11 わざわざ言うほどのことではない
(リチャード視点)
イブリンの家から戻った時、僕は思っていた以上に疲れていた。
怒鳴られたわけではない。
殴り合いになったわけでもない。
けれど、あの家の応接間で向けられた空気は、そういう分かりやすい荒れ方より、ずっと堪えた。
ハロルドの冷えた顔も、ジョンの露骨に不機嫌そうな目も、まだ頭の隅に残っている。
それより何より、イブリンの声が離れなかった。
――婚約者様、それ、私に何の関係がございますの?
あんなふうに言われるとは思わなかった。
屋敷へ入ると、母がまだ起きていた。
いつもの居間で、夜用の薄いショールを肩に掛け、書き物をしていたらしい。僕の顔を見るなり、羽根ペンを置く。
「お帰りなさい。ずいぶん遅かったのね」
「イブリンのところへ寄ってきたんだ」
僕がそう言うと、母はすぐに事情を察したようだった。
「ちゃんと説明したのね。それで?」
それで、と聞かれても、答えに少し詰まる。
ちゃんと説明したつもりだった。
エミリーが熱を出したことも、心細がっていたことも、その場を外せなかった理由も。こちらとしては誠意を見せたつもりだったのだ。
なのに、うまくいかなかった。
「……思ったより、気を悪くしていたみたいだ」
「まあ」
母は驚いたというより、少し面倒そうな顔をした。
「イブリン嬢が?」
「兄たちも出てきて、ひどく責められたよ。まるで僕がよほどのことをしたみたいに」
母はショールの端を整えながら、ふう、と息をついた。
「今日はたまたま虫の居所が悪かったのかもしれないわね。約束が駄目になったのですもの、不機嫌にもなるでしょう」
その言い方に、僕は少しだけ気が楽になった。
やはりそうなのだ。イブリンだって、たまたま機嫌を損ねただけかもしれない。あんなふうに冷たく返されたのも、今日のところは腹が立っていたからで――。
「でも、あれは少し……」
言いかけたところで、父も居間へ入ってきた。
寝る前の酒でも飲むつもりだったらしいが、僕を見ると立ち止まった。
「何だ、まだ起きていたのか」
「イブリン嬢のところへ行っていたそうですわ」
母が答えると、父は少しだけ眉を上げた。
「今夜に限っては、行かぬほうがよかったのではないか」
「いや、手紙だけでは済ませたくなかったんだ」
「気持ちは分かる」
父はそう言って椅子へ腰を下ろした。
「だが、女はそういう時、説明そのものより、約束を反故にされたことのほうを強く覚えているものだ。しばらく置けば落ち着く」
しばらく置けば落ち着く。
その言葉も、僕にはもっともらしく聞こえた。
実際、今日は感情が先に立ってしまったのだろう。時間が経てば、イブリンもきっと分かってくれる。そう考えたほうが自然だった。
けれど、どうにも引っかかるものがある。
「でも、ハロルドたちの様子は妙だった」
「妙?」
「僕が妹を軽く見ているみたいな言い方をしたんだ」
父も母も、その時すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、少しだけ気になった。
母が先に口を開く。
「兄というものは、妹のことになると大げさになりがちよ」
やわらかく言われたものの、それで完全に納得できたわけではなかった。
今日の応接間にいた兄たちの顔は、“大げさ”で済むようなものには見えなかったからだ。
僕は少しためらってから、前から何となく気になっていたことを口にした。
「……そもそも、エミリーがうちに長くいるのは、どうしてなんだ」
母の指先が、わずかに止まった。
「どうして、とは?」
「具合の悪い時だけ預かるなら分かる。でも、もうずいぶん前からだろう。イブリンも、今日の口ぶりだと事情をよく知らないみたいだった」
母は一度、父のほうを見た。
それがごく短い視線だったからこそ、かえって僕は目についた。
「本家のほうも、いろいろ落ち着かないのよ」
そう言ってから、母は言葉を選ぶように続けた。
「兄君のご縁談もありますしね。家の中があまり騒がしいのはよろしくないでしょう」
「むこうの兄君の?」
思わず聞き返した僕に、母はすぐに微笑んだ。
「あなたが気に病むようなことではないわ。向こうにも向こうの事情があるというだけ。エミリーをこちらで落ち着かせておけるなら、そのほうが丸く収まるでしょう」
その言い方は穏やかだったけれど、妙に話を閉じる響きがあった。
「それ、僕は知らなくてよかったのか」
ついそう言うと、今度は父が口を挟んだ。
「わざわざお前に背負わせるほどのことではない」
あっさりした声だった。
「本家筋の内輪の話まで、いちいち若い者へ聞かせる必要はない。お前はお前で、目の前のことを見ていればよい」
わざわざ聞かせる必要はない。
その言葉に、僕は何となく黙った。
たしかに、今まで深く考えずにいたのも事実だ。エミリーがこちらにいるならいるで、そういうものなのだろうと思っていた。
母が立ち上がり、僕の肩に軽く手を置く。
「今夜はもう休みなさい。明日にでも花でも届ければよろしいわ。イブリン嬢だって、ずっと怒っているような方ではないでしょう」
その口調は、ほとんどこれで済む、と決めているみたいだった。
僕はすぐに頷けなかった。
けれど結局、その晩の僕は、それ以上問いただすことをしなかった。
両親がそう言うのなら、やはり大ごとではないのかもしれない。
廊下へ出ると、エミリーの部屋のほうから、かすかに物音がした。
まだ起きているのだろうか、と一瞬思ったが、そのまま自室へ向かった。
明日、花を送ろう。
きちんと詫びれば、きっと落ち着く。
そう自分に言い聞かせながら歩いていたのに、胸の底には、何か小さくざらつくものが残ったままだった。




