第87話 一方、オリエント王城では
オリエント王都東門が、朝から妙に騒がしかった。
「止まれ! その荷は何だ!」
「王城軍務局への緊急輸送品です! 湖東方面より、厄災級魔物の討伐証明!」
「厄災級?」
門番の顔色が変わる。街道から入ってきた荷車の中央には、大きな木枠が固定されていた。その上に載っているのは、乳白色から青灰色へ変化する巨大な湾曲物。
一見すれば、何かの角にも見える。だが、先端から根元まで、大人の背丈近くある。荷車の左右には騎馬伝令隊6人。長い旅で埃まみれになりながらも、その表情には妙な緊張と誇らしさが混じっていた。
「何の牙だ?」
銀狐族の門衛隊長が尋ねると伝令隊長は背筋を伸ばした。
「レイクサーペントです」
一瞬、東門周辺の音が消えた。
「……もう一度言ってくれ」
「レイクサーペントの牙です」
「湖東の?」
「はい」
「何十年も討伐に失敗している、あの?」
「その個体です」
門衛隊長は巨大な牙を見た。
「まさか……」
「守護者サコン・ヒカル殿と、白狐神ユキ様による討伐です」
門衛隊長の銀狐耳が、ぴんと立った。
「王城へ急報!」
◇
牙は、そのまま王都の市街を引き回すような真似はされなかった。軍務局の指示で東門近くの検査所へ一度移され、魔力反応、腐敗、呪詛、毒性を確認。
その後、王城から派遣された専門官と神殿の鑑定官立ち会いのもと、改めて王城敷地内へ運び込まれた。
王宮中庭。普段なら儀礼用の馬車や王国旗が並ぶ場所へ、巨大な牙が置かれている。
「……これは」
軍務卿が腕を組んだ。
「報告書だけでは、大きさが分からなかったな」
横にいる神殿長は、牙の根元へ触れず、魔力検査用の水晶を近づけた。透明な水晶内部へ、濃い青緑色の光が広がる。
「間違いありません」
「本当にレイクサーペントか」
「水棲蛇竜系。それも極めて高位です。記録されている湖東個体の魔力特性とも一致します」
軍務卿が牙を見上げた。
「これが一本だけ、か」
「はい」
伝令隊長が答える。
「本体には、まだ複数の牙がありました」
「本体を見たのか?」
「目の前で」
「どの程度だった」
伝令隊長は少し考えた。
「王城のこの中庭へ出せば、かなり狭く感じると思います」
「そんなにか」
「全長、およそ30メートル」
軍務卿が黙る。近くにいた若い文官が、持っていた記録板を取り落としかけた。
「30……?」
「頭部だけでも、小屋ほどありました」
「それを、どうやってここまで?」
「本体は運んでいません。ヒカル殿の収納にあります」
「収納?」
「はい」
「30メートルの魔物が?」
「入りました」
軍務卿は額を押さえた。
「報告書に書いてあったことが、実物を見ると余計に分からなくなるな」
神殿長が小さく咳払いする。
「重要なのは、討伐が確認されたことです」
「そうだった」
そこへ、王宮侍従が近づいた。
「陛下がお見えになります」
全員が姿勢を正す。
◇
銀狐王セイラムは、牙を見た瞬間に足を止めた。
「……大きいな」
第一声は、それだった。
宰相が隣で頷く。
「陛下。報告では、これでも牙一本だけとのことです」
「分かっている」
セイラム王はゆっくり近づいた。
「この牙が、何十年も東部を苦しめた個体の証か」
「はっ」
伝令隊長が片膝をつく。
「我々6名、湖東側中継地点にて、守護者サコン・ヒカル殿および王国大使ガラン殿より正式に受領いたしました」
「本体も確認したのだな」
「はい」
「本当に討伐されていたか」
「間違いございません」
伝令隊長の声が少し強くなる。
「私は東湖岸の出身です。幼い頃、父の漁船がこの個体に襲撃されました」
