第29話 初恋の定義不足
7月8日金曜日、昼時、僕はいつも通りに戸山と弁当箱を広げていた。今日もまた、店を開けるくらいには具沢山で茶色い戸山の弁当が、スキー部で消耗する体力の膨大さを肌身で感じさせてくれた。
そんな何気ない日常の空気は、戸山のある一言によって別物となってしまった。
「……なぁ、陽太。お前に言いたいことがあるんだ。」
戸山は視線が床から離れず、顔も徐々に赤らめていった。
「ど、どうした、そんなかしこまって。失恋でもしたか?」
「……その逆になるのかな。俺、恋しちゃったんだよ。」
「ふーん。いいじゃないか、青春で。で、お相手は誰なんだよ。」
「……垰野さん。」
「お前……結構面食いなんだな。」
「ち、違う!」
戸山は照れ隠しのために声を張り上げてしまい、教室を黙らせてしまった。
しばらくして、喧騒が復活すると、戸山は大きな手のひらで自分の顔を覆い隠そうとした。指の隙間から垣間見える目は、恋する乙女ならぬ、恋する道産子の目をしており、僕は戸山の知らない一面を知りをニンマリとした。
「……佑樹の想いはなんとなく伝わった。でも、潔くあきらめた方がいいな。垰野さんは顔で選ぶ奴は好かないからな。」
「……顔もそうだけど、振る舞い方が好きなんだよ。」
「笑い方と話し方に惚れたってことか?」
「なんで分かるんだよ……。」
「彼女がいるってそういうことだよ。まぁ、普通に仲良くして、いずれ恋心を打ち明ければいいんだよ。」
「でも……俺、これが初恋なんだよ。」
「は、はい⁉」
「だから……普通がなんなのか、よく分からないんだよ。」
僕は口に運ぶ予定だった唐揚げを弁当箱に落とした。初恋が十六歳というのは、神話の主人公も目玉を飛び出す程度にはあり得ない話だった。
「……いや、嘘八百分の一をつくな。」
「ほ、本当だから……。」
「小学生の頃に好きだった女の子ぐらいいるだろ?」
「俺、小さい頃からずっとスキーヤーでさ、勉強していたら恋する時間なんてなくなっちまってたんだよ……。いまは一段落してるけど……その反動で、垰野さんに惹かれちゃったんだ。」
「……ごめん、それは知らなかった。」
「今日、陽太に知ってもらえてよかったよ。」
僕の初恋は勝手な成り行きで達成されたものだったので、戸山の参考になる経験は積んでいなかった。また、誰かに相談するか否かも頭を悩ませる難題だった。
ひとまず、僕はこれを持ち帰ることにし、戸山に彼女の件の恩返しをしようと企画するのだった。
7月11日月曜日になると、僕は二人の赤い糸を紡ぐ名案を、いくつかこの世に産み出していた。
その一つが函館湾で催される花火大会への参加で、二人に集団を装い、親交を深めてもらう手筈だった。垰野はそのあっけらかんとした性格上、先約がなければ賛同してくれると知っていた。
……ただ、問題は戸山本人で、戸山は恋愛面に限って内気な性をしていた。
『僕も彼女を初めて見つけたときは、遠くから見つめていたっけな。』
とは言ったものの、一週間が経過してもその態度は一向に変わることが無く、僕は遂に痺れを切らした。ここは、誰かが潤滑油にならなければ話が進まない場面で、僕がその役に立候補するのだった。
ただし、僕は初恋の経験しかなかったので、彼女に女心を尋ねてから計画を練ることにした。
その日の晩、僕は彼女と通話した。今日の彼女は理屈を語ってもらうには最適な人格だった。
「愛花梨。」
「どうしたの?」
「急で悪いが、女心が知りたいんだ。」
「いいけど……どうして?」
「そ、それは……その。」
「……浮気なら浮気って言ってよ。」
「そっちも話が飛躍しすぎだ……。ただ、友人が相手にどうやって恋心を伝えるべきか悩んでいるから、試しに聞いてみただけだよ。ほら、僕は愛花梨以外に恋したことがないから……出会いもアレだったし。」
「そうならそうと言えばいいのに……。」
「ご、ごめん……。」
彼女は若干の間をとった。僕は正義感の強い彼女なら、名前も知らない《《友人》》のために的確な情報を教えてくれると信じていた。だが、彼女の正義感は思いもよらぬ方向に舵を切ってしまった。
「まずは、積極性が大事だよね。相手に認知してもらうことが大事だから。」
「そ、それはマストだな。」
「……だけど、執拗に話しかけに行くと、お喋りな男だと思われるかもね。」
「それって、ダメなのか?」
「お喋りな男はあんまり好かれないかな。自分語りに繋がっちゃうから。」
「まぁ、たしかにな。」
「あ、あと、話が続かないならすぐに諦めた方がいいね。時間の無駄になるし。」
「し、シビアだな……。」
彼女の言葉には微妙に棘があり、切れ味の鋭い答えが無関係な僕を攻撃した。だが、これも僕の友人が先人と同じ轍を踏まないように、彼女が渇を入れた結果だった。
その一方で、依然として彼女が色恋の博識に長けていることを、僕の前頭葉がどうも処理しきれずにいた。結局、僕は恋愛のイロハを全て聞かずに、質問返答の場に移してもらうのだった。
「てか、どうしてどんなに恋愛事情に詳しいんだ?」
