第93話 白狐神と夢の中のモデル
……これはたぶん夢だ。だが、妙に色も音もはっきりしている。俺は駅前に立っていた。
「……原宿?」
目の前にあるのは、木造風の三角屋根と白い外壁を持つ、昔の原宿駅舎だった。ここは、令和の東京ではない。
駅前から見える道路には車がほとんど走っておらず、代わりに若者が溢れている。派手な服。大きなラジカセ。ローラースケート。ダンスパフォーマンスに、バンドの演奏。道沿いには露店。歩行者天国だった頃の原宿だ。
「いつの時代だよ、昭和か?」
「おっちゃん」
「ん?」
横を見ると、ユキが俺の手を握ってこちらを見上げていた。白いワンピース姿に白い靴下。小さな皮ブーツを履いている。森で出会った初日に、俺がスキルショップから買ってやった服だった。
「お前、その服……」
「ユキの、さいしょの」
「ああ」
俺自身も、あの日と同じ格好だった。茶色のスエードのフード付きハーフコート。黒のニット。黒のデニムパンツ。茶色のワークブーツ。
「異世界生活初日の服装で、昭和の原宿かよ」
「しょうわ?」
「こびゃっこがいた時代だ」
問題はユキだった。白いボブヘアーに白狐耳。そして大きな白い尻尾。どう考えても目立つ。
「これ、まずくないか?」
しかし、すれ違う女子高生らしき二人組は、俺たちを見るなり声を上げた。
「キャー!かわいい!」
「見て、あの子!」
「狐耳、本物みたい!」
「イナリ・ミコみたい!」
俺は足を止めた。
「……今、何て?」
「いなり、みこ?」
ユキが繰り返す。
「ユキ。知ってるか?」
「知らない」
「じゃあ誰だ?」
別の通行人もユキを見て笑顔になる。
「ちっちゃいイナリ・ミコだ」
「かわいい!妹役?」
「撮影かな?」
誰も狐耳と尻尾を本物だとは思っていない。昭和の原宿、おおらかすぎないか。
「おっちゃん」
「何だ?」
「ユキ、かわいいって」
「ああ」
「ユキ、かわいい?」
「まあ、かわいいな」
「む。まあ?」
「そこ拾うのか」
ユキが不満そうに俺の手を引っ張った。
「かわいい?」
「はいはい。かわいい」
「む。『はい』は、いっかい!」
「……はい」
◇
俺たちは竹下通りへ入った。人が多いので、ユキを抱っこする。俺の知ってる頃とは看板も店も違う。それでも通りには、若者向けの服や雑貨、クレープの店が並び、人でごった返している。
「ひと、いっぱい」
「原宿だからな」
「おっちゃんの、むかしのおうち?」
「日本ではあるが、俺が暮らしてた場所じゃない」
「じゃあ、こびゃっこの?」
「……それはあり得る」
その時だった。通りの先に、人だかりができていた。特に若い女の子たちが何重にも集まり、カメラを構えている。
「イナリ・ミコだ!」
「キャーこっち向いて!」
「ミコちゃーん!」
嫌な予感がした。
「まさか…」
ユキが鼻をひくひくさせる。
「おっちゃん。こびゃっこのにおい」
人垣の隙間から、白いものが見える。白いツインテールの髪型に白い狐耳。大きな白い尻尾。白と黒を基調にした、後の時代なら、ゴシックロリータと呼ばれそうな服。フリルの付いたブラウス。膝丈のスカートに白いタイツ。小さな革靴を履いている。
年齢は十代半ばくらいに見える。少し釣り上がった目に、とんでもなく整った顔。片手には生クリームと苺が山盛りになったクレープ。
少女はカメラへ向かって、軽く顎を上げ、ポーズを取っている。
「押すでないぞ。順番に撮るのじゃ」
俺は少女の声と話し方で確信した。
「やっぱりお前かい!」
少女がこちらを見る。
「む?」
ユキが声を掛ける。
「こびゃっこ!」
「ユキ?」
俺はユキを降ろすと、彼女はそのまま駆け出した。
「ユキ、走るな!」
ユキは白いゴシックロリータ少女へ抱きつく。
「こびゃっこ!」
「おおっ、ユキではないか!」
「ほんもの?」
「びゃっこはいつでも本物じゃ!」
周囲が一斉に沸いた。
「なにあの子!」
「かわいい!」
「ミコちゃんの妹?」
「ダブル狐!」
シャッター音が鳴る。当時のフィルムカメラだ。コンパクトカメラを持った少女たちや、一眼レフを持ったカメラマンらしき人も何人かいる。
パシャ。パシャパシャ。
