第5話 私に幻滅してみる?
4月7日、登校四日目、教室で一人座る彼女は、高校初日のような落ち着きを見せており、昨日の正義感に包まれた性格は存在していなかった。
僕は彼女に対応してもらえない前提で、こう告げることにした。
「……愛花梨、少し話がある。」
「私達、縁を切ったはずなんだけどな。」
「……僕にそんな約束した覚えはないから。」
「陽太くんらしいね。」
彼女は小刻みに揺れている。僕は彼女が何に笑っていて、思考の内には何があるのか、分からなくなっていた。
「……いいよ。じゃあ、もっと私に幻滅してみる?」
彼女はまた不純物を含んだ笑顔を見せてくる。平生を取り繕っているのかは知らないが、僕は彼女の顔を何度見ても違和感を感じずにはいられなかった。
放課後になって、二人で辿る初日以来の帰り道。彼女は僕と並行して、電停まで歩みを進めていく。僕の緊張は電停に近づく毎に、指数関数的に増大していく。
しばらく静寂が続くと、彼女は唐突に残酷なことを言い始めた。
「……小学生の頃の私は、もう死んじゃったみたい。」
「急に何を言い出すんだよ……。」
僕がそう言うと、彼女は不気味な笑顔を維持したまま、自身の冒されている現状について語り出した。それは僕の想像の斜め上をいく現実であり、虐めが及ぼした彼女への被害が甚大であることを悟らせた。
「……中学二年生の頃ね、私の自我は分裂したの。分かっている限りだと、元の私を含めて五つに。」
「分裂って……言っている意味がまるっきり分からない。」
「本質的なことは私にもよく分からないの。お医者さんが言うにはね、私は何らかの軋轢によって、複数の自我が芽生えてしまったんだってさ。」
「それって……。」
「解離性同一性障害。私は多重人格者なの。」
「じゃあ、元の愛花梨は……。」
「今も存在するよ、ここに。でもきっと、一生発現しないだろうね……。私の意識の内側にある何かが、決して許してくれないもの。」
虐めが原因なのは明白だが、僕はどうも彼女の言い回しを疑問に思った。
彼女の中学時代には、虐めを受けた悲劇的な過去があるはずだ。それにも関わらず、彼女は本質が分からないと語る以上、中学時代の記憶は既に消滅している可能性がある。
僕は事実をたしかめるべく、彼女にこう質問をすることにした。
「愛花梨を虐めた奴らは、この学校には一人もいないんだろ……?」
「……なに、虐めって?」
「は……? 愛花梨、お前中学の記憶はないのか?」
「そうだね……。全部飛んじゃったみたい。」
彼女は初出不明で抽象的な脅威に対して、真っ向から抵抗していた。僕はこの問題がすぐに解決しないことを悟り、空を見上げ心を預けるのだった。
「僕は愛花梨に無理強いして付き合うつもりはない。だけど一つだけ教えてほしい。愛花梨はこれから先、どうやって生きていきたいんだ……?」
「……私は社会に馴染めないと思うの。それに、四つの人格が互いの生活を破壊し合っている現状に、もううんざりしているよ。私の未来に希望はないのかもね。」
僕は急に立ち止まった。彼女が死に至る最悪のシナリオを空想したからだ。
「だからって死ぬなよ……死んでも死ぬな。」
「矛盾しているね……。でも、それだけは私も避けたいと思っているよ。少なくとも、いまの私はそう願っている。」
「そうか……。」
彼女は死なないと言い張った。これは僕に心のゆとりを与えた。しかしこのときの僕は、彼女の言葉の真意に気づくことができなかった……。
「……陽太くんもこれで分かったでしょ? 今の私は陽太くんの思い描いている私じゃないの。陽太くんを失望させる私なのよ。」
僕は何も言い返せなかった。僕が彼女を好きでいるワケが消滅していたからだ。きっとここでの最適解は「全ての愛花梨が好き」だっただろうが、僕に無責任な回答はできなかった。
二の句が継げない僕に対して、彼女は笑顔でこう言い聞かせる。
「……私はね、これ以上陽太くんに私への価値を下げてほしくないの。」
「価値が下がるなんてことはない……。」
「その優しさを、ずっと忘れないでね。今度こそ、したっけ……陽太くん。」
彼女は小学生の頃と同じ大人びた立ち姿で、その場を後にしていった。
僕は彼女を止めなかった。彼女の自我は本当に分裂しており、その事実を目の当たりにして、僕は思考することがままならなくなっていたのだ。
その日の晩、僕は彼女と復縁するための術を考えていた。彼女の事情は完璧に把握できたので、あとは寄り添い方の問題だろうと考えていた。
加えて僕はもう一つの彼女を知らない。初日と今日の「現実主義的な彼女」、一昨日の「根暗な彼女」、昨日の「頑固な彼女」、そして隠された「従来の彼女」を知っている。発現する順序などは決まっていないのだろう。
僕は早いこと、もう一つの彼女にも会ってみたいと思った。
……そのときだった。彼女が放課後に語った発言の真意に気が付いたのは。
僕は急いで水島に電話をかけた。既に日付を跨いでいたので流石に応答はないだろうと思った。しかしすぐに発信音は消え、水島が電話に出た。
「……夜分遅すぎないかしら。」
「水島、愛花梨の住所がどこか知ってるか?」
「え、急にどうしちゃったのよ……。」