セイラム王の耳がわずかに動く。
「そうだったか」
「父は生還しました。しかし同船の漁師3名が亡くなりました」
「……」
「守護者ヒカル殿は、『ユキ様を守るために倒しただけだ』と仰いました」
「ガランの報告通りの人柄の様だな」
「ですが、東湖岸の者にとっては、それだけではありません」
伝令隊長は顔を上げた。
「もう、この個体に怯えながら湖へ出なくてよい。その証を自分が運べたことを、誇りに思います」
セイラム王はしばらく牙を見ていた。
「その言葉も、正式な報告へ残しておけ」
「はっ」
「討伐功績については、魔石支援とは分けて審議する」
財務卿が頷く。
「すでに過去の討伐依頼、被害補償記録、漁業組合からの請願を調査しております。長期にわたり積み立てられた討伐報奨もございます」
「ガランの報告通りの人柄であれば、爵位を出せば断られるだろうな」
宰相が苦笑した。
「その可能性が極めて高いかと」
「何を欲しがると思う?」
「建材や食料ですかな」
軍務卿が言った。
「……欲がないな」
「生活はあります」
宰相が返す。
「それが守護者ヒカル殿なのでしょう」
セイラム王は笑った。
「ならば、功績へ報いる方法もこちらの都合だけで決めるべきではないな」
「御意」
王は再び牙を見る。
「それにしても……」
「何でしょう」
「これ一本で、この大きさか」
「はい」
「本体を見てみたいものだ」
宰相が即座に答えた。
「陛下が湖畔へ行く理由がまた一つ増えましたな」
「視察だ」
「稲荷寿司」
「視察だ」
「米」
「視察だ」
「白狐神ユキ様へのご挨拶」
「それが第一だ」
「今、三番目でしたぞ」
「順番は重要ではない」
「陛下の耳は正直ですな」
セイラム王は自分の銀狐耳を押さえた。
「この話は終わりだ」
◇
牙の正式確認から数時間後。王城北側の近衛騎士団詰所では、別の意味で騒ぎが起きていた。
「もう一度確認する!」
訓練場中央で、大柄な男が声を張る。
「湖畔派遣隊、総員20名!明朝出発!」
「オウ!」
揃った返事が響いた。先頭に立つ男は、近衛騎士団副団長――レオン・ヴァルガ。
人族。30代半ば長身で肩幅が広く、長い金髪を後ろで束ねている。腰には長剣。王宮儀礼用の華美な装備ではなく、長距離行軍を前提とした実用本位の軽装だ。
「レオン副団長」
副官が書類を差し出す。副官の名は、ベルタ・グレン。29歳のドワーフ女性だ。ドワーフらしく小柄だが、体つきは引き締まっている。濃い赤褐色の髪を後ろで一つに束ね、腰には少し幅広の片手剣を下げていた。
その剣は王国近衛騎士団の制式装備ではない。
ベルタ自身が鍛冶場で鉄を選び、何度も打ち直し、自分の体格と腕に合わせて仕上げた剣だ。柄の太さも、重心も、刃の長さも本人専用。もう十年近く使い続けている。
武器や防具、馬具を含む装備全般への知識が深く、壊れ方を見れば扱い方の癖まである程度分かる。
だが、彼女が優れているのは鍛冶の知識だけではない。
補給品の数量。武具の貸与記録。修理履歴。食料。薬品。馬匹用品。警備日誌。派遣隊員の勤務表。
細かな書類を嫌がる騎士が多い中、ベルタはそれらを几帳面に整理し、必要な時に必要な情報を即座に出せる。
今回の湖畔派遣でも、20人分の装備、荷馬車、消耗品、野営資材の管理を実質的に取り仕切っていた。
そして剣を抜けば、近衛派遣隊でも一番強い。体格差を力で埋めようとはせず、低い重心と短い踏み込み、相手の剣筋を外す技術で懐へ入る。模擬戦ではレオンですら気を抜けば一本取られる。
そんなベルタが、今回最も興味を持っているのは白狐神ユキ様ではなく――異界人サコン・ヒカルだった。
