第96話 白狐神と群れの健康診断
翌朝。
「……父さん……湖畔は今日も、静かなわけで……」
目が完全に覚める前、どこかで聞いた事がある口調の妙な声がしてきた。
「……それで馬小屋を建てるわけで……ニナは火花を飛ばすわけで……ヒカルはまた、仕事を増やしているわけで……」
「誰が増やしてるんだよ」
ツッコミを入れつつ思わず目を開けた。いつもの天井。右腕にはユキが抱きついている。大きな白い尻尾は俺の腹から左脚へ斜めに載っていた。
そして籐カゴの中。こびゃっこが丸くなったまま、妙な声で寝言を続けている。
「……でも父さん……この湖畔には、電気も水道もあるわけで……」
「お前、どこの北海道から来たんだよ」
「……るーるるるるる……」
「狐を呼ぶ側じゃなくて、お前が狐だろ!」
「むにゃ……キタキツネではない……白狐神使じゃ……」
「何処の国からだよ!」
俺の声で、ユキがもぞもぞ動いた。
「む……」
「起こしたか。悪い」
「おっちゃん……うるさい」
「俺だけのせいじゃない」
「こびゃっこ?」
「ああ」
ユキが俺の腕へ抱きついたまま、籐カゴを見る。
「こびゃっこ、なにしてる?」
「昔のテレビドラマの真似だと思う」
「てれびどらま?」
「日本の映像というか…」
こびゃっこの耳がぴくりと動く。
「……びゃっこがまだ稲荷寿司食ってる途中でしょうが!!」
「いや、お前が食ってるんかい!」
「むにゃ……びゃっこは都会へ行っても、変わらぬぞ……」
「お前は原宿でモデルやってただろ」
白い耳が止まった。
「……取材拒否じゃ」
「起きてるだろ!」
◇
その声で、こびゃっこがようやく身体を起こした。
「朝から騒がしいのう」
「原因はお前だ」
「びゃっこは静かに寝ておった」
「『⚪︎の国から』ごっこしてたぞ」
「む?」
「『父さん、湖畔は今日も』とか言ってた」
こびゃっこが細い目をさらに細くし顔を背けた。
「……知らぬのう」
「絶対知ってる顔だろ」
「夢は夢じゃ」
「都合のいい時だけ夢扱いするな」
ユキが布団の中から顔を出す。
「おっちゃん」
「何だ?」
「きょう、けんこうしんだん?」
「ああ」
「ユキ、げんき」
「元気な時の数字を残しておくんだよ」
「ニナも?」
「受ける」
「こびゃっこも?」
「受けるぞ!」
こびゃっこが籐カゴの中で胸を張った。
「千年級守護神使の健康記録。歴史的資料じゃ」
「体重計がエラーを出さなければな」
「失敬な!」
◇
六の月4日。異世界生活75日目。
今日は朝から、いつもの湖畔とは少し動きが違う。
成人組の多くは朝食抜き。昨日のうちに全員へ伝えてある。水は飲んでいい。ただし、甘い飲み物、酒、食事は健康診断が終わるまでなし。
子供たちは通常通り朝食だ。食堂へ行くと、リリアとマルタが朝食を準備していた。白飯。味噌汁。焼き虹マス。卵焼き。漬物。
いい匂いがする。そして、その匂いの前でドランが絶望していた。
「これは拷問じゃ……」
「何がだ」
「目の前で飯を食う者がおる」
テーブルではユキ、ミーシャ、トト、ニナが普通に朝食を食べている。
「子供は食べていいって昨日言っただろ」
「分かっておる! 分かっておるが腹は別じゃ!」
こびゃっこも小さな茶碗を抱えている。
「うむ。朝の白飯は格別じゃ」
「こびゃっこ殿……」
ドランの目が恨めしそうだ。
「何じゃ?」
「少し静かに食ってくれぬか」
「なぜじゃ?」
「うまそうに食うからじゃ!」
マリベルが冷静に言った。
「ドラン。終わったら食べられるわよ」