俺はこびゃっこの前へ立った。
「おい」
「おお、ヒカルも来とったか」
「イナリ・ミコって何だ」
こびゃっこの動きが止まり、顔を背けた。
「……」
「お前だよな?」
「……さて?」
「今、周り全員がお前をそう呼んでるぞ」
「……当時の芸名じゃ」
「初耳だぞ!」
こびゃっこはクレープを一口食べた。
「原宿でモデルをしておった頃、白狐姿では芸名が必要での」
「それでイナリ・ミコ?」
「稲荷の巫女じゃ。分かりやすかろう」
「直球すぎるだろ!」
「雑誌編集者が気に入ったのじゃ」
「しかし、モデル時代って、こんな売れっ子だったのか?」
「当時はちょっとしたもんじゃったぞ。ケモミミファッションの元祖とも言われたのじゃ」
「自分で言うな」
また周囲から声が飛ぶ。
「ミコちゃん、こっち!」
「クレープ持って!」
「その子も一緒に!」
こびゃっこがユキを抱き寄せる。
「では、特別撮影会じゃ」
「今からか!」
ユキは楽しそうに笑っている。
「おっちゃんも」
「いや、俺はいい」
「む。いっしょ」
「四十男が混ざる絵じゃない!」
「おっちゃんも、かわいい?」
「それは無理があるだろ」
こびゃっこが鼻で笑った。
「ヒカルは背景役じゃな」
「モデル時代のお前、なんか容赦ないな」
パシャッ。ストロボの強い光が、俺の視界を遮った。
◇
「……眩しっ」
思わず目を開けると、知ってる天井。右腕にはユキがいて、腹から左脚にかけて、大きな白い尻尾が横たわっている。いつもの寝床だった。
「やっぱ夢だよな……」
「むにゃ……ミコちゃん……」
ユキが寝言を言った。
「お前…同じ夢見てるのか?」
返事はない。籐カゴを見ると、こびゃっこは丸くなって寝ていた。
「……お前、イナリ・ミコか?」
白い耳がぴくっと動いた。
「……取材拒否じゃ」
「やはりお前か!」
◇
職人と護衛チーム《蒼岩の盾》を迎えた翌朝。
職人宿では、湖畔へ来て最初の夜を過ごした十二人が、それぞれ妙な顔で起きていた。
一階の男性部屋。グレゴールはベッドへ腰掛け、無言でマットレスを押している。
「……」
カイルが隣から言った。
「寝心地どうだった?」
「…腰が痛くない」
「俺もだ」
レイルが天井を見る。
「夜中、少し冷えると思ったが、全然そんな事無かったな」
「ああ。壁が薄いのにな」
オルフェンは窓を開け、外を見る。
「警戒し易い位置にあって、窓は施錠。外周灯もあって、侵入者に対処できる」
「お前だけ宿泊施設を、砦として評価してるな」
セルドが言った。
「職業病だ」
二階では、別の問題が起きていた。
「ミネット」
ボルガが声を掛ける。
「何にゃ?」
「その階段、何往復した?」
「三回だけにゃ」
「何を確認してる」
「勝手に灯りが点く仕組みにゃ」
外階段へ足を出す。ぱっ。
「ほら!」
「飽きないねえ。昨日からやってただろ!」
「夜と朝では条件が違うにゃ」
「見るところが、職人らしいと言えば職人らしいが……」
ナージャはもっと素直だった。
「私はトイレが忘れられない」
「何でにゃ?」
「座って、終わったら水が全部持っていくのよ」
「それは私も驚いたにゃ」
「しかも臭いが残らない」
「風呂もすごかった。特に洗髪剤」
マルタが髪をまとめながら言う。
「一晩経っても、髪がフワフワだよ」
女性陣が皆頷く。
「毎日これなの?」
「ヒカルは、そのつもりらしいよ」
皆の間に、短い沈黙が落ちた。
「……湖畔から帰れなくなる人間が出るな」
グレゴールが真顔で言った。
◇
朝食で、さらに追い打ちがかかった。
「……米」
マルタが食堂へ入るなり呟いた。茶碗には白飯。味噌汁。湖で釣った焼き魚。卵焼き。漬物。昨日あれだけ大騒ぎした伝説の穀物が、朝から普通に並んでいる。
「本当に毎日出るのかい……」
「毎日とは限らないぞ」
俺は答えた。
「パンの日も麺の日もあるが」
「そういう意味じゃないよ!」
ミーシャとトトは普通に箸を使っている。ニナも無言で焼き魚をほぐしている。セルドが自分の箸を見る。
「これ、棒が二本ですよね?」
「ああ」
「どうやって魚を掴むんです?」
「練習だな」
隣でナージャが卵焼きを摘まもうとして落とした。
「むずかしい!」