正確には、ヒカルが持ち込んだという技術と道具だ。彼女も職人達が集まる酒場《槌と麦酒亭》の常連で、噂を聞いていたのだ。
均一な木工ネジ。電動工具。鉄筋コンクリート。巨大な鋼材。魔力を使わない時計。マウンテンバイクに自走する工事機械。そして、全長30メートルのレイクサーペントすら収める収納。
報告書を読むたび、余白へ小さな疑問を書き込んでいた。
ネジの規格は何種類あるのか。鋼材は鍛造なのか、別の製法なのか。電動工具の動力源。装備の管理方法。故障時の修理体制。湖畔へ到着したら、見たい物が山ほどある。
もっとも、副官である以上、それを顔には出していない。少なくとも本人は、そのつもりだった。
「最終名簿です」
「変更は?」
「ありません」
レオンが書類を受け取り、ざっと目を通す。
「ガランの奴、本当に大使になったんだな」
「今さらそこですか」
「近衛を辞めてハンターになり、久しぶりに戻ったと思ったら王国大使だぞ」
「同期として、誇らしいのでは?」
「もちろん誇らしい」
レオンは笑った。
「だから湖畔へ着いたら、肩を組んで祝いの酒だ」
「ガラン大使は嫌がると思います」
「昔からそういう奴だ」
「過去の失敗談を大声で話すのは控えてください」
「何を言う。再会の基本だ」
「立場上問題になります」
「友人だから大丈夫だ」
「友人だからこそ駄目です」
ベルタは深くため息をついた。
「それと、守護者ヒカル殿へいきなり手合わせを申し込まないでください」
レオンの動きが止まった。
「なぜ分かった」
「ずっと顔に書いてあります」
「ガランより強い剣士なのだろう?」
「報告では」
「居合。抜刀術。鞘に入った状態から一瞬で斬る」
「はい」
「手合わせしたい」
「まず挨拶してください」
「する」
「その次に施設確認」
「する」
「指揮系統確認」
「する」
「警備引き継ぎ」
「する」
「その後です」
「なら四番目だな」
「せめて数日待ってください」
「数日か」
レオンは真剣に悩んだ。
「二日」
「交渉しないでください」
ベルタが書類を取り戻し、革製の書類鞄へ収める。
「それに、ヒカル殿へ聞きたいことなら私にもあります」
「お前も手合わせか?」
「違います」
即答だった。
「電動工具。均一規格のネジ。鉄筋コンクリート。鋼材。自走式の普請用機械。装備の点検方式。それから、異界の武器管理」
「多いな」
「まだあります」
「楽しみにしてるじゃないか」
「調査です」
「顔が楽しそうだぞ」
「副団長ほどではありません」
「俺は隠してない」
「それは威張るところではありません」
ベルタは腰の剣へ一度手を添えた。
「……ただ」
「何だ?」
「ヒカル殿の剣は、見てみたいですね」
レオンがにやりと笑う。
「ほら、お前も同じじゃないか」
「見るだけです」
「本当に?」
「私は自分から手合わせを申し込みません」
「申し込まれたら?」
ベルタは少し考えた。
「受けます」
「同じじゃないか」
「違います」
「どこが?」
「手順です」
「そこだけか」
副官の返事は真顔だった。
「手順は重要です」
その言い方だけなら、まだ会ったこともない湖畔の守護者と、少し似ていた。
◇
派遣される20名は、ただ戦える者を上から順に選んだ部隊ではない。
長期間、湖畔で独立行動できること。異種族との共同生活に慣れていること。野営、警備、衛生、炊事、救護を自分たちで回せること。そして何より、白狐神ユキを「王国の所有する神」として扱わないこと。そこを重視して編成されていた。
「各班長、前へ」