「一番にしてくれ」
「検査順はこちらで決めます」
「昨日と同じ返事じゃ!」
「昨日決めたから」
「段取りだな」
ガランが横から言う。
「お前まで!」
ユキが味噌汁を飲みながら頷いた。
「ドラン、だんどり」
「白狐神まで!」
「ユキはユキ」
「はい……」
完全に負けている。
◇
今日の午前中は三つを並行して進める。
一つ目、健康診断。
二つ目、短時間の鍛冶練習。
三つ目、仮設厩舎予定地の測量。
ただし、同時に俺が三か所へいるわけじゃない。
健康診断は俺とマリベル。
厩舎予定地の下見はカイルとレイルを中心に、グレゴールとバドル。警備には《蒼岩の盾》のうち健診が終わった者を順番に回す。
鍛冶練習は俺が診療所を一度止めている時間にやる。人が増えたからといって、俺自身が分裂するわけじゃない。
「おっちゃん」
「何だ?」
「ひとりで、みっつ、しない?」
「しません」
「なら、よし」
「俺の行動監査が厳しくなってきたな」
◇
午前7時半。診療所へ入る。昨日準備した機材は、もうそれぞれの位置に置いてある。
入口側に受付と記録机。身長計、体組成対応体重計。その先に血圧計、体温計、パルスオキシメーター。
視力、聴力。奥側に採血台と小型血液検査装置。心電計。診察用ベッドに医療廃棄物容器。アルノには記録補助を頼んだ。
「順番と結果票の管理をお願いします」
「分かりました」
「名前、種族、年齢、職業、検診結果。次回の検診で前回記録と比較できる様にする」
「皆んな今回が初回ですね」
「ああ。基準値は医療身体鑑定側で種族差を見る」
マリベルも手を洗い、手袋を用意する。
「最初は誰にします?」
診療所の外を見ると、ドランが扉の前に立っていた。俺は思わずためいきをつく。
「……あいつしかいないだろ」
「聞こえたぞ!よっしゃ、ワシだな」
◇
「身長、体重」
「昨日までと変わらんじゃろ」
「測る」
「分かった」
ドランが体重計へ乗る。表示された数字を俺とアルノが記録する。
次に血圧。
「腕を力ませるな」
「力ませておらん」
「ドワーフは普通に座ってても腕が太いんだよ」
「鍛冶師の腕じゃ」
「だから専用の大きめカフにしてる」
測定すると、俺の医療身体鑑定にも表示が出る。
【ドワーフ男性】
【年齢相当:壮年】
【血圧:種族基準範囲内】
【心拍:正常】
【筋肉量:高値・種族特性範囲】
【脱水:なし】
【肝機能:軽度注意傾向】
「……」
「なぜ黙る」
「ドラン」
「何じゃ」
「酒」
「まだ血も取っておらんぞ!」
「鑑定で先に出た」
「卑怯じゃ!」
「結果に卑怯も何もあるか」
マリベルが横から身体鑑定を重ねる。
「魔力循環正常。疲労も問題なし。筋肉と関節も異常なし」
「ほれ見ろ!」
「ただし飲酒習慣は別」
「マリベル!」
「私もヒカルさんと同意見」
「二対一!」
診療所の入口から小さな声がする。
「ユキも」
「三対一になったぞ」
「なぜおる!」
ユキが扉の横から顔を出していた。
「みてる」
「神の監査まで入るのか!」
◇
採血は少量。
「針刺すぞ」
「子供扱いするでない」
「じゃあ動くな」
「動かん」
刺す。
「……」
「平気だな」
「当たり前じゃ」
血液検査装置へセットする。血糖。ヘモグロビン。脂質。肝機能。腎機能。数分後、結果が出る。重大な異常なし。ただし、飲酒を続ければ将来的に注意が必要な数値が一部ある。
ドランに結果を説明する。
「異常なしではないか!」
「『今すぐ病気ではない』と『好きなだけ飲んでいい』は別だ」
