第31話 虐めの襲来
8月1日月曜日、花火大会から一段落して、今日の僕は久しぶりに彼女の通院に同行していた。
いつも通りに診察が終わると、僕は甲斐先生に残るように言われた。
「どう? 愛花梨ちゃんの様子は。」
「お陰様で、前よりも笑顔が増えた気がします。」
「陽太くんの功績が大きいわね。ちゃんと面倒見てあげて偉いわよ。」
「ありがとうございます。」
「それで……不躾な質問で申し訳ないんだけど。」
「なんでしょうか?」
「やっぱり、いまでも元の愛花梨ちゃんに戻ってもらいたいのかしら?」
「いえ。いまの僕は、彼女達と共存したい気持ちの方が大きいです。できることなら、このままずっとそれで……。」
「そうね……。」
先生はどうしてか下唇をかみ始めた。
「……普通なら、虐めの原因がなくなった時点で自然に解決していくはずなのよね。愛花梨ちゃんの場合はそれに異様に時間がかかっているだけで。」
「と……仰いますと?」
「私はやっぱり、愛花梨ちゃんの人格を統合するべきだと思うの。それで三年間、ずっとここまできたわけだし。」
僕はいつまでも先生と分かり合えないようだった。治療法の一つから選んでこの反応を受けるとは予想だにしておらず、僕の顔には焦りが滲み出ていた。
『先生は五人の犠牲をなんとも思っていない。四つの人格はアカリを屍にして、必死に生きようとしてるのに……。』
「僕は無理に解決させる必要ないと思います。僕はいまの愛花梨のままで愛してあげられますから。」
「いまはそれでいいと思うわ。だけど、《《万が一》》があることは頭の片隅に置いておくべきよ。それが、本当に愛花梨ちゃんを愛してあげることだから。」
「……分かりました。」
僕は何も分かっていなかった。いますぐ彼女達が死ぬ未来を考えることは、到底不可能だった。
僕は無意識のうちに、苦虫を噛み潰したような顔をしてしまっていた。そんな僕の姿を彼女が無視するはずもなかった。
「……どうしたの。陽太の顔、怖い。」
「あ、まぁ、ちょっとな。」
「……無理しちゃだめだから。」
「ありがとう。まぁ……それは僕の台詞なんだけどな。」
彼女は昼時が近いからと言って、彼女の家で昼食をとることを勧めてきた。そこで僕らは、スーパーに立ち寄って好きな料理を買って帰ることにした。
「……リビングで食べるの、久しぶり。」
「たまには広い部屋で食卓を囲むのもいいよな。」
「……うん。」
「なんか、家族みたいだな。」
「……家族で、いいよ。」
「そ、そうか。」
僕は既に、彼女達と営む日常しか考えられなくなっていた。僕らが確実に幸せになれる選択肢が、まさにそれだったのだ。
『僕は愛花梨の期待に応えるんだ……。』
昼食を食べ終わった僕らは、コーヒーを嗜んで午後のひと時を送っていた。だが、その優雅な時間は一瞬にして終わりを迎えてしまった。
少しして、僕らの耳にインターホンの音が二度、入ってきた。
「……行ってくる。」
僕がリビングから玄関先を覗くと、そこには見知らぬ女が立っていた。学生服を着て耳にはピアスをしており、一見すると僕らとは違う世界の人間だった。
「……誰。」
「は? 私の《《初恋》》を奪っておいて忘れたっていうの?」
「……初恋。」
「あ、愛花梨!」
彼女に急接近する女は、まるで人を食い散らかすような目つきをしており、僕に彼女を虐めた張本人だと容易に知らせた。彼女を女の元から引き剥がそうすると、女はこう言い放った。
「誰、この男。」
「あなたこそ誰ですか。」
「……川野……詩織。」
「愛花梨……?」
彼女は石像のように立ち止まって、やがて後ろの方に崩れ落ちた。彼女の瞳孔は見たことのないくらい広がっていて、この場の物々しさを助長していた。
「まぁ、お前が私の人生を潰したんだから、覚えているに決まってるよな。」
「それで、あなたは何をしにきたんですか?」
「こいつを殴りに来たんだよ。」
「もう三年も前の事ですよね。今更過ぎませんか?」
「……こいつのせいで、いまさっき退学になったんだよ。内部の誰かが漏らした情報が広まってな。」
「それ、自業自得じゃないですか。愛花梨に八つ当たりする意味が分かりません。」
「こいつがいなけりゃ、私は順風満帆に学校生活送れてたんだよ! なのに、それをこいつがぶっ壊したんだ。」