レオンが呼ぶ。
最初に進み出たのは、長い金髪を後ろへまとめたエルフの女性だった。
「医療班長、エレナ・フィオレ」
「はい」
30代前半。細身で、腰には剣よりも治療道具を入れた革鞄が目立つ。
近衛騎士でありながら、王国軍でも数少ない上位回復術士だ。身体鑑定魔法に加え、筋肉、関節、骨、内臓状態、毒、失血、魔力枯渇などを確認できる。
そしてマリベルの軽度回復魔法より一段上――浅い切創や裂傷、軽度の火傷などであれば、外傷そのものをある程度閉じることもできる。
もちろん、失われた部位を戻したり、大出血や重度内臓損傷を一瞬で治したりできるわけではない。
「湖畔にはガランチームの魔術師で、回復魔法を使うマリベル殿がいる」
レオンが言う。
「聞いています」
「張り合うなよ」
エレナが眉を上げる。
「医療で何を張り合うのです?」
「腕前とか」
「患者が助かるなら、どちらが上でも構いません」
「お前を選んで正解だった」
「むしろ、比較しようとする副団長が間違っています」
「今日は突っ込まれる日だな」
◇
次に進み出たのは、人族の女性。
「防御班長、クラウディア・ベルン」
「はい」
28歳。
濃い茶髪を肩で切り揃え、長剣と小型盾を装備している。彼女の本領は剣ではない。防御魔法だ。
「短時間防壁、展開」
レオンが言う。
「ここで?」
「新人への説明も兼ねる」
「了解」
クラウディアが右手を前へ出す。淡い青白い光が、一瞬で幅3メートルほどの面を作った。半透明の壁。完全な球形結界ではない。正面方向へ集中した防壁だ。
「一定方向からの物理攻撃、矢、投石、魔法攻撃を短時間防ぐことができます」
クラウディアが説明する。
「ただし、背後や側面は守れません。面積を広げれば強度が落ちます。強い攻撃を受け続ければ破られます」
「つまり」
レオンが言う。
「逃げる数秒を作る魔法だ」
「それが一番正しい使い方です」
「湖畔では子供も多いそうだ」
「最優先で退避時間を作ります」
「頼む」
◇
三人目は銀狐族の男性だった。
「弓兵班長、シルヴァン・ルーク」
「はい」
27歳。銀灰色の髪と耳。細身だが、弓を引く右腕と背中は明らかに鍛えられている。長弓を背負い、腰には通常矢とは別に、厚い軸を持つ専用矢を入れた矢筒がある。レオンが訓練場の木製標的を指した。
「一射」
「承知」
シルヴァンが矢を番える。弦を引くと、矢尻へ淡い銀光が集まった。
「撃ちます」
放つ。バシュッ!矢というより、破裂音に近い。50メートル弱先にある厚い木製標的を矢が貫通、その後ろに置かれた藁束まで突き抜け、ようやく止まる。
「相変わらず凄いな」
若い騎士が呟いた。シルヴァンは淡々と答える。
「連射はできません」
「魔力を乗せるためだな」
「はい。一射ごとに集中が必要です。有効距離は40から50メートルほど。それ以上では命中精度と貫通力が大きく落ちます」
「だが、当たれば強い」
「大型魔物にも通ります」
レオンが満足そうに頷く。
「湖畔では森側警戒へ入ってもらう可能性が高い」
「ガラン大使から、エルフのリーファ殿が森林巡回を担当していると聞いています」
「現地で配置を相談しろ」
「承知しました」
◇
最後の班長は、人族の男性だった。30代前半。槍と盾を持つ、実直そうな男だ。
「戦闘班長、ハロルド・ケイン」
「はい!」
「お前は派手な魔法がない」
「存じております!」
「だが一番人数を預ける」
「承知しております!」
「声が大きい」
「申し訳ありません!」
「もっと小さく」
「はい」
少し小さくなった。ハロルドは派遣隊の基本警備をまとめる。