マリベルが結果票へ印をつける。
「今まで通りね」
「健康診断を受けた結果、酒量が増えぬとは!」
「普通は増やすために受けない」
「ぐぬ……」
「終了。朝飯食っていいぞ」
その瞬間。
「よっしゃ!」
「走るな!」
ドランが診療所を出ると、外からユキの声がした。
「ドラン、あるく!」
「分かった!」
五歳児に注意されるベテランハンター。絵面がおかしい。
◇
次はガラン。身長、体重、血圧、心拍、SpO2。どれも問題なし。胸部鑑定を行う。
【胸部鑑定】
【肺野:明らかな異常なし】
【心陰影:基準範囲】
【胸水:なし】
【気胸:なし】
「今、身体の中が見えてるのか?」
「ああ。俺にはレントゲン写真みたいな形で出てる」
「れんとげん?」
「身体の中を見る地球の医療技術だ。ただし、これは実際に放射線を当ててるわけじゃない」
「意味は分からんが、便利だな」
「便利すぎて怖いくらいだ」
採血も問題なし。マリベルが肩周りを確認する。
「昔の剣傷の周囲、動きは問題ない?」
「ああ」
「魔力循環も正常」
「なら仕事へ戻れるな」
「今日は自転車講習と警備巡回でしょう?」
「ああ」
「無理して転ばないでね」
「俺が教える側だ」
「教える側が転ばないとは限らないわ」
「……まあ正しいが」
◇
その後はグレゴール、エリオット、カイル、レイル、バドル。
種族差が面白い。人族のグレゴールは典型的な職人型。腰と肩に軽い慢性的負担。
「痛みは?」
「仕事の後に少しな」
「今のところ関節そのものに重大な異常はない。でも、腰を痛めてからじゃ遅い。重い物を一人で持ち上げない」
「大工にそれを言うか」
「大工だから言う」
「分かった」
エリオットは比較的問題なし。カイルとレイルは狐族らしく体格が軽い割に脚の筋力が高かった。
「歩き仕事が多いからな」
「測量と水路は歩く」
「なるほどな」
バドルが体重計に乗る。俺は表示を見る。
「……重いな」
「石工だからな」
「職業は体重に関係ないだろ」
「石に近づく」
「近づかなくていい」
医療身体鑑定では、ドワーフとして正常範囲。骨密度相当の表示もかなり高い。
「丈夫だな」
「石よりもか?」
「お前の身体を石基準で評価するな」
◇
検査を終えた者から朝食へ向かい、その後は予定地の測量へ回る。
午前9時前。カイルとレイルが簡易測量機器を持って、ガレージ予定地よりさらに北へ向かった。グレゴール、バドルも同行。測量機器の使い方は、あらかじめ教えている。
ニナも行きたそうだったが。
「ニナは朝飯食べたな?」
「うん」
「まず健康診断。それから鍛冶場」
「測量は?」
「今日は大人に任せる」
「……分かった」
「全部に参加しなくていいんだぞ」
「分かってる」
「本当か?」
「ちょっとだけ、行きたい」
「正直でよろしい」
◇
子供組の健康診断は、成人ほど項目を増やさない。身長。体重。体温。心拍。視力。聴診。必要に応じて身体鑑定。採血は、症状もないのに全員へやるつもりはない。
まずユキ。
「ここ、立って」
「うん」
身長計。白狐耳を避けて測る。
「耳は含めないぞ」
「なんで?」
「身長は頭のてっぺんまでだから」
「みみも、ユキ」
「哲学の話じゃなく測定方法の話だ」
ユキは不満そうに耳を伏せた。
「みみ、なし?」
「耳は健康診断で別に見る」
「なら、よし」
測る。体重。
「尻尾は……」
「しっぽも、ユキ」
「分かってるよ」
普通に全部込みで測る。医療身体鑑定を使う。
【白狐神】