「記憶のせいだね。よく分からないけど、恋愛に関する経験則が残っているの。なんか、ある男の子にある女の子が惚れていて、それを邪魔するまた別の女の子がいて……。」
「愛花梨……この話はもうやめにしよう。」
「わ、分かった。」
『虐めの記憶が彼女達の脳裏に宿った暁には、《《アカリを呼び覚ましてしまう》》かもしれない。僕はまだ選択できていないんだから、下手な行動はするべきじゃないんだ……。』
僕は臍を噛んだ。彼女の忌々《いまいま》しい記憶は、完全に雲隠れしているわけではなかった。僕は彼女達が《《脅威》》を抱える可能性があったことに、背筋一帯を凍らせた。
「……僕が知りたいのは女心だ。女の子はなにをしてもらえると嬉しいんだ?」
「そんなの、人によりけりでしょ……。」
「そうだけど……そこをなんとか。」
「褒めてもらうこと……じゃないかな。」
「それ、男子もそうじゃないのか?」
「そうだね。でも、女の子は繊細だから、否定されるとすぐに心が荒んじゃう。そうならないように、自分を肯定してくれる存在が必要なの……多分。」
「ものすごい勉強になったよ。ありがとうな。」
「陽太の言っている友達って……もしかして戸山くん?」
「へ……?」
僕の頭は唐突な指摘によって、一面銀世界の様相を呈していた。
「ど、ど、どこでそれを……?」
「視線でバレバレだったよ。戸山くんは恋心を隠すのが下手っぴみたいだね。」
「もしかして……相手方にもか?」
「うん、美夏ちゃんも気付いていたよ。」
ここで、僕はさっきの彼女の発言を思い返した。たしかに、全て彼女に当てはまりそうな内容ではあった。ただ、僕は才女の彼女が、馬鹿正直に自分の価値観を語るとは思えなかった。
「……さっきまでの奴って、まさか垰野さんの意見だったりするか?」
「気付いたみたいだね。そう……。私がさっきは言ったのは、美夏ちゃんの恋愛観に、美夏ちゃんの女心だよ。」
「た、垰野は戸山のことをどう思っているんだよ?」
「ごめん……それは教えられないかな。美夏ちゃんのプライバシーもあるし。」
「愛花梨は偉いな。」
「親友として当然のことだから。」
いつの間にか、彼女と垰野の二人は親友と呼べるだけの縁を築いていた。僕は彼女の社交性が身についてきていることに、思わず口角が上がってしまった。
7月12日火曜日、僕と戸山は今日の昼休みもまた、色恋の話に現を抜かしていた。これもまた、彼女の言っていた「青春」の一風景だった。
「そういや、陽太は倉持さんが初恋の相手なんだよな?」
「そうなるな。小学五年の時に恋に落ちたもんで、それ以降もずっと好きだ。」
「お前……すげぇな。」
「な、なにがすごいんだ?」
「小学生の頃の恋愛なんて、普通は恋愛じゃないだろ?」
「そ、そうか?」
「俺としては、恋愛は中学過ぎてからだと思うけどなぁ。」
「佑樹はどうしてそう思うんだ?」
「だって、思春期を迎えてないから……かな。」
「思春期か……。」
思春期を迎える前の人の精神は不安定で、まだ一つの型に収まっていない。たしかに、僕が恋愛に近い何かをしているという論には、それなりの納得感があった。僕は戸山に目をつむり無心で頷いた。
僕は戸山と話をして、自分の知らない価値観に足を踏み入れた。その結果、自分の常識を一段階向上することができた。
……すると、僕の脳内に一つの説が生まれた。
『精神的に未熟な頃は恋愛ができないんだったら、アカリとの初恋もなくなるんじゃないか……?』
僕には《《初恋》》という不変の事実があり、それが人生で唯一の恋愛だったからこそ縋るしかなかった。だが、この説に当てはめれば、次に彼女達と送る色恋が《《初恋》》を主張でき、アカリに執着する意味は消滅することになるのだ。
また、アカリとの恋模様は小学生の冗談として処理できるので、懸念していた浮気にも当たらないのだった。僕は晴れて彼女達との色恋が可能になった。
「ありがとう、佑樹。僕も勉強になったよ。」
「役に立ったなら何よりだけど……。」
「あ、そういやお前、7月30日は予定入れるなよ。」
「……花火大会か?」
「あぁ、折角なら《《一緒》》に回りたくてな。」
「それいいな! 分かった、30日は絶対に開けておくな!」
これは、紛れもなく青春の一ページに刻まれるものだった。そのため、戸山は深刻そうな表情を幾らか和らげ、鼻を膨らませては笑いを見せてくれた。
彼女達の魅力は徐々に増しており、《《アカリに近いような性格》》が僕に妥協を教えてくれた。だが、これは近いうちに妥協でなくなるような気もしていた。
今日まで、僕の心に残っていたしこりはその殆どが除去されて、残るは『アカリと水島への裏切り』だけになった。しかし、5月の僕と対極をなす意識が完全に僕を溺れさせ、それらのしこりを無い物扱いした。
今日の僕は、彼女達の成長を見守りたいという欲望が溢れ、既にアカリの存在は上の空という有様だった。だが、僕は二人への約束を破ったツケを精算することを、全く自覚していなかったのだった……。




