第8話 敗戦の残滓を払う信頼の盾
祝祭の戦場 8:敗戦の残滓を払う信頼の盾
【セレナの屋敷】
静まり返った室内で、セレナは静かに記録帳を閉じた。
そこには、ミーナという少女の儚い最期と、マグナスという不退転の武人が盾に捧げた誓いが、冷徹かつ美麗な筆致で刻まれている。
「儚さと、覚悟。――どちらも戦場というキャンバスを彩る見事な美学。けれど次は……より昏く、激しい、狂気と挑戦の記録になるでしょう」
セレナの赤い右目が、暗がりのなかで淡く怪しげに光る。
その瞬間、世界の境界が揺らぎ、舞台は再び血煙の立ち込める戦場へと移り変わる。
【戦場の開幕】
ヴァルディアとノクシアの激しい衝突。
地鳴りのような咆哮と怒号が響くなか、タニアは巨大な銀のハンマーを固く握りしめ、前線へと歩みを進めていた。
「うっ……、あ、あれは……っ」
進軍の途中、タニアの足が止まる。
視線の先には、ヴァルディアの仲間の亡骸があった。肉体はすでに生気を失い、光の粒子となってジワジワと虚空へ崩れ去ろうとしている。
見たくもない、そして直視するには残酷すぎる敗北の光景だった。
(戦場で生きる以上、私も、いつかはあんな風に……)
不意によぎる最悪の想像。しかし、その恐怖を打ち消すように、アークの力強い言葉が胸の奥でリフレインした。
『大丈夫だ、タニア。お前を消滅させるような真似は絶対にさせない。そうならない方法を、俺が必ず見つけてみせる。それに……もし万が一、お前が消滅する時は俺も一緒だ。俺の命は、常にお前と共にある』
タニアは溢れそうになる涙をグッと拭い、瞳に不屈の決意を宿した。
「次は負けない……。ケイ……絶対に」
【激突】
戦場の中央。
そこでは、双剣を携えた美少年が、まるで美しい舞を踊るかのように敵兵を切り裂いていた。
只事ではない神速の身のこなし。乱戦のなかであっても、彼の残像を目で追える者すらほとんどいない。
周囲にはすでに濃厚な血の匂いが立ちこめ、彼の「作品」となった犠牲者たちが物言わぬ骸となって転がっていた。
ふと、こちらに気づいたケイの右目が妖しく赤く光る。彼はその端正な顔に、酷く冷徹な、しかし無邪気な笑みを浮かべた。
「ふふ……また会えたね、お姉さん」
鈴の鳴るようなイタズラっぽい声。しかし、その響きには明確な狂気が孕んでいた。
タニアは巨大なハンマーを構え、真っ向から彼を睨み返す。
「前回は私が敗れた……。でも、もう同じ過ちは繰り返さない!」
ケイの双剣が閃き、タニアのハンマーが激しい火花を散らす。
彼の速度はやはり恐ろしい。油断すれば一瞬で視界から消える。だからこそ、タニアは必死に食らいついた。懐に飛び込み、密着し続ける。
──すべては、彼にあの不気味なハイドを使わせないための捨て身の戦術だった。
「いいね、その必死な顔。必死に抗う表情……本当に最高だよ!」
ケイは歓喜に声を弾ませながら、容赦のない猛攻を繰り出す。その瞳はタニア個人へのサディズムというより、最高の芸術品を値踏みするような、どこか浮世離れした恍惚に満ちていた。
(私は消えたくない。……でも、もう絶対に逃げない! マスターと共に、未来を生きるために!)
