港町のパエリア
再び業務に戻り、夕食時にヴィンセント殿下の給仕をしていた時のこと。
「リア、今度の日曜日、息抜きに隣町まで出かけてみないかい?」
「お出かけですか」
私は水差しをテーブルに戻す手を止めて、ヴィンセント殿下のほうを振り返る。
すると、殿下はおもむろにこう切り出した。
「君はここへ来てから、とてもよく働いてくれているだろう。城内でも大活躍していると、メイド長から報告があったんだ。私としては嬉しいけれど、同時に少し申し訳ない気持ちにもなっていてね……」
ヴィンセント殿下は、あれからだいぶ日が経つのに、いまだに私のことを気にかけてくれていたらしい。ここに匿ってもらえるだけでもありがたいのに、その心配りが嬉しかった。
「この間、隣のアトランタ町の名物料理、パエリアの話をしただろう。美味しい店を知っているんだけど、よかったらどうかな」
「ええっ、あのパエリアのお店に?」
私は興奮のあまり、思わず前のめりになって答えた。
ヴィンセント殿下は、私が米料理――パエリアに恋い焦がれていたことを、覚えていてくれたらしい。
パエリアが隣のアトランタ町の郷土料理であることは、ソフィアからも聞いていた。
とても有名らしく、私もいつか行ってみたいと思っていたところだった。けれど、私はお尋ね者の身だし、お城勤めの仕事もある。なかなか隣町まで足を延ばせずにいたのだ。
――それを、まさかヴィンセント殿下のほうから誘っていただけるなんて。
「君のことは、一応『私の遠い親戚の娘』だと言ってあるから、休日に連れ出しても怪しまれないだろう。日頃の働きへのねぎらいだと思ってほしい」
「ありがとうございます。実は以前から、パエリアを食べに行きたいと思っていたんです。ご一緒させていただけるなんて嬉しいです」
私は、遠慮という言葉が頭からすっぽり抜け落ちて、すっかり浮かれていた。
「では、今度の日曜日を空けておいて。午前中に出発しよう」
そう言って、ヴィンセント殿下は食事を終え、食堂を後にした。
あとに残された私は、ウキウキと週末のことを考えていた。だから、殿下がいつもより少しだけ思い詰めたような表情をしていたことにも、この時はさほど気を留めていなかった。
***
そんなわけで次の日曜日、私とヴィンセント殿下は、隣のアトランタ町に繰り出していた。
アトランタ町は、港町として有名だった。海沿いの通りには色とりどりのレンガの家が建ち並び、にぎやかな市が開かれている。青い水平線の上では、白い帆を上げた漁船が風をはらんでいた。それはさながら、前世の旅番組で見た、地中海やイタリアの港町を思わせる景色だった。
大通りに面した、一軒のレンガ造りのお店の前で馬車が停まった。
ヴィンセント殿下にエスコートされて扉をくぐると、中から魚介のだしのかぐわしい香りと、食欲をそそるスパイスの香りがふわりと鼻をくすぐった。
(ああ……これはまさしく、前世で食べたパエリアの香り……!)
私の中に、向こうの世界での記憶が呼び覚まされる。
前世で、私は何度かパエリアを食べたことがある。魚介のだしの利いたスープに、サフランなどの独特なスパイスを合わせて、お米を炊き上げた料理だ。
とりわけ大好物というわけでもなかったけれど、今の私を惹きつけてやまないのは、パエリアに使われている“米”の存在だった。
しばらくすると、ウェイターが平たい鉄鍋に入った料理を運んできた。
もくもくと立ちのぼる湯気の向こうから、黄色くつやつやと輝くお米が姿を現す。
「はっ……これが、あの噂のパエリアですね」
(こ、米だわ……)
私は目を輝かせた。
この世界に転生してきて、もうずいぶん経つ。すっかりこちらでの生活にも馴染んだつもりだったけれど、どうしても忘れられないものがひとつだけあった。――それこそが、今目の前にしているこの米。ひいては“和食”である。
全体的にヨーロッパ風の文化が浸透しているこの世界に、和食という文化は存在しなかった。食事は欧風の肉料理が中心。魚が出ることはあっても、日本のように生で食べることはめったにないし、ましてや稲作の文化なんて見たこともなかった。
それでも、ふとした拍子に無性に恋しくなることが、たびたびあったのだ。
「すごくいい匂いです。美味しそう……」
私が思わずうっとりと見とれていると、正面に腰かけていたヴィンセント殿下が、不思議そうに声を上げた。
「そんなに感激してもらえるとは予想外だな……。これはこの地方だけの郷土料理なんだけど、以前から知っていたのかい?」
「ええっと、実は私、珍しい料理に目がなくて。パエリアのことはずっと昔に噂で聞いたことがあったんです。お米を使った料理なんて聞いたことがなかったので、とても興味を惹かれていて。でも、どこへ行けば食べられるのかわからなくて、ずっと探していたんです」
転生する前はお米文化の国で生きていたので、お米が大好物なんです――とは言えないので、私は適当にはぐらかした。
そう言いながら、私は冷めないうちに、黄色く光る米粒をスプーンですくい上げて、一口頬張る。
すると、魚介のだしの旨味とともに、ほろりとほどける米粒の食感が口いっぱいに広がった。
「何より、このお米です! 私、これをずっと探し求めていたんですけど、どこにも見つからなくて」
「確かに、パエリアに使われている米は、このあたりの特産品だね。わが国ではパンなどの小麦が主流だけれど、この地域では例外的に水田での稲作が盛んで、米が育つんだ」
「そうだったんですね」
思いがけず、この北の地で米と巡り会うことができて、私はひとり感激していた。
ーーと、ここであることを思いついて、私はおもむろに提案する。
「旦那様、もしよろしければ、このお米をお城の食材として少し買って帰りませんか。料理長に持っていけば、きっと美味しく調理してもらえると思うんです」
私は、この米をなんとしても手に入れたかった。パエリアを食べるたびに、わざわざ隣町まで出かけるのは大変だし、次にいつ来られるかもわからない。けれど、お城に置いておいてもらえれば、いつでも食べられる。
(何より、炊く前のお米さえ手に入れば、毎回パエリアにしなくても、自分で白米が炊けるのでは……?)
と、ひそかに狙っていたのだ。
私がそれとなく提案すると、ヴィンセント殿下も笑みを返してくれた。
「そうだね。君が気に入ったのなら、少し持って帰ろうか。私も久しぶりに食べて美味しかったし」
「本当ですか! ありがとうございます」
私はホクホク顔で食事を進めた。




