荷物持ちがいないと、水袋ひとつ管理できない
旧排気路は、膝をついて進むには狭すぎた。
石の天井が背中をこすり、湿った土の匂いが鼻の奥へ入り込む。松明の火は低く、救助隊の男たちは息を殺していた。
「本当にこっちで合ってるんだな」
先頭の男が小声で言う。
ノアは地図に浮かぶ青線を指でなぞった。
「はい。水音が左へ寄っています。第七坑道の本流はもう胸まで水が来ているはずです。こちらなら、腹ばいで抜けられます」
「戦えない子どもの勘に命を預けるとはな」
「勘じゃありません」
ノアは背負い袋を少し直した。
「石の湿り方と、空気の流れと、昨日置いた目印です」
言い返した声は小さい。
けれど、前より震えていなかった。
勇者カイルの剣より、自分の水袋の数のほうが、今は人を救える。そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。
排気路を抜けた先で、最初に見つけたのは治癒師の少女だった。
彼女は壁にもたれ、片足を抱えている。そばには空の水袋が二つ転がっていた。
「ノア……?」
少女はかすれた声で名前を呼んだ。
ノアはすぐに膝をつく。
「リーネさん。足首を見せてください」
「カイルが、近道だって。地図はいらないって……それで、水場を探しに」
「話は後で。水を一口だけ」
ノアは自分の水袋を渡しかけて、止めた。
全部飲ませてはいけない。
迷宮で本当に怖いのは、魔物より先に、水を配る順番を間違えることだ。
「一口。ゆっくりです」
リーネは頷き、唇を湿らせるだけにした。
救助隊の男が感心したように呟く。
「もっと飲ませてやればいいだろ」
「この先に二人倒れています。水袋は六つ。戻り道は狭いので、担架を持つ人は多く飲めません。今ここで全部使うと、帰り道で誰かが動けなくなります」
「……荷物持ちって、そんなことまで考えるのか」
「考えないと、誰かが帰れません」
ノアは地図を広げた。
赤線が二本、暗い坑道の先へ伸びている。片方は勇者パーティーの荷物置き場へ。もう片方は、カイルが単独で進んだ深層へ。
先に助けるべきは、動けない者。
勇者の面子より、怪我人の足首。
英雄の勘より、水袋の残量。
「リーネさんを担架へ。松明は一本消してください。空気が薄いです。次の角で湿布にできる苔があります」
「苔?」
「薬草の代わりです。前に僕が教えたのに、カイルは気持ち悪いと言って捨てました」
リーネが、痛みに耐えながら笑った。
「ノアの荷物袋、いつも変なものが入ってたものね」
「変なものじゃありません。帰るためのものです」
◇
二人目は、荷運びの見習いだった。
少年は崩れた岩の陰で震えていた。水袋は破れ、背負い紐は切れ、松明は濡れている。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
少年はノアを見るなり泣き出した。
「僕、昨日カイル様と一緒に笑った。荷物持ちは楽でいいなって。何も考えずに持つだけだって」
「謝罪は、地上で聞きます」
ノアは短く答えた。
「今は、右手を動かせますか」
「う、動く」
「なら、この紐を握ってください。担架を固定します。握っている間は、あなたも救助隊です」
少年の目が丸くなる。
「僕が?」
「はい。帰る人を増やすのも、救助です」
ノアは背負い袋から乾いた布を出し、破れた水袋の口を縛った。完全には直らない。けれど、湿布用の水を少し運ぶことならできる。
戦えない。
けれど、壊れた道具を捨てるか、別の役目に変えるかは、ノアが決められる。
救助隊の受付長が、後ろで低く言った。
「お前、本当に勇者パーティーで荷物持ちだったのか」
「はい」
「荷物持ちにしては、指示が細かい」
「荷物持ちだからです」
ノアは地図を畳み直した。
「誰が何を持つか間違えると、強い人から先に倒れます」
その時、奥の坑道から怒鳴り声が響いた。
「おい! 誰かいるのか! 俺を先に助けろ!」
勇者カイルの声だった。
救助隊の男たちが顔を見合わせる。
ノアの地図には、カイルの赤線がさらに深く、魔物の巡回路へ近づいていた。
「勇者様だ。先に行くか?」
受付長が問う。
ノアは首を横に振った。
「先にリーネさんと見習いを外へ出します」
「勇者を後回しにするのか」
「勇者様は歩けます。二人は歩けません」
ノアは、はっきりと言った。
「救助は、偉い順ではなく、帰れなくなる順です」
坑道が静まり返った。
リーネが、担架の上で小さく泣いた。
「ノア……ごめんね」
「帰ってからです」
ノアは地図へ新しい線を書き込む。
青い帰還路が、担架二つ分の幅へ少し広がった。迷宮が、ノアの判断を認めるように。
◇
地上へ出た時、空は夕焼けで赤かった。
待っていた町の人々が、担架を見て駆け寄る。リーネの母親が泣きながら娘を抱き、見習いの兄が何度も頭を下げた。
小さな報酬だった。
勇者はまだ深層にいる。カイルは怒っているだろう。地図係を置き去りにしたことを謝るかどうかも分からない。
それでも今日は、二人を帰せた。
ノアは地図の端に、震える字で書いた。
『救助順序。一、水。二、歩けない人。三、怒鳴る勇者』
受付長がそれを覗き込み、吹き出した。
「三番目は規則にするな」
「でも、次も間違えないために」
「……いや、いい。迷宮組合の仮規則にしておく。勇者だろうが貴族だろうが、救助は帰れなくなる順だ」
ノアは目を瞬いた。
自分の書いた線が、誰かの規則になる。
荷物持ちだった時には、一度もなかったことだ。
その時、迷宮の入口で警鐘が鳴った。
深層から、黒い霧が吹き上がる。
カイルが選んだ近道は、封鎖された古い竜道につながっていた。
ノアの地図の中央に、見たことのない金色の線が浮かぶ。
それは帰り道ではない。
新しい探索隊のための、まだ誰も歩いていない道だった。




