第21話 愛に定義なんてない。
6月6日月曜日、今日、僕と彼女は八幡坂の麓で待ち合わせをしていた。
「……おはよう。」
「おはよう、愛花梨。寝癖、直すようにしたんだな。」
「……洒落っ気がほしかったから。」
「あぁ、今の方が洒落ている気がするよ。」
「……ありがとう、陽太。」
僕らは一昨日、これからは可能な限り、一緒に登下校をしようと契りを交わした。彼女の私生活への関与は多少厳しい側面があるが、その代わりに僕は登下校時の孤独感ぐらいは打ち消してあげようと考えたのだ。
僕らの横を幾つもの集団が通り過ぎるが、彼女を視界に入れても、話題が切り替わることは無さげだった。僕らの注目度が低下したことで、逆に学校生活は良質なものとなっていた。
ただし、それとは別に彼女が注目を浴びることがあり、それは彼女の独特な歩き方だった。彼女はまるでペンギンのように片方ずつ重心をかけながら歩みを進めており、冬場の雪道で用いる歩き方を半年違いの6月に実践していた。
「ごめんな……。僕の都合のいい時間に待ち合わせちゃって。」
「……私は平気。」
僕は彼女が体力の配分を見誤らないか、いつの日かのように彼女の方を余所見して歩み続けた。だが、その懸念は八幡坂の中腹で現実になり、段々と彼女の足取りが重くなってきた。彼女は前を向かずに地面だけを直視して、終いにはこんなことまで言うようになった。
「……でも、やっぱり坂道歩くの、疲れる。」
「そうか……。まぁ、こればかりは元高生の宿命だしな。」
「……はぁ、はぁ。」
彼女は息を荒くして、まともに会話も交わせそうになかった。基礎体力が人格毎に変容するわけもなかったので、恐らくは力の配分と力を捻出する気概が異なっていた。ただ、このまま彼女の歩みでいくと、学校には確定で遅刻するだろう。
ふと、僕は両手が宙ぶらりんなことに気付き、咄嗟に彼女へこう提案した。
「手を繋いだら楽になるんじゃないか? ほら、借り人競争のときみたいに。」
「……そしたら、今度は陽太が疲れる。」
「まぁ、夫婦は二人で一つだからな。喜怒哀楽を共有してナンボだよ。」
「……夫婦でもないし、共有する喜怒哀楽もないでしょ。」
「分かったよ……。僕が繋ぎたいから繋いでくれ。」
「……それなら。」
僕はこれ以降、彼女との手繋ぎを欠かさなくなった。人目につく場合は、彼女の一存に全てを委ねて、可能な限り手と手を握り合わせて、心の拠り所を共有し合っていった。
放課後になると、僕は教室を飛び出して、急ぎ、二年生の教室がある区画へ向かった。僕はあの人と話がしたかった。そして、確信に近い推測を確信へと運びたかったのだ。数分間待機していると、その人物が教室を退出する姿が見えた。僕はその人の元に直行し、すぐさま存在を認知させた。
「……あれ、陽太さん。二年生のフロアに来るなんて珍しいですね。」
「加瀬先輩。少しだけお時間頂けませんか……。お尋ねしたいことがあります。」
「尋ねたいこと……ですか?」
「僕の彼女に関する話題です……。」
僕がそう言うと、先輩は笑顔を作った。僕が一体、何を告げようとしているのか、先輩には大体の察しがついていた。
「……これが潮時ってやつでしょうか。いずれ、私も陽太さんに話を伺うつもりでした。」
「そうなんですか……?」
「えぇ。ですが、丁度いい機会ですね。今日は生徒会の集いもありませんし、生徒会室でお話しましょうか。」
「……はい。」
生徒会室までの道中、先輩は僕に対してなんの与太話もしてこない。僕は最近との落差に当惑していた。その姿はまるで、義妹に倣って人格を切り替えているようにも見えた。
生徒会室に着くと、先輩は冷蔵庫から飲み物を取り出して、僕に手渡してくれた。そうして席に落ち着くと、僕は直接本題に踏み込んでいった。
「藤乃美海さん。僕の彼女、倉持愛花梨の義理のお姉さんの名前です。」
「素敵なお名前ですね。」
「……加瀬先輩。先輩はこの二人の名前に、聞き覚えがありますよね?」
僕が断定気味にそう問うと、先輩はどこか儚い表情をしながら、こう答えた。
「どっちの名前にも聞き覚えがあります。藤乃美海は私ですから……。」
「やっぱり……そうだったんですね。」
これで先輩と彼女の間柄が、義理の姉妹であると確定した。聞くと、『藤乃』姓は先輩の父親の姓で、今は父親が再婚して『加瀬』姓を名乗っているのだそう。
美海という、世間に大勢はいないような名前に、依然として艶々な髪。僕に対する執拗なまでの問い掛け。これら条件を以て、先輩が彼女の義姉でないほうが、かえって不自然だった。僕は当初から十中八九、そうなんだろうと見積もっていた。
どこはかとなく、「不思議ちゃん」な彼女と、漂う雰囲気が似ていたのだ。だが、いざ確信に至り、先輩が彼女に残された唯一の血縁者だと知ると、胸に迫ってくるものがあった。
