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第21話 人の意地

祝祭の戦場 21 人の意地


夕暮れ時。燃えるような茜色の光が、広場にぽつりと佇むダンの影を長く引き延ばしていた。


その肉体は、すでに内側からボロボロに崩れ去る寸前だった。


「ククッ……。ウグッ……」


血の混じった不敵な笑みを浮かべるダンの四肢は、絶え間ない激痛に小さく震えている。


ただの「人間」でありながら、死線を潜り抜け、己を呪いのように鍛え上げた今の彼は、並の「同調者」と互角に渡り合えるほどの異常な戦闘能力を手に入れていた。


だが、それは肉体が強くなったわけではない。

ティレナを殺された、どす黒い執念だけが、限界を迎えた死に体の肉体を無理やり動かしているに過ぎなかった。


このような歪んだ無理が、長く続くはずもない。

彼の肉体と精神の「崩壊の時」は、すぐそこまで迫っていた。


ふとした瞬間にティレナの面影を思い出しては、張り裂けんばかりの胸の痛みに涙を流す。


そして、その後に押し寄せる圧倒的な憎悪に心を焼き尽くされそうになると、泥のような酒を煽って意識を濁らせ、狂気を紛らわせる。その繰り返しだった。


「ティレナ……俺は……。俺は、もう……」


ポツリと呟いたダンの目から、熱い涙が頬を伝って地面へと落ちていく。

その時だった。


――『私は、ここに居ます』


脳裏をよぎったのは、かつて彼女に生涯を誓った、あのプロポーズの日の記憶。


優しく微笑み、世界で一番愛おしそうに自分を見つめてくれたティレナの、鈴を転がすような愛の言葉だった。


その声が、濁りきったダンの世界を、一瞬だけあの幸福だった日々の色彩で満たしていく。


涙を拭い、ダンは静かに、だが何よりも強固な決意をその胸に固めた。


(待っていてくれ、ティレナ。俺は必ず――)


最期の戦いへ向かう復讐者の瞳に、迷いはもう何もなかった。


---


戦場には、肉体が激突する金属音と、激しい風切り音が鳴り響いていた。


宿敵『双剣のケイ』との死闘は、遅々として続いていた。

ヒラヒラとした衣装を翻し、ダンは文字通り命を削りながら戦場を駆ける。


地獄の鍛錬によって、彼の身のこなしはすでに人間の限界を突破し、並の同調者なら仕留められる領域に達していた。


だが――悲しいかな、眼前に立つ怪物の動きは、その遥か上、天上の次元にあった。


「諦める、ものか……! ティレナの苦しみを……その身に、刻めッ! ククッ、ゲホッ!」


喉を血で濡らしながら、ダンは必死に立ち回る。

爆発で崩れた遮蔽物に身を隠し、地形を利用し、死角から無数のボウガンの矢を放ち、衣装の影から暗器を滑らせる。


人間の知恵と執念のすべてをぶつけるような猛攻。


しかし、ケイはそのすべてを、まるでダンスでも踊るかのように優雅に、紙一重ですり抜けていく。


想いの強さだけでは、決して届かない現実。どれほどの憎悪を注ごうとも、覆ることのない絶対的な実力差という絶望が、冷厳としてそこに横たわっていた。


息を乱し、満身創痍でボウガンを構え直すダン。

そんな彼を、楽しげにもてあそぶように見つめていたケイの唇が、不気味にニヤリと吊り上がった。


「ねえ、お兄さん。さっきからずうっと『ティレナ、ティレナ』って言ってるよね。……今、やっと思い出したよ」


唐突に戦場に響いた、美少年の無邪気な声。

その瞬間、過酷な戦闘でいまや完全に壊れかけていたダンの瞳の奥に、鋭い光が灯った。


ケイは、空間を滑るような神速の動きでダンの猛攻を軽々とあしらいながら、歌うような口調で言葉を紡ぎ続けた。


「あの緑の髪のお姉さん。思い出したよ、彼女は僕の『最高の作品』の一つになったんだ」


愉悦に濡れた赤い瞳が、ダンの動揺を値踏みするように見つめる。


「必死になって逃げ回る彼女を、僕は何度もじわじわと追い詰めて、仕留めたんだ。すごかったよ、ボロボロになりながら泣き叫んでた。『死ぬわけにはいかない!』『私は、必ず生きて帰るんだ!』ってさ」