「フォークもあるから無理するな」
「でも子供たちが使ってる!」
「競争じゃない」
ミネットは箸を一本ずつ両手に持った。
「こうかにゃ?」
「それはトングより使いにくいだろ」
◇
事件が起きたのは、その直後だった。こびゃっこが小さな茶碗の前へ立つ。白飯の中央を箸で窪ませ、別の器でかき混ぜた生卵をかけ、醤油を少しかける。
「箸はこうやって使うのじゃ」
こびゃっこがぐるぐる混ぜると、マルタが目を見開いた。
「待ちな!」
「何じゃ?」
「その卵、まだ焼いてないじゃないか!」
「生じゃよ」
「知ってるよ!」
「では問題ないではないか」
「問題しかないよ!」
マルタが俺を見る。
「ヒカル!」
「ああ、そう言う事な。大丈夫だ。生食用として管理された卵だ」
「生で食べるための卵?」
「ああ」
「そんな区別があるのかい?」
「衛生管理と流通の基準が違う」
こびゃっこは構わず一口。
「うむ。美味いぞ。びゃっこは別の器でよく溶いてかけるのが好きじゃ」
「神使様!本当かい?」
リリアも自分の茶碗へ卵を割った。
「私も好きですよ」
リーファも続く。
「私も慣れたわ。これって、醤油ありきなのよね」
アルノも頷き、静かに卵を落とす。
「最初は驚きましたが、今では普通に美味しいですね」
ニナも。
「たまごかけごはん、おいしい」
「お前もそっち側だったな」
ユキが俺を見る。
「ユキも、きょうはたまごかけ」
「ああ。ただしちゃんと卵は溶いて、白身が喉につかえないようにな」
「うん」
マルタは完全に固まっている。
マリベルが笑った。
「私も最初はびっくりして、止めようとしたんですよ」
「でしょう!?」
「でもヒカルさんが説明してくれて。それでも私は今も焼いた方が好きです」
「正常だよ!」
「びゃっこからすれば人生を損しておる」
「また大袈裟な。」
オルフェンたちは、生卵組と焼き卵組を交互に見ている。
「湖畔には卵の食べ方で、派閥があるんですか?」
「いや、ないから。好きに食べてくれ」
こびゃっこが前足を挙げた。
「次は納豆じゃな」
「うーん、却下」
「なぜじゃ!」
「まだ早い!」
「ヒカルも食いたいのじゃろ?」
「食いたいよ!」
「なら出せ!」
「匂いで新メンバーが帰るかもしれないだろ!」
「そんなに匂うの?どんな料理」
ナージャが聞く。
「説明しにくい。発酵した大豆だ」
「豆を発酵?チーズみたいに」
マルタの目が光った。
「匂いが強い?」
「かなりなそれに粘る」
「粘る?」
「ものすごく」
「見たい」
「また料理人の好奇心に、火を付けてしまったか!」
俺も久しぶりに納豆ご飯を食べたい。だが、昨日来たばかりの人たちへ生卵の次に納豆を出すのは、異文化交流として攻めすぎだ。
「そのうちな。専用の個室でも作るか」
こびゃっこの細い目が光る。
「納豆VIPルームじゃな。約束じゃぞ」
「そこはまた仕事を増やすなと、反対してくれ!」
◇
朝食が終わる頃、俺は全員へ声を掛けた。
「少し皆んなに相談がある」
職人と《蒼岩の盾》も含めた全員が、こちらを見る。
「明日の午前中、診療所で健康診断をしたいと思う」
「健康診断?病気の検査か?」
グレゴールが聞き返す。
「体調が悪くなってから診るんじゃなく、今のうちに身体の状態を確認しておく」
ガランが頷いた。
「身体検査だな。長期滞在開始時の記録にもなるな」
「ああ。今後3か月働いてもらうなら、最初の状態を知っておきたい。皆んなにとっても、自分の体の状態を知る事は有益だと思う」
グレゴールが頷く。
「ヒカルの言う通りだな。どうも俺たち職人達は、自分の体は自分で分かったつもりでいる。いい機会じゃないか皆んな?どうせヒカルの事だ、お座なりな検査じゃなく、ちゃんと専門的に診てくれると思うぞ」
皆も頷く。
「そうだよな。ヒカルの事だから…」
「それは信頼されたと言う事でいいのか?」
俺は苦笑いしながら続ける。
「子供以外の大人は、明日の朝食を食べずに来てくれ。水は飲んでいい。ただし酒は今日の夜から控えめにして欲しい」
「酒も?」
ドランだけが反応した。
「そうだ。もちろんお前もだ」
「ぐぬ」
マリベルが即座に言った。