【神格:幼神三段】
【身体年齢相当:5歳前後】
【栄養状態:良好】
【体温:正常】
【心肺機能:良好】
【神力循環:良好】
【備考:比較基準対象なし】
「出た」
「なに?」
「元気な健康体だ」
「ユキ、げんき!」
「ただし、ちゃんと寝る」
「ユキ、ねてる」
「俺は寝不足だけどな」
「おっちゃんも、けんこうしんだん」
「……後で受けます」
◇
ニナ。身長、体重とも順調。右肩も確認。
「痛くない?」
「ない」
マリベルの身体鑑定。
「筋肉の張りも残っていません。関節、骨、腱も問題なし」
「じゃあ鍛冶場」
「その前に視力」
「……分かった」
検査を終えると、ニナは黄色いヘルメットを抱えて待機した。
次はミーシャ。
「目、右」
「見える」
「これは?」
「上」
「こっちは?」
「左!」
「大丈夫だな」
トトは視力表を見るより、視力表そのものを描こうとしていた。
「トト」
「なに?」
「今日は絵の資料じゃない」
「丸が、いっぱい」
「後で描いていいから、今は見える方向を答えてくれ」
「うん」
◇
そして、白い毛玉の問題児。
「びゃっこの番じゃ!」
こびゃっこが体重計へ乗る。表示が変化する……数字は出た。
「おお」
「どうじゃ」
「ちゃんと測れた」
「当然じゃ!」
「体格の割に重いな」
「神格の重みじゃ」
「神格を物理的重量として出すな」
体組成測定の結果が表示される。
【測定不能】
「ほらな」
「機械の修行が足りぬ」
「機械に神使対応を求めるな」
血圧計。
「腕が細すぎる」
「前足じゃ!」
「どっちでも無理」
パルスオキシメーターを前足へ挟む。表示が点滅するとエラー表示。
「……」
「……」
「びゃっこは健康じゃ」
「測定不能」
俺のスキルで総合鑑定を使う。
【守護神使】
【個体名:こびゃっこ】
【年齢:1,000年以上】
【身体状態:良好】
【神力循環:良好】
【疲労:なし】
【栄養状態:過剰傾向なし】
【備考:比較基準対象なし】
「神力循環も良好だって」
「ほれ見よ!」
「ただし比較基準なし」
「びゃっこを基準にせよ」
「地球上にもこの世界にも、お前が一人しかいないだろ」
「唯一無二ということじゃな」
「ポジティブだな」
◇
午前9時半。一旦健康診断を止める。
「ここから一旦、鍛冶場へ行く」
マリベルへ確認する。
「30分程度で戻る」
「分かりました。こちらは記録整理をしておきます」
「アルノ、結果票をまとめといてくれ」
「任せてください」
鍛冶場へ向かう。今日からボルガが正式参加。ドランはすでに防炎装備。ニナも準備済み。ボルガは昨日支給した綿主体の作業着に、その上から防炎エプロンと腕カバー。
「まず無通電」
「本当にやるんだね」
「昨日言っただろ」
「分かってる。言ってみただけさ」
ドランが得意そうに言う。
「初心者は素直にやるのじゃ」
「数日前に棒をくっつけた人が言う?」
「ぐぬ」
「はいはい、そこまで」
俺は二人の間へ入る。
「競争なし。今日はボルガが姿勢と道具の扱いを覚える日」
「はいよ」
「ドランは昨日と同じ短い練習」
「うむ」
「ニナは一番最後。体調は問題ないが一回だけ」
「分かった」
◇
ボルガはさすが鍛冶師だった。電源を入れない状態で棒を動かすだけでも、手首と肘の使い方が安定している。
「棒の先を見すぎない」
「溶け具合を見る?」
「アークが出ればな。最初は距離を一定に」
「これくらい?」
「いい」
次に実際のアーク。
「短くいくぞ」
「分かった」
バチッ!