ただし、そんな僕の調子を先輩が知るはずもなく、話が一段落すると、冷静沈着な先輩は、僕にこう問い掛けてきた。
「……尋ねたいことはそれだけですか?」
彼女と先輩の構図を知ることが第一だったものの、その目標は無事に達成されて、僕はその先に、二人の溝が埋まることを嘱望し始めていた。僕は自らが潤滑油になる決断をして、先輩にこんな要望を訴えた。
「僕は先輩に、せめてもう一度、彼女と会ってほしいんです……。」
「……それは、愛花梨からの要望ですか?」
「いえ、僕からの要望ですけど……。」
「……私が愛花梨と会うことで、何か状況が変わるとは思えません。」
「です、先輩が僕と彼女の交際について、何度も尋ねられたのは、彼女の私生活を案じていたからですよね……?」
「……案じていなかったと言えば、嘘になります。」
そう言うと、先輩は僕の要望を後回しにして、彼女との回顧録を語り始めた。
「……愛花梨は、本当に天使のような子でした。一人っ子の私にとって、愛花梨は実の妹に等しかったんです。」
「そんなに……そうだったんですか。」
「愛花梨の両親が育児放棄をしたときも、私は愛花梨の家に赴いて、家事や女の子のイロハを教えてあげました。私は愛花梨を、いつまでも慈しむ気でいたんです……。」
「だけど、その妹が解離性同一性障害を患ってしまった……と。」
「えぇ。そこで私は、愛花梨に拒絶されてしまいました……。あれ以降、連絡をしても何の返答も来ないんです。最悪の事態が引き起こっていないか、心配にもなりますよ……。」
先輩は若干、目を潤ませていた。彼女に対する愛情は、本物だった。
「……ですが、私が愛花梨の異父姉妹だからって、一体どうなるんですか?」
「ど、どうなるって……。」
「今の私にとって、愛花梨の存在は、言わば鏡花水月なんですよ。愛花梨の姿形が眼に映っても、実際に触れることは叶わない……。」
「……そんなことはないでしょうよ。」
「いいえ、私は愛花梨に絶縁を言い渡されてしまいましたから。愛花梨にとって、赤の他人でしかないんです……。」
僕は思わず感嘆してしまった。それは、先輩の言い放った台詞に、並々ならぬ耳馴染みがあったからだ。姉妹揃って、突き放したこと・突き放されたことを盾に取り、二度と復縁が叶わないと諦観していたのだ。
ここまで反応が酷似していると、たとえ半血の姉妹とは言え、思考回路は全血の姉妹と全く同等のものだった。ただし、先輩の言葉の中には、妄想の類である自虐が含まれていた。
虚構で盛られた話を、僕が素通りするはずがなく、先輩にこう迫った。
「……その赤の他人だって、愛花梨が言っていたんですか?」
「いえ、これは憶測ですけど……。」
「愛花梨が絶対に言うわけないんです……。僕は自責の念に駆られる彼女を、間近で見たんです。彼女は先輩との絶縁を後悔していました。それに愛花梨、美海さんとの記憶は鮮明に覚えていたんですよ。それって、先輩を想い続けていた現れじゃないですか。」
「……愛花梨はお人好しですね。過去の人間にも気を遣ってくれるなんて。」
「過去の人間って……なんですか、それ。」
「ただ、事実を言ったまでですよ……。」
先輩の事実という名の無責任に、僕は少々怒りを覚えた。彼女との絶縁を、勝手に不可逆なものだと錯覚して、彼女を遠い場所から俯瞰する。僕はこれが姉の行うべき所作だと言われても、当然首を縦には振れなかった。
そして、先輩に対する敬語を止め、訴え掛けるような口調で語り始めた。
「姉に過去も今も関係ないでしょう……。愛花梨にたかが一度逆上されただけで、簡単に切れていいはずの縁じゃないんです……。」
「……ですが。」
僕は遂に沸点を迎えた。もう、後戻りは不可能だった。
「孤独だったんだよ! 愛花梨はずっと孤独を抱えていた……。先輩が日常から居なくなってしまったから、余計にそれが悪化したんだ!」
「そ、そんなこと……。」
「責任を放棄しないでくださいよ! 愛花梨を孤独に生かした責任を……。」
先輩は僕の言葉に目を瞠った。何か反論を試みているようだったが、言葉として具現化できていなかった。
次の瞬間、机上が濡れ始めた。正確には、それを拭った手の甲も湿っていた。水滴の艶は、髪のそれと同一だった。自身は非力だという設定が誤りと、そう諭せたのだろう。
「……ごめんなさい。熱くなり過ぎました。」
「陽太さん。愛花梨に、話つけてもらうことって出来ますか……?」
「えぇ、もちろんです。愛花梨に返信するように言うんで、何かメッセージを送ってあげてください。」
「……分かりました。」
彼女が本当に先輩と再会したいのか、実情は僕にも分からなかった。しかし、これがアカリを引き出す、最高の契機になると踏んでいた。血縁関係の強大な引力に、僕は惚れ惚れしていたのだ。