「今日は一本までね」
「まだ朝じゃぞ!」
「夜の話よ」
「先に決めるのか!」
「ドラン。だんどり」
ユキが言った。
「白狐神まで」!」
◇
この健康診断は、昨日急に思いついたわけではない。職人や近衛騎士団が増える話が出た段階で、マリベルとは相談していた。
俺の【医療スキルLv1】。
取得した時、元々持っていた【総合鑑定士資格】から、医療用の派生スキルが追加されている。
【医療身体鑑定】
人間の身体を医学的に評価するための鑑定能力だ。しかも、人族だけではない。エルフ。ドワーフ。猫族。犬族。狼族。狐族。そして他の獣人族。
主要な種族ごとに、年齢、性別、体格を考慮した基準範囲が数値表示される。例えば人族なら高値でも、筋肉量の多いドワーフでは正常範囲になる数値もある。逆もまたあり得るが。
「ヒカルさんの鑑定は便利ですね」
以前マリベルへ説明した時、かなり興味を示していた。
「便利すぎて、俺も怖いけどな」
特に胸部鑑定。胸へ意識を向けると、俺のスキル画面には――。
【胸部鑑定】
【表示形式:胸部X線正面像相当】
として、レントゲン写真のような画像まで出る。本当にX線を照射しているわけではない。鑑定結果を、俺が理解できる医学画像として表示しているらしい。肺や心陰影。胸水や気胸。肋骨など、大まかな異常は確認できる。
これなら少なくとも現段階で、本物のX線撮影装置を購入する必要はない。
「ただ、鑑定だけに頼るつもりはない」
俺はマリベルへそう説明していた。
「数字として残せるものは、機械で残す」
「それを毎回比較するんですね」
「ああ」
身体鑑定で異常なしと出ても、半年後に血圧や体重が大きく変わっていれば意味がある。逆に機械の数値が妙でも、種族差なのか、本当に異常なのかを俺の医療鑑定で補える。
さらに、マリベルの身体鑑定がある。彼女は疲労、筋肉、骨、関節、脱水、毒、魔力枯渇に強い。
特に魔力循環は、俺の現代医学的鑑定より上だ。
つまり、俺が現代医学側視点で、マリベルが異世界医学、魔力側視点の両方で見る。
「湖畔式健康診断、ってところだな」
◇
朝食後、俺は診療所へ入り、スキルショップを開いた。早速、必要な物を選んでいく。
デジタル身長計。体組成対応体重計。自動血圧計。非接触体温計と予備の電子体温計。パルスオキシメーター。聴診器。十二誘導ではなく、健診用の小型心電計。
視力検査表。簡易聴力検査器。尿検査試験紙と採尿カップ。採血用品。小型の血液検査装置。これは、血糖、ヘモグロビン、脂質、肝機能、腎機能など基本項目を確認できるタイプで、採血量は少量で済む。
それから手袋。アルコール綿。止血パッド。医療廃棄物容器。結果記録用ファイルと……。
「買う物、多いな……」
それでも病院一式を作るわけではない。健康診断と一般診療に必要な範囲だ。購入を確定すると、知識が頭へ流れ込んだ。
機器の使用方法や校正。測定姿勢と採血手順。検査前条件。清掃。消毒。異常値が出た場合の再検査。
「相変わらず便利だな、スキル」
横でマリベルが心電計を覗き込む。
「これは?」
「心臓の電気的な動きを波形で見る」
「心臓にも電気が?」
「俺の世界では、そう説明する」
「見せてもらっても?」
「もちろん。明日は一緒にやろう」
◇
「びゃっこも受けるぞ!」
いつの間にか診療所の窓から、白い頭が出ていた。
「どうした?」
「健康診断と聞いたから、来たのじゃ」
「お前も受けたいのか?」
「守護神使の健康管理は重要じゃ」
「体重計がまともな値を出すかな?」
「失礼な」
そこへユキまで来た。
「ユキも、けんこうしんだん」
「お前も?」
「ユキ、けんこう?」
「まあ健康かどうか見る」
「ユキ、げんきでも?」
「元気な時に測っておくんだよ」
ユキは考える。
「はと、おなじ?」
「この間の歯の話を引っ張ったな」
「げんきだから、まもる」
「……覚えてたか」
「ユキ、ちゃんとみる」
どこかで聞いた言い方だ。
「じゃあ二人とも受けるか」
マリベルが笑う。
「基準値はあるんですか?」
俺はユキを見る。白狐神で幼神三段。次にこびゃっこ。千年以上生きた守護神使。現在は手のひらサイズのぬいぐるみ体型。
