第11話 不器用な父親
祝祭の戦場 11:不器用な父親
【回想】
デイジーが七歳の時、父は病床で静かに息を引き取った。
生まれてすぐに母を失い、その温もりさえ知らない彼女にとって、優しい父の存在こそが世界で唯一の拠り所だった。
「パパ! 私を置いていかないで……っ!」
白く細い指で、次第に冷たくなっていく父の手を握りしめ、幼き日のデイジーは泣き叫んだ。
その悲痛な叫びに応えるように、父は最期に愛おしげな微笑みを浮かべ、静かに旅立っていった。
裕福な家に生まれたため、幸いにも天涯孤独の身で路頭に迷うような事態にはならなかった。
しかし、どれほど財産があろうとも、幼い胸にぽっかりと空いた孤独の穴が埋まることはない。
主を失った広すぎる屋敷の中で、デイジーは毎夜、静寂と寂しさに押し潰されそうになりながら長い夜を過ごすのだった。
【現在】
それから数年。賑やかな市場の雑踏の中を、デイジーとマグナスは並んで歩いていた。
私生活でのマグナスは、戦場のような重装甲ではなく、動きやすさを重視した軽装の鎧を纏っている。
とはいえ、衣服の上からでも容易に察せられる筋骨隆々の肉体は健在で、そこにいるだけで圧倒的な存在感を放つ大男であることに変わりはない。
今年で十三歳になるデイジー。人並みには成長しているはずの彼女だが、マグナスのあまりの巨躯と対比されると、まるで妖精のように小さく見えた。
その凸凹な二人の歩調が、どこか微笑ましい空気を醸し出している。
しかし、周囲の視線は容赦なく二人へと注がれる。
「見ろよ、エリュシオンの盾、我らの英雄だ!」
「マグナス様がいてくだされば、この街は安泰だな」
「……なあ、あそこにいる少女がマグナス様のマスターだって噂だぜ。弱冠十三歳にしてあの英雄を従えるなんて、一体どれほどの非凡な資質なんだ……」
歩く先々で、感嘆と好奇の混ざったひそひそ話が耳に届く。せっかくの休日に浴びせられる過剰な注目に、デイジーはあからさまに不満そうな表情を浮かべ、小さな唇を尖らせた。
「……もう、皆騒ぎすぎ。今日はパパと、楽しくお買い物に来ただけなのに」
ボソリと溢された可愛らしい愚痴に、マグナスは困ったように太い眉を下げた。
戦場では数多の敵を叩き潰してきた勇猛果敢な英雄も、目の前の小さな少女にだけは、どうにも形無しになってしまう。
「おっと……。デイジー、少しご機嫌斜めか?」
「当たり前でしょ! 私は今日、パパと二人っきりで過ごしたいんだから!」
少女の純粋で、どこか切実な独占欲。それを真っ直ぐにぶつけられ、マグナスはますます困惑した表情を浮かべた。
しばらく深く考え込むように顎に手を当てていた大男だったが、ふと何かを思いついたように、その厳つい顔を和らげた。
「デイジー。それなら……あの場所へ行こうか」
それは、二人にとって特別な思い出の場所。マグナスに促され、デイジーは顔を輝かせる。二人は街の喧騒を背に、エリュシオンを一望できる静かな高台へと歩みを進めた。
【高台】
坂を登りきった先には、遮るもののない美しい景色が広がっていた。
緑鮮やかな草原が辺りを優しく包み込み、そよぐ風が草木を心地よく揺らしている。街のすべてを見下ろせるこの高台は、デイジーの一番のお気に入りの場所だった。
生前、父がよく彼女を肩車して連れてきてくれた、大切な思い出の場所でもあるからだ。
「ん、やっぱりここは最高!」
満足そうに満面の笑みを浮かべるデイジーを見て、マグナスはホッと胸を撫で下ろした。
戦場で見せる威風堂々とした覇気は消え失せ、そこにはただ、娘の機嫌を気にする不器用な父親の姿があった。