「絶対ではない……絶対ではないけど、愛花梨の命が危ないかもしれないんだ!」
「……何があったのよ。」
「頼む……。今の彼女の所在地が知りたいんだ!」
理由は知らないが、水島は彼女と位置情報を共有しているそうで、アプリを立ち上げ彼女の居場所を明らかにした。
「……も、元高。」
「今、なんて言った……?」
「愛花梨、今元高に向かっているわ……。」
その言葉が耳に入った途端、僕の脚は勝手に玄関先に向かい、家を出て元町高校に駆け出していた。
市電の終電はとっくに発車しており、函館の駅前に住んでいる僕はニキロを猛ダッシュする必要があった。
彼女はたしかに、死の道を選ばないと宣言した。だが、それはあくまでも当時の彼女の心情でしかなかった。
『どうして昨日の僕の行動が、彼女の首を締めると思わなかったんだ……。』
息を荒くしながら自分を責めて責めて責め続けた。僕はとんでもない失態を犯していたのだか。
十五分ほどで高校に辿り着いた。水島とは電話を切っていなかったので、すぐさま彼女の居場所を尋ねることにした。
「愛花梨は今どこだ!?」
「……敷地内よ。」
僕は具体的な所在地が、屋上だというところまで推理した。元町高校は外部と内部は施錠されているが、昼食で生徒が自由に行き来できるよう、内部と屋上の間は施錠はされておらず、鍵の一つでも破壊すれば、屋上まで容易に到達するのだった。
柵を飛び越えて敷地内に入ると、一箇所だけ窓の開いている場所があった。僕もそこから忍び入り、一路屋上まで走り出した。
屋上の扉を開けると、フェンス前には亡霊のような一筋の影が存在していた。僕は何も言わずにその亡霊に向かって突進し、亡霊が振り返る前に抱きしめるのだった。
「……どうして……なんでいるの。」
「馬鹿野郎! なんで死のうとしたんだ……!」
「……陽太くんの中の私が荒んでいくのが、もう耐えられない。だからお願い……私を死の淵に追いやって。」
「根暗な」彼女がみた僕の幻影が、彼女の心に要らぬ自傷行為をしていた。彼女は本気で死を覚悟していた。だが、「根暗」な彼女一人が、他の人格を蔑ろにして、己満足で存在を消すことは卑怯だった。
「お前が死ぬことが、僕の人生を一番荒ませるとは思わないのか!」
「……それはそうだけど……そうだけど。」
「なら、無責任に死のうとするなよ……。お前が自分を殺していいわけないんだよ!」
彼女はその場で号泣した。やがて僕の目頭も熱くなってきて、水滴がポタポタと垂れてくる。
僕と一緒に帰ることを拒絶しなかった「現実主義的」な彼女の行動が、根暗な彼女の首を絞めた。己が己を殺そうとした。今の彼女に、自立なんて不可能だ……。
「……もう諦めて、僕を頼ってくれないか? 僕は愛花梨を見放さない。そう約束するからさ。」
「でも、私は陽太くんを……。」
「なんもなんも。僕がいいといったんだから、それでいいんだ。」
「……そういうものかな。」
「あぁ、そうだ。」
「……陽太。」
今日、彼女は僕を陽太と言った。僕に対する障壁が崩壊し、初めて呼び捨てで呼んでくれたのだった。
彼女はまだ、これが復縁の証だとは言い切っておらず、この関係が恋人同士なのかも知らなかった。しかし、彼女は一方的に抱き着く僕に反抗しなかった。
気力が消失していることもあるが、それ以上に彼女はこの抱擁を心の拠り所にしており、僕の愛をたしかめて安心しているようだった。
「……でも、どうして学校に来たんだよ。」
「どうせ死ぬなら、その醜態を晒せるまで晒しておこうと思ったの……。そういう陽太は、どうやって私の所在を知ったの?」
僕はスマホの電源をつけて、彼女に水島と通話中であることを見せつけた。
「繋がっていたんだね……。」
「根暗だった愛花梨が、唯一心を開いていた相手だからな。」
「愛花梨……あなた明日覚えておきなさい。うんとお説教するから。」
「……分かったよ。二人とも……私なんかのために、生きてくれてありがとう。」
「なんだよそれ。」 「なによそれ。」
三人で笑いあった時刻は25時10分、未成年者の条例に引っ掛かっているので、僕らは急いで帰宅することにした。
僕は当たり前だが、彼女を家まで送ることにした。彼女の家は僕の家と真逆の、ドックの方にあり、ドックの周辺に辿り着くと、やがて彼女はある一軒家の前で立ち止まった。
表札に「倉持」とあり、灯りが点いていた。僕は彼女が安否不明になったことで、家の人が警察に通報でもしたのだとか思った。
「……だ、大丈夫か?」
「多分普通に帰れると思うよ。誰にも怒られずにね……。」
「でも、ご両親が激怒されるんじゃないか?」
僕がそう危惧していると、彼女の笑顔は薄ら笑いにまで落ちてしまった。
「……この家には、私を叱ってくれる人なんていないから。」
「へ……?」
「じゃあまた明日……、じゃなくて後でね。」
「お、おう……。」
彼女は含みのある言い方ばかりするので、しばし僕を混乱させる。彼女は僕に謎だけを残して、家に帰っていった。
最後に控えめに手を振った彼女の姿は、大人びているというより、大人の様相そのもので、僕に彼女の心身的な成長を知らしめた。
因みに僕は両親の怒り心頭を喰らい、また十分な睡眠をとることは叶わなかった……。