「暴論はやめてください。愛花梨にはなんの非もないですよ。」
「私は……絶対に許さない。」
そう言うと、女は突然、彼女の顔面を目がけて殴り掛かってきたので、僕は咄嗟に彼女を抱えて攻撃をかわした。
「愛花梨、警察に通報しろ!」
「……わ、分かった。」
立ち上ろうとする僕に、女はもう一度拳を振り上げたので、振り下ろす直前によけて地面にぶつけさせた。女が腫れた掌に息を吹きかけて治療する中、僕はほんのり笑顔でこう問い掛けた。
「お前は愛花梨がいまどういう状況か知っているか?」
「なに? 私よりも苦しい状況だって言いたいの?」
「あぁ、少なくともお前よりかはな。」
「へぇ。冗談は大概にしといた方がいいんじゃない?」
「……分かったよ。じゃあ、教えてやるよ!」
このとき、僕の怒りは丁度沸点に達した。僕の右手は女の胸倉を掴み、向かいのコンクリート塀に女を押し付けた。
「愛花梨は《《お前》》のせいで多重人格者になったんだよ! でも、お前には絶対に分からないだろうな! 三年間、両親がいない中でずっと悩んできた苦痛をな!」
「苦痛? なにそれ。」
「……愛花梨だって、お前がいなけりゃ普通に学校生活が送れていた。だけど、多重人格が生まれたせいで、愛花梨は大切な家族と縁を切って、クラスメイトは嫌味を言う羽目になって、好きだった人も突き放した。全部、愛花梨の本望じゃないのによ。」
「……だから何?」
「謝れよ。いますぐ愛花梨に謝れよ‼」
感情に身を任せていた僕は右手の力を強めて、危うく女の身体を潰しかけた。僕は頭を冷やしてすぐに力を弱め、右手をそっと下ろした。
しばらくして警察がやってきて、女はそのまま警察署に移送された。他方で僕も事情聴取を受けているうちに、女に対して過剰防衛をしていたということで、一旦署に向かうことになった。いつの日かの夢と酷似した禍々しいサイレンの音が、僕の胸をきつく締め、同時に達成感が身体に押し寄せていった。
取調室より一回り小さな部屋に通された僕は、中年の警察官に聴取を続けられていた。
…………それ以外には?」
「特に何もしていません。叱責はしましたけど。」
「その、殴った方の高校生、次期に逮捕されるって連絡が入ったよ。」
「それは僕にとって大変ありがたいです。」
「話を聞く限り、非は全面的に向こう側にあるけど……君もちょっとやりすぎだったかなぁ。」
「自分の一番大切なものを踏みにじられて、銃を向けない方がおかしいですよ。それに、僕は向こうと違って殴っていないだけマシだと思うんですが。」
「……まぁ、私は警察官の立場だからそう言っているけど、実際に私が当事者だったら君と同じような行動をとっているかもな。」
「そうですか。」
一時間もしないで一通りの事情聴取は終わり、傷害罪に辛うじて抵触しなかったことから、無事に帰宅することになった。
僕は署に呼ばれていた母親に事の顛末を説明し、最後には傷跡を見せて納得してもらった。そして、「彼女の様子を見に行く」と言って、急ぎ彼女の自宅に向かった。
「あ、愛花梨、いるか⁉」
自宅の鍵は開いたままで、急ぎ中に入ると玄関先で横たわる彼女の姿があった。
彼女の顔には熱いものを流した白い跡があり、髪の毛はいつもに増して跳ね上がっていた。
「……陽太。」
「だ、大丈夫か!?」
「……大丈夫。生きてる。」
「怖い思いさせてごめんな。」
「……怖くて泣いたんじゃない。嬉しくって泣いた。」
「何が嬉しかったんだ……?」
「……私のために怒ってくれた。助けてくれた。心……強かった。」
彼女はそう言うと、起き上がって徐に僕の身体へ飛び込んだ。
「……でも、怖かった。あの子を見て、変な記憶が出てきて。」
「ごめん……僕がもっと早く気付けばよかったんだ。」
「……だけど、全部の記憶は思い出さずに済んだ。」
「あぁ、それはよかった。」
「……怪我させちゃって、ごめん。」
「いいんだ。それより、愛花梨に怪我がなくてよかった。」
彼女は僕の服にも白い跡を残した。虐めの記憶を多少思い出したとはいえ、これで完全に《《過去の出来事》》と化した。
『……あれ。これって、愛花梨じゃなくてアカリのためになってないか。』