「パパ、ずっと一緒にいてね! 戦場に行っても、必ず生きて帰ってくること! 約束よ!」
「ああ……。私はデイジーを置いて死んだりしないさ。そうだな、お前がいつか素敵な人と出会って、幸せになるのを見届けるまでは死ねんからな」
からかうようなマグナスの言葉に、デイジーは即座に首を振る。
「むぅ、私にはパパがいれば十分だもん!」
「本当か? ……そう言ってもらえると、お父さん、少し嬉しいぞ」
マグナスは大きな手を頭の後ろに回し、照れくさそうに笑った。
その時、草原を吹き抜けていた風が一瞬だけピタリと止んだ。
世界から音が消えたかのような、奇妙な静けさが辺りを支配する。
デイジーはふと視線を落とし、寂しげに俯いた。まるで、遠い日の記憶を手繰り寄せるかのように、ぽつりぽつりと話し始める。
「パパが死んじゃってから……ずっと、ずっと寂しかったの。広すぎるお家で一人ぼっちで、もういっそ、私も死んじゃおうかって何度も思った。でも、戻ってきてくれたんだよね……パパ……」
その言葉に、マグナスは胸を突かれたように、少し困ったような切ない表情を浮かべた。
彼は理解している。自分が彼女の本当の父親ではなく、同調者に過ぎないことを。
そして――デイジー自身も、本当はその残酷な事実を誰よりも理解していた。
どんなに容姿が似ていても、自分を想ってくれていても、死んだ人間が生き返ったわけではない。目の前にいる大男は、かつて自分を愛してくれた「パパ」とは違う存在だ。
分かっている。けれど、あの凍えるような孤独の中で、蜘蛛の糸を掴むように「パパが戻ってきてくれた」と思いたかった。
そんな少女の悲しい葛藤が、彼女の小さな肩を微かに震わせる。
デイジーはゆっくりと顔を上げ、涙を堪えるような、けれど真っ直ぐで真剣な瞳でマグナスを見つめた。
「分かってるの。本当は、パパが戻ってきたわけじゃないってことくらい。……でもね、今は、私にとってマグナスがパパなの。私のパパになってくれて、ありがとう……!」
【誓い】
デイジーの言葉を受け止めながら、マグナスは密かに胸の内で、彼女と過ごしてきたこれまでの短い日々を振り返っていた。
創造された当初の彼は、「父親」という存在が何なのか、どう振る舞えばいいのか分からず、ただただ戸惑うばかりだった。
『ほら! パパ、また私のことを「マスター」って呼んだ! 私のことはデイジーって呼んでって言ったでしょ!』
『おっ、そ、そうだったな、デイジー。すまん、つい癖で……』
そんな、微笑ましくも不器用なやり取りを思い出す。
最初は戸惑いから始まった関係だった。だが、共に過ごし、彼女の孤独と言葉に触れるうちに、マグナスの心には確かな感情が芽生えていた。
今では、血のつながりなど関係なく、目の前のデイジーを本当の娘のように深く愛している。
マグナスは彼女の前に膝をつき、目線を合わせると、決意に満ちた声で静かに告げた。
「私はお前を守る。このエリュシオンの街を、そしてお前の生きる世界を守る。どんな強固な障壁よりも頑丈な盾となり、お前の未来を必ず守り抜くと誓おう」
その瞬間、止まっていた風が再び草原を駆け抜けた。
祝福を告げるかのように、色鮮やかな草花が波のように揺れ動く。
彼にとって、これから戦場に立つ覚悟は、もはや英雄としての義務やマスターへの忠誠などという安いものではなかった。
娘のように想い、自分を父親と呼んでくれた最愛の少女の未来を守るため――何があろうと、決して死んではならないという、魂に刻んだ絶対の誓いそのものだった。
吹き抜ける優しい風が、二人を包み込んでいく。
夕暮れの光の中、英雄と少女の絆は、誰にも引き裂けないほど深く、静かに結ばれたのだった。