「おっ!」
一瞬、光が走り、すぐ切れた。
「消えた!」
「距離が開いたな」
「もう一回!」
「焦るな」
「……段取り」
「便利だろ?」
「腹立つくらい便利だね」
二回目。バチッ。今度は少し続き、数秒で終了。面を上げたボルガの目が輝いている。
「面白いね!」
「顔がドランと同じだぞ」
「失礼だね!」
「なぜワシ基準なのじゃ!」
◇
ドランは昨日よりさらに安定。短いビードを一本。無理をしない程度に。
「いいな」
「当然じゃ」
「調子に乗るな」
「褒めた直後に落とすでない」
最後にニナ。まず、無通電で行う。
「一回だけ」
「うん」
バチッ。ほんの数秒ですぐ止め、ホルダーを戻す。
「終了」
「まだできる」
「知ってる」
「今日は終わり?」
「ああ」
「分かった」
以前なら、ほんの少し間があった。今日はすぐに受け入れた。ボルガが横から言う。
「やっぱりいいね」
「何が?」
「まだ出来る時に止めるってやつ」
「長く続けるためにな」
ニナが頷く。
「明日も、できる」
「そういうこと」
◇
鍛冶場を出たところで、カイルたちが戻ってきた。
「ヒカル」
「どうだった?」
カイルが簡単な測量メモを開く。
「第一候補地で問題なさそうだ」
「増水は?」
「湖岸より十分高い。水が来た形跡もない」
レイルが続ける。
「ただし南西側へ少し低い。床をそのまま作るなら整地が必要だ」
「排水には使える?」
「使える。でも自然勾配そのままじゃ強すぎる部分がある。床面は別に作った方がいい」
「了解」
バドルが短く言う。
「地盤は悪くない」
「掘った?」
「少し」
「勝手に深く掘ってないだろうな」
「見ただけだ」
「ならいいが」
グレゴールが笑う。
「ヒカル、俺たちまで信用されてないぞ」
「初日から機械を分解しようとする人が二人いる集団だからな」
ボルガとドランが同時に目を逸らした。
「連帯責任はひどいね」
「わしは何もしておらん」
◇
診療所へ戻り、残りの成人組の検診をする。《蒼岩の盾》4人。マルタ。それからリリア、アルノ、ロク、リーファ、マリベル。そして最後に俺。
オルフェンは概ね健康。重盾を長年扱っているため、左右の肩周囲に筋肉量の差がある。
「これは異常じゃないですか?」
「今のところは職業による適応範囲。ただし片側へ負担が偏りすぎるのは注意だな」
「分かりました」
セルドも大きな問題なし。ナージャは軽い脚の疲労。
「昨日自転車やったから?」
「それだけじゃないでしょうね。旅の疲れも少し残っています」
マリベルが言う。
「自転車もあまり無理しないでね」
「はい!」
フィンは魔力循環が特徴的だった。俺の鑑定では身体的には問題なし。
マリベルの方では、
「魔力の流れがかなり細かいですね」
「魔術師ですから」
「特に術式制御を細かく使う人に多いです」
「なるほど」
地球医学だけでは存在しない項目だ。こういう時、二人で見る意味がある。
◇
マルタは採血の針より、血液検査装置へ興味を持った。
「こんな少しの血で分かるのかい?」
「全部じゃないけどな」
「料理人の身体も?」
「人間なら仕事に関係なく」
「じゃあ、食生活も出る?」
「一部は」
「嫌な道具だねえ」
「急に評価が下がったな」
「料理人は味見するんだよ!」
「そこは適量で頼む」
結果は良好。
「よし」
「でも厨房で立ち仕事が多いから、脚の疲れはあるな」
「それは昔からだよ」
「厨房側に折りたたみ椅子を用意するよ」
「仕事中に座れって?」