ハンマーと双剣が幾度もぶつかり合い、戦場の轟音を掻き消すように、二人の激しい呼吸が交錯する。
ケイの変幻自在な刃がタニアの肩をかすめ、鮮血が滲む。
だが、彼女の膝は折れない。
「痛み……これも、私が生きている証。私は、絶対に負けない!」
タニアは自らの肉体に鞭を打ち、手にした巨塊を軽々と振り回してケイを猛追した。
一撃必殺の振り下ろし、空間ごと薙ぎ払う横薙ぎ、予測不能な反転の振り回し。バリエーション豊かな重撃がケイを襲う。
幾度も死線を潜り抜けたタニアは、彼の異常な速度に、その身を以て対応し始めていた。
純粋な力のぶつかり合いであれば、腕力はタニアに圧倒的な分がある。
ケイは危うく頭部を砕かれそうになりながらも、楽しそうに細めた目でタニアを凝視した。
「やっぱりお姉さんは面白いなぁ……。前回よりもずっと、僕の心を揺さぶる良い顔をしてる」
タニアは腹の底から声を絞り出し、ハンマーを天高く振り上げた。
「私は――マスターと共に、この手で未来を掴む!」
【戦況と深淵】
その頃、戦場全体はヴァルディア陣営が完全に圧倒していた。
ノクシアの陣形はズタズタに押し潰され、漆黒の軍旗が次々と泥に塗れて倒れていく。
「チッ、ケイの野郎はどこで遊んでやがる! アテにならん化け物め!」
「奴が軍の命令通りに動くわけなかろう。あれは扱いづらすぎる、ただの不発の切り札だ!」
ノクシアの将兵たちは吐き捨てるように毒づき、一斉に撤退を始めを始める。
天空の器が示す光は、明確にヴァルディア優勢を告げていた。
だが、ケイは自陣の敗色など爪の先ほども気に留めていなかった。彼は双剣を指先で軽く回し、不敵な笑みを浮かべる。
「戦争の勝ち負けなんて、僕にはどうでもいいんだ。僕はただ、素晴らしい作品が作れれば、それでいいからね」
激しい打ち合いの最中、鋭い交差の直後に、ケイは大きく後方へと飛び退いた。
「――そろそろ、決めようかな」
次の瞬間、ケイの姿が空気の中にスッと掻き消えた。
彼のハイドは、並の同調者が使うものとは一線を画している。僅かな匂いも、風の揺らぎも、気配すら残さない。
ハイドを極限まで昇華させたその完全なる隠密状態を、彼は「深淵」と呼んでいた。
まるで、最初から世界に存在していなかったかのような、絶対的な静寂が戦場を支配する。
(クッ……、警戒していたのに、あっさりとハイドを許してしまった……!)
タニアの脳裏に、前回の敗北の記憶が最悪のフラッシュバックとなって蘇る。
背後から音もなく襲いかかる冷たい刃、胸を貫く感覚、薄れゆく意識――。
じわりと冷や汗が浮かび、彼女の顔が青ざめる。どれほど気丈に振る舞おうとも、やはり彼女とて、痛みや死は恐ろしいのだ。
タニアは震える手で胸元の緑のネックレスをぐっと握りしめ、祈るように目を閉じた。
(マスター……、どうか、私を守ってください……!)
その切実な祈りに応えるように、力強く、温かい声が彼女の精神に直接響き渡った。
──『タニア、恐れるな。俺はいつでも、ここにいる』
「……っ!」
タニアはカッと目を見開いた。
彼女が捉えたのは、ケイの視覚的な気配でも、五感の残滓でもない。――彼の命そのものが発する「魂の揺れ」だった。
背後からケイの必殺の奇襲が迫るその瞬間、タニアは一切の迷いなくハンマーを真後ろへと振り抜いた。
──ガキィィィンッ!!!
鼓膜を切り裂くような金属音が響き、火花が夜空のように散る。
完璧に捉えられたケイの双剣が、強烈な力で弾き返された。
ケイは驚愕に一瞬だけ目を細めたが、すぐにその笑みをさらに深く、昏く歪めた。
「へぇ……、やるじゃん。今のを防ぐんだ」
タニアの胸の内で、確信に満ちた歓喜が湧き上がる。
(マスターが……、守ってくれた……!)
その揺るぎない絆の証明が、彼女の瞳に、決して折れない真の力を宿らせた。
後方から、勝鬨を上げるヴァルディア陣営の本体が怒涛の勢いでなだれ込んでくる。
ノクシアの敗北は、もはや決定的一択となった。
ケイはつまらなそうに大袈裟に肩をすくめると、双剣をさらりと鞘へと収めた。
「ちぇっ……邪魔が入っちゃったな。まぁいいや、またね、お姉さん」
そう言い残すと、彼は戦場の濃い影のなかへと、滑るように姿を消していった。
【ノクシアの屋敷の一室】
セレナは、かすかな羽ペンの音だけを響かせながら、白いページに文字を走らせていた。
「これは、新しい美学。――『祈りによる防御』
相手の気配ではなく、魂の揺れを察知して刃を拒む。
恐怖を祈りに変え、祈りを力に変える。
それはミーナの儚さでもなく、マグナスの盾の覚悟でもない。……互いを信じ抜く、信頼の美」
パタン、と静かにページを閉じる音が響く。
セレナの記録帳には、また一つ、誰も見たことのない新しい美学の1ページが刻まれたのだった。




