずに尋ねると、お父様は肩をすくめた。
「どうかな。先方としては、そう簡単に飲み込みたくない話だろう」
たしかにそうだろう。
事業のつながりもあれば、世間体もある。
それに、何よりこれは向こうから望んできたご縁だった。
都合のいい婚約者として私を見ていたのだとしたら、なおさら手放したくはないはずだ。
そんなことを考えていた時だった。
食堂の外で、使用人の足音が止まる。
少しして、執事が一礼した。
「リチャード様より、お花とお手紙が届いております」
私は思わず、目を閉じかけた。
やっぱり、と思った。昨夜のやりとりのあとで、まずそれなのだ。
キャサリン姉様は、ものも言わずに天井のほうを見た。
あの顔は、呆れている時の顔だ。
「こちらへ」
お父様の声に従って、執事が持ち込んだのは、大ぶりの薔薇の花束だった。
朝の食堂には少々華やかすぎるくらいの量で、白と淡い桃色が目に痛いほどきれいに組まれている。
その上に、小さな封筒が添えられていた。
私はしばらく見ていたけれど、触れる気になれなかった。
お母様が静かに言う。
「開けてごらんなさい。今のうちに、中身は知っておいたほうがいいわ」
私は頷いて、封を切った。
短い文だった。
『昨日は気まずい形になってしまって残念だった。母も、少し時間を置けば君も落ち着くだろうと言っている。エミリーも今朝はだいぶ楽そうだ。君に似合う花を送る。改めて埋め合わせをしたい』
読み終えたあと、私は便箋を見下ろしたまま動かなかった。
悲しい、とは少し違う。
腹立たしいのとも、また少し違う。
もっと乾いていて、疲れる感じに近かった。
――《《母も》》、少し時間を置けば君も落ち着くだろうと言っている。
その一文が、ことのほか堪えた。
つまり向こうでは、昨日のことを、婚約者が少し気を悪くした程度にしか捉えていないのだ。時間を置けば、花でも送れば、また元に戻ると思っている。
私は便箋を畳まず、そのまま机へ置いた。
「……分かっておりませんのね」
声に出してみると、自分でも驚くほど平たい響きだった。
お母様が手を伸ばし、手紙を読んだ。
途中で眉がわずかに動く。
「“母も”ですって」
小さく言ったその声には、冷えたものがあった。
お父様も手紙を受け取り、最後まで目を通す。
読み終えた顔は、昨夜よりむしろ静かだった。
「向こうの考えも、だいたい見えたな」
「ええ」
お母様が言う。
「わざわざ細かく説明する必要もない、機嫌を取れば済む、その程度の認識ですのね」
私はそこで、昨夜お父様から聞いた話を思い出していた。
エミリーは実家で持て余されていたこと。
本家の娘であること。
兄の縁談に差し障るから、表立って揉めたくないこと。
それだけの事情を抱えながら、リチャード本人にはどこまで話しているのだろう。
いえ、むしろ、話していないからこそ、あの人はあそこまで呑気なのかもしれない。
「イブリン」
キャサリン姉様が、花束を見ながら言った。
「嫌なら、見えないところへ下げさせてしまっていいわよ」
「……そうします」
私は本当に、あの花を食卓の上に置いておきたくなかった。
きれいであるほど、腹が立つ。誠意の代わりに選ばれたものみたいで、なおさら嫌だった。
執事が花束を下げていく。
白い薔薇が戸口の向こうへ消えた途端、ようやく少し息がしやすくなった。
「返事はしなくて構わないわ」
お母様が言う。
「もうこちらは、お父様の書状で十分に意思を示しているもの」
私は頷いた。
たしかに、ここで私が何かを書いたところで、向こうはまた“感情的になっているだけ”とでも受け取るかもしれない。それは、ひどく癪だった。
「でも」
私は少しためらってから口を開いた。
「リチャード様は、本当に分かっていないのかもしれません」
皆の視線が私へ向く。
「昨夜の様子を思い返すと……エミリー様のことを、厄介な事情ごと受け止めているのではなく、ただ“か弱い従妹”として見ているようでした」
お父様が腕を組む。
「親御さんが、細かな事情を聞かせていないのかもな」
「聞かせる必要はない、とでも思っているのでしょうか」
私が言うと、お母様が短く息をついた。
「あり得るわね。若い息子に家の面倒ごとをわざわざ背負わせることはない、などと考えて」
「でも、そのせいで婚約者の側へ負担が流れているのだとしたら」
言いながら、私は自分の声が少しだけ固くなるのを感じた。
「なおさら、ひどい話ですわ」
キャサリン姉様が静かに頷く。
「知らなかったから許される、ではないものね」
「ええ」
私ははっきり答えた。
「知らなかったのだとしても、私を後へ回してよい理由にはなりませんもの」
そう言えた時、胸の内が少しだけ楽になった。
前なら、相手にも事情があるのではと自分で自分を鈍らせていたかもしれない。
けれど今は違う。事情があるならあるで、本来それを片づけるべきなのは向こうであって、私ではない。
お父様が席を立つ。
「今日は返事を待つだけでよい。先方が何を言ってこようと、こちらの意向は変わらん」
その言葉に、私は静かに頷いた。
食堂の窓から見える庭は、朝の光を受けて穏やかだった。
昨日なら、こんな朝に薔薇の花束が届けば、少しは心が動いたのかもしれない。けれど今の私には、あれはただの見当違いにしか見えなかった。
――花では足りませんわ。
心の中でそう呟いた時、自分でも驚くほど、その言葉に迷いがなかった。




