第34話 彼女達の葛藤
10月10日月曜日、僕の誕生日から二日が経過した今日、空は雲一つない快晴で、街はいつも通りに栄えていた。僕は決して日常を疑わなかった。
僕は今日もまた八幡坂の麓にいた。ほどなくして、彼女が僕の傍にやってきた。だが、僕は一瞬で日常の違和感を感じ取った。
「おはよう、愛花梨。」
「おはよう、陽太。今日も函館はいい天気だね。」
「そうだ……な。」
僕の手を両手でぎゅっと握りしめてきた。スカートの丈は膝上よりも短い校則違反の瀬戸際にあり、髪はロングからショートヘアーになっていた。
『達観している様子はないし、服もよれていない。言葉に棘もなければ、敬語でもない。……知らない。僕はこの人格を知らない。』
「愛花梨……なんかお前、変じゃないか?」
「えぇ、これが普通の私なんだけどなぁ。」
「だ、だって、いつもと服装から柔軟剤の匂いまで全然違うだろ。」
「彼女の柔軟剤の匂い嗅ぐって……陽太、すごい変態気質だね。」
「……君は一体、誰なんだ。」
僕は口にするのも憚られる、最悪のシナリオが頭に浮かんだ。だが、残酷にも彼女は僕に答えを告げた。
「私と会うのは、今日が初めましてだね。」
「もしかして、統合……したのか。」
「……そうみたい。なんか、急でごめんね。」
彼女はアカリですらなかった。思い返すと、僕は甲斐先生の言っていた《《危険性》》を頭の片隅にすら置いておらず、一瞬たりとも気に留めることがなかった。
『……僕はとんだ馬鹿野郎だ。』
「現実主義的」な彼女、「根暗」な彼女、「頑固」な彼女、「不思議ちゃん」な彼女。
そして、僕の初恋相手、『アカリ』。
僕はこれらを手元から一挙に失い、言葉はおろか息を吐くことすらできず、瞬く間に放心状態に誘われてしまった。やがてその場でたちくらみを起こし、地面に座り込んでしまった。
「陽太……ど、どうしたの!?」
そんな顔色の優れない僕に対して彼女がとった行動は、《《救急への連絡》》だった。
気が付くと、そこは病床の一角で、視界には暗闇から一転して、両親と彼女の象形が現れた。
僕のあっけらかんとした様子に、両親は胸を撫で下ろす一方で、彼女はずっと僕の顔色を窺っており、屈んでは指先の血色を確認するような仕草もしてくれていた。無気力だった僕は、少しだけ平生を取り戻すことができた。
11月10日木曜日、僕は検査で異常がみられなかったので、午前中に退院して、その足で彼女と加瀬先輩を引き連れ、甲斐先生の元を訪れた。
「統合できたのね……長かったけど、頑張ったわね。」
「いえ……私の周りの人達が頑張ってくれたお陰です。」
「そう。なら、陽太くんやお姉さんにうんと感謝しないとね。」
「はい!」
先生の顔色は僕と対を成すものだった。先生にとってみれば、やりがいがまた一つ増えたことになり、アカリを求めていた僕にとってみれば、最悪の結果だった。
彼女の精神面について一通りの質問が終わると、先生は僕を引き止めて姉妹を待合室に戻した。
「……なんでしょうか。」
「愛花梨ちゃんは統合したわ。」
「えぇ、そうみたいですね。」
「私は今度、陽太くんの精神面が不安よ。」
「僕は大丈夫ですよ。」
「大丈夫じゃないでしょ……。前回よりも明らかにやつれてるし。」
「昨日、倒れて入院したからですよ。」
「それも、愛花梨ちゃんの《《せい》》でしょ?」
「せ、せいって……。」
「私は愛花梨ちゃんの多重人格が統合することを望んでいたし、愛花梨ちゃんにとってもそれが一番よかったの。」
「それは……。」
「だから、陽太くんは絶対に気を病んじゃダメよ。これが《《正しかった》》んだから。」
僕にとっては正しくないことをして、正しくない結果が生じたように感じていた。
「それなら……僕はその《《正しい》》愛花梨も愛してあげるべきなのでしょうか。」
