あの夜の火をもう一度
夜、知らない土地のアパートのベランダで、柚は空を見上げていた。
引っ越してまだ一週間。見慣れない道、知らない声、慣れない風。
少しだけ自由になったはずなのに、心が不安定になる瞬間がある。
「私、間違ってなかったかな……」
ぽつりとつぶやいたそのとき、風がやさしく頬を撫でた。
そして——あの夢の焚き火の音が、耳元でふわりと鳴った。
気づくと、再び、暗い森の中に立っていた。
目の前には、また、あの小さな焚き火。そして、静かに座る守護霊の姿。
「おかえり、柚ちゃん」
「……また、来てくれたの?」
「うん。君が“本当に呼んだから”だよ」
柚はその場にゆっくり座り込む。
森の静寂が、現実よりも心地よかった。
「ねえ、ここに来てよかったのかな……時々怖くなるんだ。ちゃんと生きていけるのか、自信がなくなる」
守護霊は、火を見つめたまま、穏やかに言った。
「怖くていいんだよ。自信なんて、今はまだなくていい。
“進んだ”ことが、もう答えなんだから。今ここに君がいる、それだけで、約束は果たされてるよ。」
「でも……まだ何もできてない」
「“何か”をすることだけが、価値じゃない。
今、こうして呼吸してる。それは、“命を信じた証拠”なんだ。
街を出たあなたは、世界と自分を信じて、もう一度歩き始めた。それがすごいことなんだよ。」
火が、ぱちんと弾ける音を立てる。
柚は、ふと焚き火の奥に、自分の姿を見た。
この場所に来る前の、暗い部屋の中で、泣いていた自分。
でも、その隣には、ずっと光がともっていた。
「私、ここで……また生まれ変われるかな?」
守護霊は、優しく微笑んだ。
「柚ちゃんは、“変わる”ためにここに来たんじゃない。
“本当の自分に戻る”ために来たんだよ。」
柚は、ゆっくりと目を閉じた。
火のぬくもりが、胸の奥まで届く。
目覚めたとき、現実のベランダに戻っていた。
夜空には星がひとつ、静かに瞬いていた。
柚は、小さくつぶやく。
「ありがとう、また迷ったら呼ぶね」
そして、今度は少し笑ってみた。