夜間交代。門衛。巡回。馬の管理。荷物警戒。戦闘になった場合の隊列整理。派手さはないが、野営部隊を実際に回すにはこういう人間が欠かせない。
「現地では、ガラン大使がリーダーを兼務する《東風の牙》と《蒼岩の盾》がいる」
「はい」
「どちらも高ランクの実力派パーティだ。勝手に自分たちの方式を押しつけるな」
「現地規則を確認し、合わせます」
「その答えでいい」
◇
「次、炊事担当」
レオンが言った瞬間、一人の男が勢いよくレオンの目前へ出た。
「はい!」
「....近い」
「失礼しました!」
人族男性、アルバート・ロウ。28歳。体格は騎士として標準的だが、腰には剣と同じくらい大きな包丁用ケースを下げている。炊事担当を希望した理由は明確だった。
「副団長」
「何だ」
「湖畔では、本当に米を食べているのでしょうか」
「またそれか」
「白い米。炒飯。握り飯。稲荷寿司」
「ガランの報告にはあったそうだ」
「毎日?」
「らしいな」
アルバートの目が輝く。
「やはりこの派遣、私が行くべきです」
「お前、その話を聞いてから10回くらい言ったぞ」
「王国軍の炊事技術向上のためです」
「本音は?」
「食べたいからであります」
「素直でよろしい」
「それに、米料理を覚えたいであります」
これは本音らしい。
「保存、調理方法。炊事担当として見逃せません」
「湖畔へ料理修業に行くんじゃないぞ」
「警備部隊の炊事が第一です」
「本当だな?」
「米は第二であります」
「近いな、おい」
◇
もう一人の炊事担当は猫族の女性だった。
「ミレイ・カッツ」
「はい」
22歳。今回の派遣隊最年少。明るい栗色の髪と猫耳。小柄だが、包丁と小型弓の扱いに慣れている。
「お前の希望理由は?」
「甘味であります」
「即答か」
「王城で聞きました」
「何を」
「白狐神ユキ様の湖畔では、チョコレートと言う甘味が出ると」
レオンは眉間を押さえた。
「誰が炊事班へ余計な情報を流している」
「ガラン大使の報告書です」
「公文書だった」
「異界の甘味を知ることは、炊事技術と共に士気向上へつながります」
「本音は?」
「食べたいであります」
「お前たち、似た者同士だな」
アルバートが真面目な顔で言う。
「副団長。間違いなく、甘味は士気へ影響します」
「分かった分かった」
ミレイの猫耳が嬉しそうに動く。
「それと、ユキ様へ、こちらのお菓子を勝手に大量に渡すな」
「はい」
「ヒカル殿の方針を確認してからだ」
「承知しています」
「本当に?」
「子供が何人かいるとも聞いています。同じ物を同じ量ですよね」
レオンが少し驚いた。
「そこまで聞いているのか」
「重要ですから」
「ならよし」
◇
20名の残りも、槍兵、剣士、弓兵、斥候、衛生補助、馬匹管理、物資管理などを組み合わせている。男10人。女10人。王国の近衛では珍しくない。
「宿営装備を確認する」
ハロルドが名簿を読み上げる。
「大型天幕4張。予備天幕1張。簡易寝台20。毛布。防水布。炊事鍋。鉄板。食器。水袋。携帯濾過具。簡易柵。杭。ロープ。薪割り道具。保存食10日分」
「多すぎませんか?」
若い騎士が言う。レオンは首を振った。
「伝令隊の報告では、湖畔側で受け入れの準備を進めているとは聞いている」
「では天幕は不要では?」
「間に合うとは限らん」
ハロルドが答える。
「20人分だぞ。俺たちが出発すると決まってから一月程度しかない」
「そうですね」
「白狐神の里へ着いて、『寝る場所がありません』などと言うつもりか」
「それは恥ずかしいです」
「だから自分たちで寝られる準備を持つ」
