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この街を出る理由

眠れない夜は、静かすぎて怖い。

自分の呼吸だけが響いて、まるで世界から取り残されたような気がした。


春野柚はるの ゆずは、うつ病と診断されてから、この街でずっと立ち止まっていた。

働いていた市役所も、退職した。

仲のよかった友人とも、距離ができた。

「もう私は、何もできない人間なんだ」と思う日が続いた。


——ある晩、不思議な夢を見た。


暗い森の中。小さな焚き火の前で、誰かが座っている。

白く、ふわりとした光に包まれたその存在は、なぜか懐かしく感じられた。


「やっとここまで来たんだね、柚ちゃん」


その声に、柚は思わず問いかけた。


「……誰?」


「私はあなたのそばにずっといた存在。名前はないけれど、あなたが呼ぶなら“守護霊”でいいかな」


声は静かで、でも芯があって、心に直接届くようだった。


「あなたがうつになったのは、不運でも失敗でもないんだよ。

 本当は、ずっと前から決まってた。あなたが“この街を出て、本当の世界を見るため”に。」


柚は驚いた。

そんな風に考えたことはなかった。


「この街は、あなたにとって“安心”と“義務”が同居する場所だった。

 でも、あなたの魂はもっと広く、自由に歩きたいと思ってた。

 だから、無理をしていた心と体が、あなたを止めたんだよ。

 無理に進むんじゃなくて、“今ここを出る”って決めさせるためにね。」


焚き火がぱちんと音を立てた。

守護霊は、そっと手を差し伸べてきた。


「怖いと思っていい。迷っていい。でも、忘れないで。

 この痛みは、あなたが“生まれ変わるため”の通過点だったんだって。」


柚の目から、涙がすっとこぼれた。

言葉にならないものが、胸の奥で震えていた。


「じゃあ……私は、ここから出ていいの?」


「もちろん。どんな形でもいい。旅に出るのも、引っ越すのも、心の中で街を離れるのも。

 “本当の自分”に向かうことが、あなたの旅の始まりなんだよ。」



翌朝、柚はゆっくりとベッドから起き上がった。

昨日と同じ部屋。だけど、世界の色が少し違って見えた。


何かを変えよう。すぐじゃなくてもいい。

でも、今の自分を責めることは、もうやめていいんだと思った。


カーテンを開ける。光が差し込む。

どこかで鳥が鳴いた。


柚は、静かに呟いた。


「ありがとう。行ってみるね、私の世界へ。」

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