「――っ!!」


その言葉が鼓膜に触れた瞬間、ダンの顔面が怒りと憎悪で引きつった。


かつて出陣の前に、自分に微笑みかけてくれた彼女の最期の悲鳴が、脳内で最悪の形となって再生される。


だが、悪魔の告白は終わらない。


「あんなに惨めに泣きながら逃げ回っていたのに、最後は何故か、覚悟を決めたみたいに僕に立ち向かって来たんだ。……うん、あれは本当に綺麗だった。もちろん、仕留めちゃったけどね」


ダンは、糸が切れた人形のようにガクリと深く俯き、その場に立ち尽くした。


前髪に隠れて表情は一切見えない。だが、彼の身体から立ち昇る空気は、肌を刺すような、触れれば爆発しそうなほどのドス黒い緊迫感を孕んで辺りに漂っていた。


(いいぞ、お兄さん……。もっと壊れろ……。その怒りに狂った、醜い姿を僕に見せてよ)


ケイはダンの沈黙を極上の前菜のように味わいながら、最後の一刺しを突き入れる。


「彼女が死ぬ瞬間の『絶望に満ちた表情』……。あれは本当に、感動すら覚える芸術だったよ」


心底楽しくてたまらないといった、無邪気な子供のような口調でケイは言い放った。


しかし――これに対して、ダンは何も答えなかった。

変わらず深く俯いたまま指先一つ動かさず、ただ、不気味なほどの静寂だけが彼を包んでいた。


夜の草原が、まるで息をひそめるように深い静寂に包まれる。


さわさわと草を揺らしていた風すらも、ピタリと止んだ。


ケイは、目の前の玩具がどう壊れるかを見届けようと、愉悦の笑みを浮かべたままダンを見つめている。


そして――。


冷たい静寂を破り、ダンの口から漏れ出た言葉は、ケイの予想を根底から覆すものだった。


ゆっくりと顔を上げたダンの表情。そこにあったのは、底知れない、だがどこまでも凪いだ「静かな狂気」の深淵だった。


ケイが期待していたような、醜い怒りや絶望の涙には、ただの一滴も染まってはいない。


「ケイ……。それを聞かせれば、俺が怒りに任せて無様に壊れると……そう思ったのだろう? ククッ」


「――っ!?」


ケイの端正な顔が、わずかに強張った。その赤い瞳に、初めて明確な動動が走る。本能的な気味悪さに、怪物の足が、思わず数歩後ずさった。


(こいつ……壊れていない。絶望も、発狂もしていない……どうしてだ!?)


ダンは静かに、だが地鳴りのような力強さを孕んだ濁声(だくせい)を言い放つ。


「お前は、人間というものを何も分かっていない。……俺の心はな、とうの昔に、お前を仕留めること『以外』のすべてを削ぎ落としてあるんだよ。――これが、ただの『人間』の狂気であり、執念だ!!」


刹那。

ダンの身体が、これまでを遥かに凌駕する踏み込みを見せた。


ガチ、と強固な金属音が響くと同時に、至近距離からボウガンの引き金が絞られる。

シュンッ!!

放たれた矢は、風を切り裂き、ケイへと吸い込まれていった。


(どうして……!?)