「休憩の時な」
「なら頼むよ」
◇
俺自身の番。
「ヒカルさん」
マリベルが言う。
「ちゃんと測ってくださいね」
「分かってる」
「自分だけ簡略化しそうなので」
「信用ないな」
「実績です」
「最近そればっかりだ」
身長。体重。血圧。体温。心拍。SpO2。採血。心電図。俺自身へ医療身体鑑定。
【人族男性】
【年齢:40歳】
【肉体年齢:約30歳】
【身体状態:概ね良好】
【疲労:軽度蓄積】
【睡眠不足:あり】
【筋肉・関節:軽度疲労】
【重大異常:認めず】
「……」
「何かありました?」
「睡眠不足」
マリベルが俺を見る。入口ではユキが俺を見ている。机の上の小さな座布団の上では、こびゃっこが知らん顔。
「おっちゃん」
ユキが言う。
「何?」
「ユキのせい?」
「まあ、少し」
「しっぽ?」
「少し」
ユキが自分の大きな白い尻尾を見る。
「おっちゃん、いや?」
「嫌じゃない」
「じゃあ、よし」
「医学的には解決してない」
こびゃっこが腕を組み頷く。
「愛情とは時に睡眠時間を削るものじゃ」
「お前は寝言でドラマを始めるな」
「……さて、何の話じゃ?」
「また忘れたふりしてるだろ!」
◇
午前11時半。全員分の第一回健康診断が、ようやく終わった。緊急に治療が必要な者はいない。職人たちには職業上の軽い腰、肩、膝の負担。ハンター組には古傷や身体左右の肉体疲労差。それぞれあるが、今すぐ作業を止めるほどの異常はない。
大事なのは、今日の数字が残ったことだ。
「半年後に比べられる」
アルノが個人記録票をファイルへ綴じる。
「体重、血圧、血液検査、心電図。変化が見えますね」
「ああ。病気を見つけるだけじゃなく、変化を見るための記録だ」
グレゴールが腕を組む。
「工事の記録と同じだな」
「え?」
「最初の地盤を知らなきゃ、沈んだかどうかも分からない」
「……確かに」
その例えは分かりやすい。バドルが頷いた。
「身体も基礎がいる」
「石工まで乗ってきた」
「基礎は重要だ」
「否定はしない」
◇
診療所を出ると、湖から風が吹いてきた。北側の草地には、カイルとレイルが立てた仮の測量杭が見える。
あそこへ午後から、23頭以上を想定した厩舎を作り始める。その前に昼飯。予定を詰めた割には、ちゃんと午前中で収まった。
「おっちゃん」
「ん?」
ユキが俺の手を握る。
「けんこう?」
「ああ。今のところな」
「ねぶそく?」
「そうだな」
「ちゃんと、ねる?」
「努力します」
「きょう、はやく、ねる?」
「夜はちゃんと寝るよ」
ユキが満足そうに頷いた。
「なら、よし」
「五歳児に健康指導されるとは」
肩の上へ、こびゃっこがふわりと降りた。
「父さん……ヒカルは今日も、ユキに健康管理されるわけで――」
「やっぱり覚えてたか!」
「昭和・平成の名作じゃ。見ていたに決まっておろう!」
ユキが笑った。昼からは馬の家を作る。その前に、まず飯だ。健康診断を終えた成人組は、すでに食堂へ向かって食事をしている。
少なくとも今日の午前中は、全員健康らしい。
◇
【第96話・収支報告】
異世界生活75日目
日付:六の月4日
オリエント王国歴952年
開始残高:3,134,399pt
今回の購入:
・なし
今回支出合計:0pt
現在残高:
3,134,399pt − 0pt = 3,134,399pt
円換算目安:
3,134,399pt × 100円 = 約313,439,900円相当
続く