「無理しない範囲で愛してあげればいいの。でも、元の愛花梨ちゃんに近い人格だから、すぐに受け入れられると思うわ。」
「そうですか……。」
いままでの人格が全消滅したとしても、いまの彼女への恋心は浮気の浮気でしかなかった。待合室に戻ると、にこやかな先輩の顔が僕の脳にへばりついた。
先輩や水島と状況が異なる僕は、一人で苦痛を味わうしかなかった。
深夜になっても彼女達の消失が身体を蝕んで、なかなか寝付けずにいた。未来に漠然とした不安を抱えていると、部屋にスマホの通知音が鳴り響いた。
通知を開くと、彼女から「昔の私が遺した動画」という文言と共に、一本の動画が送られていた。再生ボタンを押すと、画面には彼女の自室を背景に佇む、彼女の象形が浮かび上がった。
「陽太がこれを観ている頃には、私達はきっと消えてしまっているかな。これを撮影しているいまは、私達が一つになっている最中なんだ。ややこしくなるから代表して私が喋っているんだけどね。多分……人格は昔の私に近いものになると思うな。」
『……は。ど、どういうことだ。』
「私達は薄々勘付いていたよ……。陽太が昔の私を好きだったことをね。それでも陽太は、私達のことを否定しなかった。それは、私達にとって、すごく嬉しくて、すごく悲しいことだったんだよ。
―——だって、私達は……陽太に愛されちゃいけない存在だったから。————」
僕は彼女の一言一言に戦慄させられた。そしてようやく、彼女達のジレンマに気付いてしまった。
「陽太に愛されたら、生まれるはずじゃなかった私達は統合して消えちゃうからね。内気な性格の私が自殺を図ろうとしたのは、私達を守るためだったんだよ。
でもね、私達はもしかしたら協調できるんじゃないかって思ったの。だからね、私達は陽太ともう一度付き合った。現実はそうもいかなかったんだけどね……。」
彼女の抱えていた《《脅威》》は、思いの外身近なところに存在していた。身近が過ぎたせいで、僕は血の気が引いて指先が冷える感覚を覚えた。
「陽太には安心してほしいの。私達は後悔していないし、死ぬことはもう怖くない。なにより、陽太にはこれからもっと幸せになってもらいたい。できれば……次の私に。」
そう言った彼女は、堪えていたものが溢れ出して顔を濡らした。
「でも……やっぱりお別れは寂しいな。思い返すと、いっぱいデートしたよね。春にはお団子食べて、海見て、卵食べて、夏には花火に連れて行ってもらってさ。そういう思い出、もう二度と作れなくなるんだね。……本当に日付が変わるのが怖いよ。」
この頃になると彼女の声には震えが伴うようになり、立っているのも苦しそうな様子が画面越しにありありと映し出されていた。すると、僕の頬にも熱い水滴が流れ落ちていく感触があった。
「……私は陽太のことが大好きだった。ずっと一緒にいたかった。でも、私達は陽太の初恋を殺した張本人だから、そんな資格はなかったみたい。ごめんね、ずっと騙しちゃってて。」
『じゃあ、アカリが隠れているっていうのも、全部噓だったのか……。』
僕は二つの選択肢があると信じ込んでいたが、実際には二者択一ではなく、決められたレールの上を走っているに過ぎなかった。
「最後に、私達のことを愛してくれてありがとう。私達はとっても幸せだったよ。またいつか、どこかで会おうね。じゃあ、今度こそ本当の……
したっけね。」
動画が終わるや否や、僕の目からは大粒の雫が零れ落ちて、布団に水滴の跡を残した。涙の途切れ目を探そうと天井を見上げるも、かえって雫が頬を伝って、余計に感極まってしまった。
『僕が愛して、成長させちゃったせいで、彼女達は死んじゃったんだ。僕は……とんだ悪人だ。』
―——僕は誰のことも愛しきれなかった。———