アルバートも頷く。
「炊事も同じです。厨房があるとは聞いていますが、完成している前提で食料と鍋を減らすべきではありません」
「到着初日から飯を要求する客にはなるな、ということだ」
レオンが言う。
「普請や作事の途中なら、俺たちで野営地を作る」
「風呂は?」
誰かが聞く。
「湖畔だぞ」
「水浴び?」
「簡易湯浴み場くらい自分たちで作れるだろう」
「トイレは?」
「同じく、野営用を設置する」
「到着までに全部できていたら?」
「20人用の宿泊設備など簡単にはできん」
レオンは肩をすくめた。その場にいる誰も反論しなかった。
湖畔の近衛宿が一階男性10人、二階女性10人としてすでに整えられているなど、彼らは知る由もない。そんなものがすでに湖畔で完成しているなど、想像できるはずもなかった。
◇
同じ頃。王宮内の小応接室では、銀狐族の女性がセイラム王の前に座っていた。
「特使、セレナ・アルジェント」
「はい、陛下」
28歳。銀灰色の長い髪。平民だが、外務官僚家系の出身で、外交実務と各種族の慣習へ詳しい。今回、白き神獣の里へ派遣される正式な特使だ。
「役目は理解しているな」
「白狐神ユキ様と守護者ヒカル殿へ、王国の友好意思を直接お伝えすること」
「うむ」
「湖畔を王国領、保護領、庇護対象として扱わないことを確認」
「そうだ」
「正式な友好盟約については、湖畔側の意思を聞いた上で協議」
「その通り」
「神殿儀礼や王国式の礼法を、ユキ様へ押しつけない」
「最重要事項の一つだ」
セレナは少し微笑んだ。
「ガラン大使の報告書には、『ユキ様本人は、さま付けを嫌う』とありました」
「本人の前ではな」
「では正式文書では敬称を維持します」
「頼むぞ」
セイラム王は頷いた。
「随員2名を付ける。移動は馬車。近衛派遣隊と同行せよ」
「承知しました」
「収納は使えるな」
「はい」
セレナが右手を軽く上げる。彼女は珍しい収納スキルを持っている。容量そのものは大きくない。大型旅行用トランク一つ分程度。武器庫や倉庫代わりにはならない。だが――。
「収納中の物は時間が経過しません」
「そこが貴重だ」
「食料、薬品、書類、傷みやすい贈答品には向きます」
「うむ」
セイラム王の耳が、わずかに前へ向いた。
「……贈答品、か」
セレナが王を見る。
「何か?」
「いや」
「陛下」
「何だ」
「何か、ありますね?」
「特使が王を追及するな」
「外交官ですので」
セイラム王は咳払いした。
「もしだ」
「はい」
「もし、湖畔で……」
「はい」
「その、稲荷寿司という物が出たなら」
セレナは無表情を保った。
「出たなら?」
「味をよく確認してこい」
「承知しました」
「保存方法も」
「はい」
「可能なら調理法も」
「はい」
「そして、もしヒカル殿やユキ様が、王への土産として持たせてくださるようなことがあれば――」
「陛下」
「何だ」
「それとなく、ねだれと?」
「そんなことは言っていない!」
耳が完全に前を向いていた。セレナは少しだけ笑う。
「収納中は時間が経過しませんので、稲荷寿司でも作りたての状態で王都まで持ち帰れます」
「そうか」
「顔が嬉しそうです」
「王として食文化交流へ関心があるだけだ」
「もちろん、そのように記録いたします」
「記録するな」
「外交記録は重要です」
「ガランの影響か?」
「元からです」
◇
翌朝。王都東門前には、近衛騎士団派遣隊が整列していた。
騎乗する騎士。荷物を積んだ荷馬車。大型天幕。食料樽。炊事道具。簡易寝台。馬具。医療用品。交換用武具。かなりの量だ。