「たぶんない」
「どうなるんです?」
「意味不明な数字が出る可能性が高い」
「神を何人も集めて、基準値は作れんじゃろ」
こびゃっこが腕を組む。
「それなんだよ」
「びゃっこを標準値にすればよい」
「千歳超えのぬいぐるみ狐を医学標準にするな」
「ユキは?」
「お前も比較対象がいない」
ユキが俺を見る。
「ユキ、へん?」
「違う。珍しすぎて比べる相手がいない」
「ユキ、ひとり?」
一瞬だけ、声が小さくなる。
「白狐神としてはな」
「でも、おっちゃんいる」
「ああ。いるぞ」
「こびゃっこも」
「おるぞ」
「なら、よし!」
「……そうだな」
医学統計としては何の解決にもなっていない。でもユキにとっては、それで十分らしい。
◇
昼前。俺は食堂へ戻り、新しく来た職人と護衛たちを集めた。
「健康診断については明日の朝。今日はこれから、皆に具体的な仕事の内容を説明する」
グレゴールの表情が変わる。
「ようやく仕事か」
「昨日着いたばかりだろ」
「休んだ」
「一晩で十分と言う顔だな」
「職人はそんなもんだ」
ミネットも耳を立てる。
「屋根あるにゃ?」
「たくさんある」
「よしにゃ」
エリオット。
「内装は?」
「山ほど相談したい」
「よし」
カイルとレイル。
「道路は?」
「第二期分が300メートル残っている」
二人の狐耳が立つ。
「水路は?」
「計画あり」
「よし」
バドル。
「石は?」
「橋台周り、祠の囲い、今後の道路側溝、コンクリート基礎の立ち上がりブロック」
「見る」
最後にボルガ。彼女だけは朝からずっとニナを見ている。
「ヒカル」
「何だ?」
「昨日言ってた溶接」
「ああ」
「いつ見られる?」
ニナも無表情のまま、わずかにこちらを見る。待っていたらしい。俺は立ち上がった。
「仕事の説明をした後だ」
「場所は?」
「倉庫の西側」
「何がある?」
ユキが先に答えた。
「むれの、かじば」
ボルガの目が光った。
「鍛冶場?」
「普通の鍛冶場とは、だいぶ違うけどな」
ドランがにやりと笑う。
「見れば分かるぞ」
「またその顔!」
「今度は本当に見せる」
俺は全員を見回した。
「まず仕事内容と安全規則を説明する。そのあと、施設を一通り回る」
一拍置く。
「最後に――群れの鍛冶場を見てもらう」
ボルガが立ち上がった。
「今行こう!」
「説明が先!」
「見るだけ!」
「昨日から一歩も進歩してない!」
ニナがぽつりと言った。
「ボルガ、気持ち、先に行ってる」
食堂に笑いが起きた。
「お前が言うと説得力ありすぎるな」
ニナは少しだけ三つ編みを揺らした。
「分かるから」
似た者同士だった。どうやら今日も、静かな一日にはならなさそうだ。
そして明日は、湖畔で初めての集団健康診断。人族、エルフ、ドワーフ、獣人。さらに白狐神と、千歳を超えるぬいぐるみ神使。俺の医療スキルが、どこまで正常値として受け止めてくれるのか。
そこだけは――俺にも少し楽しみだった。
◇
【第93話・収支報告】
異世界生活74日目
日付:六の月3日
オリエント王国歴952年
開始残高:3,139,754pt
今回の購入
・デジタル身長計、体組成対応体重計
310pt(約31,000円)
・自動血圧計、電子体温計、非接触体温計、パルスオキシメーター
280pt(約28,000円)
・聴診器、視力検査用品、簡易聴力検査器
190pt(約19,000円)
・健診用小型心電計、専用電極・消耗品
620pt(約62,000円)
・小型血液検査装置、初期試薬セット
1,180pt(約118,000円)
・採血針、採血管、アルコール綿、止血材、医療用手袋、医療廃棄物容器
210pt(約21,000円)
・尿検査試験紙、採尿カップ、検体ラベル類
95pt(約9,500円)
・健康診断記録ファイル、個人記録票、衛生消耗品
65pt(約6,500円)
今回支出合計:2,950pt(約295,000円)
現在残高
3,139,754pt − 2,950pt = 3,136,804pt
円換算目安
3,136,804pt × 100円 = 約313,680,400円相当
続く