絶対的な強者として戦場に君臨していたケイの身体が、金縛りに遭ったかのように硬直していた。


刹那、風を切り裂いて肉薄した矢が、肉を裂き、骨を砕く鈍い音を立ててケイの身体に深く突き刺さる。


「グッ……クッ……!」


これまでに味わったことのない鋭い激痛に、ケイの細い身体が大きくたじろいだ。その美しい顔は、初めて味わう恐怖と驚愕に歪み、動揺を隠しきれない。


間髪入れず、ダンはボウガンで追撃の構えをとっていた。冷酷に装填された次弾の矢が、月光を反射して鋭く、禍々しい光を放つ。


「あの世で、ティレナに……這いつくばって詫びろォォッ!!」


ケイの赤い眼が、限界まで見開かれた。

脳裏をよぎる、明確な『死』の予感。――命の危機。


生存本能に突き動かされたケイの双剣が、思考よりも速く、反射的に閃光を描いた。


気がついたときには、冷徹な刃が、ダンの胸元を深く、致命的に切り裂いていた。


ドク、と鮮血が溢れ出し、口から血を吐きながら――しかし、ダンは狂おしく笑った。


肉体を真っ二つにされかねない致命傷を負わされながらも、彼は己の死など、初めから一瞥(いちべつ)すら与えていなかった。


「どうやら……お前は、この俺を……『作品』には、できなかったようだな……。ククッ、ゲホッ……!」


それは、傲慢な芸術家気取りの怪物を、精神の底から引きずり下ろした男の、皮肉に満ちた満足げな笑みだった。


ダンは確信していた。ただの人間である自分が、この瞬間、化け物に一矢報い、勝利したのだと。


激しい動揺に耐えかねたケイは、ダンにとどめを刺すことすら忘れ、逃げるようにその場を飛び去った。


夜の草原を疾走しながら、ケイの脳内は、未だかつてない混沌に支配されていた。


(分からない……理解できない! どうしてあいつは、絶望しなかった……!? どうして、壊れなかったんだ……!)


恐怖を打ち消すように必死に思考を巡らせるケイ。だがそれと同時に、身体に突き刺さったボウガンの矢の痛みが、妙に鬱陶しく、そして不気味なほど激しく疼(うず)き始めていることに、彼はまだ気づいていなかった。



---


夜が明け、戦場に静かに朝日が差し込み始めていた。

優しくあたたかな黎明(れいめい)の光が、血に汚れた草木を、まるで包み込むように等しく照らし出していく。


一本の巨木の根元に寄りかかり、ダンは静かに崩れ落ちていた。


胸に刻まれた傷は深く、流れた血の量はあまりに多すぎる。もはや、助からないことは誰の目にも明らかだった。


だが、死線に立つ彼の心は、奇妙なほど穏やかに、そして深く満たされていた。


「ククッ……ゲホッ。……見せて、やったぞ。ただの『人間』の、意地を……」


その蒼白な唇に浮かんだのは、狂気ではない。すべてをやり遂げた男の、誇らしげで満足そうな微笑みだった。


死を目前にし、ダンの瞳からゆっくりと光が失われ、虚ろに濁っていく。


しかし、その最期の網膜の奥に、――あの日失った、愛しい人の幻影が鮮やかに結ばれた。


それは、叶うはずのなかった未来の調律。

ティレナと交わした夢の結婚式。小さな養子を温かく迎え入れ、木漏れ日の中で笑い合う、穏やかで幸福に満ちた愛の日々。


それらの温かな情景が、走馬灯のように浮かんでは、朝靄(あさもや)の彼方へと儚く消えていく。


「ティレナ……。すまない……。仇は討てなかった……。だけど、俺は……、いや……私は……満足だ。今、ようやく……君の、元へ……」


さわさわと、朝の明かりを浴びた草原が少しだけざわつき、そして、世界に完全な静寂が訪れた。


優しく、どこまでもあたたかな朝日の光が、物言わぬダンの亡骸を包み込む。


その穏やかな死に顔は、復讐の悪魔に魂を売る前の、――かつて歌を愛し、子供たちに慕われていた、あの優しかった頃のダンの表情に、静かに戻っていた。


---


ノクシア国、セレナの豪奢な屋敷。

かつてない静寂が部屋を満たす中、ケイは愛用の双剣をじっと見つめたまま、微動だにせず考え込んでいた。


ケイの赤い瞳は、見たこともない動揺に揺れている。


「どうして……あいつは……。どうして、壊れなかったんだ……」


ポツリと漏れ出た声には、これまでの無邪気な余裕など微塵もなかった。


お兄さんを壊して『最高傑作』に仕上げるはずだった。絶望に狂う無様な姿を見るはずだった。


なのに、あの人間は致命傷を負いながら笑っていた。自分を作品にはできなかったと、勝ち誇ったように。


その隣で、セレナは美少年の痛々しい横顔を心配そうに見守っていた。


いつもなら戦場から戻れば嬉々として芸術を語る彼が、今はまるで、正体不明の怪物を目撃してしまったかのように動揺している。かけるべき言葉を、彼女は最後まで見つけられずにいた。


「……うっとうしいな」


ケイは小さく、不快そうに顔を顰(しか)めた。

傷口はとうに塞がっているはずだった。


だが、ダンが放ったあの最後の一矢――その痛みの残滓(ざんし)が、今もなお、彼の肉体と精神の奥底を不気味に、激しく疼かせ続けている。


ただの『人間』が命を賭して遺した、消えない呪いのように。


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