セレナ特使と随員2名は、王国紋章を小さく掲げた専用馬車へ乗る。派手な行列ではない。白狐神への示威でもない。友邦へ赴く使節と、そこで働く近衛の移動だ。
「副団長」
副官のベルタが報告する。
「総員20名、異常ありません」
「馬匹は」
「問題なし」
「荷馬車」
「固定確認済み」
「水と食料」
「10日分以上。街道上で追加補給予定」
「医療」
エレナが答える。
「薬品、包帯、消毒用品、魔力回復薬、すべて確認済みです」
「炊事担当」
アルバートが胸を張る。
「米以外、問題ありません」
「米を基準にするな」
「湖畔で補充予定です」
「勝手に予定へ入れるな」
ミレイが手を上げる。
「甘味も現地調達予定です」
「お前もだ!」
レオンが額を押さえる。
「お前たちは王国近衛騎士団だよな?」
「はい!」
妙に元気な返事が返る。そこへ馬車の窓が開いた。
「副団長」
セレナが呼ぶ。
「何でしょう、特使殿」
「出発前に一つ」
「はい」
「ヒカル殿へ、到着直後に剣の手合わせを申し込むのは禁止します」
レオンが固まった。
「なぜ知っているので」
「昨日、王城内で三回聞きました」
「誰から」
「全員から」
「む。情報統制がなっていない!」
「秘密ではないでしょう?」
「男には、胸へ秘めておきたい勝負があるのです」
「口に出していたそうですが」
「……」
「まず友邦への挨拶」
「はい」
「指揮系統確認」
「はい」
「宿営または宿舎の確認」
「はい」
「警備の体制」
「はい」
「その後、ヒカル殿の都合を聞く様に」
「分かりました」
「お願いします」
レオンは馬へ乗る。
「ガランめ」
小さく呟く。
「俺が行くまで、ちゃんと湖畔にいろよ」
「逃げませんよ」
副官のベルタが言う。
「それと、ガラン大使はあなたを避けるかもしれません」
「なぜだ」
「酒場へ連れて行くからですよ」
「20年来の友情だぞ」
「20年嫌がられている可能性は?」
「ない」
「自信がすごいですね」
◇
東門が開いた。朝日が街道を照らす。先頭は騎馬の斥候2名。その後ろにレオンと班長たち。中央に荷馬車。馬車に乗った特使セレナと随員。後衛にも騎馬騎士。総員20名の近衛騎士団と、特使一行が、王都を離れていく。
セイラム王は王城東塔の窓から、その小さくなっていく列を見ていた。隣には宰相。
「いよいよ出ましたな」
「ああ」
「湖畔側も受け入れの普請を進めているそうですが」
「20人だ。さすがにすべては間に合うまい」
「近衛も、そのつもりで野営道具を大量に持って行きました」
「それでよい」
セイラム王は頷いた。
「友邦へ世話をされに行くのではない。自分たちの暮らしは、自分たちで回せ」
「御意」
「ただ……」
「はい?」
「守護者ヒカル殿だ」
「何か?」
「ガランの報告を読む限り、一月あれば何を作るか分からぬ」
宰相が少し考えた。
「まさか、20人分の宿舎まで?」
「いやいや、そこまでは無理だろう」
「ですな。いくら異界人でも、そこまでは」
二人は同時に東の空を見た。その頃湖畔では、騎士たちが「間に合わない」と考えていた主要生活設備は、ほぼ出来上がっていた。
さらに守護者ヒカルは、すでに次の新厨房を設置し、湖畔全体の上水・排水計画まで考え始めている。もちろん王城側は、そんなことをまだ知らない。
「まあ」
セイラム王が言う。
「着いてから、分かるだろう」
「近衛がですか」
「特使もだ」
少し間を置く。
「そして」
「そして?」
「稲荷寿司を忘れずに帰ってくれば、なおよい」
「結局そこへ戻るのですね」
東塔の窓から見える一行は、やがて王都外縁の森へ消えていった。
続く




