第85話 白狐神、暴走する
今日は休みだ。昨日のうちに、そう決めた。
近衛騎士団用の宿泊棟は、電源、給排水、風呂、トイレまで形になっている。ニナとドランの溶接練習も三日続いた。職人一行がこちらへ向かっている以上、やることはいくらでもある。
新厨房。食堂の拡張。寝具。収納。職人の受け入れ準備。近衛騎士団用の食堂。南側道路の続き。探せば仕事なんて、地面から雑草みたいに生えてくる。
だからこそ、今日はやらない。
「おっちゃん」
「なんだ?」
「きょう、かんとく、ない?」
「ない」
「こうじ、ない?」
「ない」
「ようせつも?」
「ない」
朝食後、ユキは俺を見上げて確認する。
「ほんと?」
「本当だ」
「おっちゃん、しごと、しない?」
「しない」
「……おっちゃん、だいじょうぶ?」
「俺は仕事をしないと死ぬ生き物じゃない」
横でガランが笑った。
「説得力がないな」
「俺も自分で言っていて少し不安になった」
ニナも俺を見ている。
「図面も?」
「今日は開かない」
「工具も?」
「使わない」
「点検は?」
「朝の最低限だけ済ませた」
「じゃあ、休み」
「そういうこと」
ニナはしばらく考え、こくりと頷いた。
「分かった。休む」
いや、そこまで仕事の手順みたいに納得しなくてもいい。
こびゃっこが食堂テーブルの上で胸を張った。
「休養とは次なる労働への英気を養う、重大な任務なのじゃ!」
「お前はいつも休養と食事の比率が高いだろ」
「千年生きる秘訣じゃ」
「途中で420年くらい実体なかっただろ」
「細かいことを申すでない」
とにかく今日は休日になった。
◇
午前中、湖畔はいつもと違う音に包まれていた。工事音がなく、発電機も動いていない。ツチノコもグイグイもゴロゴロも休みだ。
聞こえるのは波の音と、子供たちの声。それから時々――。
「おおっ、引いてます!」
アルノの珍しく大きな声だった。湖岸の少し張り出した場所では、トト、ミーシャ、アルノ、マリベル、リリアが並んで釣りをしている。
俺が以前取得した釣りスキルの用品から、扱いやすい竿を与えてある。子供用は短め。仕掛けも単純にした。
「アルノ、慌てないで。竿を立てすぎると糸が切れるわ」
マリベルが隣から助言する。
「はい。ですが、思った以上に強いです」
「どのくらいの大きさ?」
ミーシャが自分の竿を持ったまま覗き込む。
「まだ分かりません」
トトは水面をじっと見ていた。
「右に行った」
「え?」
「魚。右」
アルノが竿を右へ向ける。
「本当だ」
数分後、湖面から銀色の魚が跳ねた。
「釣れた!」
ミーシャが立ち上がる。
「ミーシャ、竿を置いてから」
「あっ、はい!」
マリベルの声に、すぐ座り直した。
アルノが釣り上げたのは、30センチほどの銀鱗魚だった。
「これは銀鱗魚にしては大きいですね」
「今日は夕食を別に用意するから、食べるなら明日以降だな」
「保存できますか?」
「下処理して俺の収納に入れて置こう」
アルノは釣った魚をしばらく見つめていた。
「便利ですね」
「俺も毎日そう思う」
トトはもうスケッチブックを開いていた。
「釣らないのか?」
「魚、描く」
「そっちへ行ったか」
休日なんだから、それでいい。
◇
釣り組から少し離れた砂浜では、別の騒ぎが起きていた。
「いくよー!」
ユキが両手で犬用フリスビーを構える。
「ミミ!」
ふわっ。以前よりずっと上手く投げられるようになった円盤が、低い弧を描いて飛ぶ。
灰色のミミが砂を蹴った。その横からクロメも走る。
「ミミ! クロメ! そこっす!」
ロクまで本気で応援している。
ミミが跳んだ。ぱくっ。
「とったー!」
ユキが飛び跳ねる。
「ミミ、えらい!」
ミミは尻尾を振りながら戻ってくる。
「次、クロメじゃ!」
クロメの背中には、当然のようにこびゃっこが乗っていた。
「なぜお前まで参加してる」
「畑守り隊騎馬演習じゃ」
「フリスビー遊びだ」
「機動訓練ともいうの」
「言わない」
こびゃっこがクロメの背で前足を上げる。
「ブンブンブブブン! ブブブ――」
「直管コールを始めるな!」
「ブ...休日じゃぞ!」
「休日なら近所迷惑していい理屈にはならない!」
「近所はおらぬ!」
「俺たちが近所だ!」
ロクが笑いながらフリスビーを拾う。
「でも、久しぶりっすね。これ」
少ししてから俺は収納から小さな鞍を出した。ポニー用の乗馬鞍だ。もちろん本来、犬へ子供を乗せるための商品ではない。ミミ自らユキや子供達を背中に乗せようとするので、敢えて購入したものだ。もちろん、ミミの体格、背中、胸周りを確認し、ロクにも相談した。
「大丈夫そうっす。ミミも嫌がってないっすね」
「無理そうなら即中止しよう」
「了解っす」
厚めのパッドを入れ、腹帯を締めすぎないよう確認する。
ユキが目を輝かせた。
「ユキ、のる?」
「ロクが横について、歩くところからな」
「はしる?」
「最初は走らない」
「むー」
「落ちたら痛いぞ」
「いたいの、やだ」
「じゃあ段階を踏む」
「だんどり」
「そう」
ロクがミミの横につき、俺も反対側へ回る。ユキを鞍へ座らせる。
「どうだ?」
「たかい!」
「怖くないか?」
「だいじょうぶ」
ミミがゆっくり歩き出した。
「おおー」
ユキの大きな尻尾が左右に揺れる。
「ユキ、ミミに、のってる!」
「手を離すなよ」
「はい!」
一周したところで、ミミも落ち着いている。少しだけ速足へする。
「おおおお!」
ユキが笑う。そこへ横からクロメが走ってきた。背中にはこびゃっこ。
「白夜特攻隊、参上じゃあああ!」
「張り合うな!」
「ブンブンブブブン!」
「直管コールもやめろ!」
ユキが横を見る。
「こびゃっこ、はやい!」
「ユキよ! ついて参れ!」
「競走させるな!」
「おっちゃーん、ぶんぶんぶぶぶん!」
「ユキまで乗るな!」
異世界で幼女の神様が、魔犬に跨がり直管コールしている.....今日は平和な休日だ.....たぶん。
◇
そんな騒ぎをしばらく眺めた後、少し離れた場所で張ったタープの下で、俺はカードを配った。
メンバーは俺、ガラン、ニナ、リーファ、ドラン。
ポーカーだ。トランプ自体は以前から紹介していて、夕食後に時間がある時は皆で遊んでいた。
最初はババ抜きや神経衰弱。その後、ガランがルールを理解すると、ポーカーへ興味を持った。この世界にも札を使った遊びはあり、数字や絵柄を揃える遊びもあるらしい。
だからポーカーの理解は早かった。ただし金は賭けない。使っているのは、安いプラスチック製ポーカーチップだ。
「赤、10。青、5。白、1」
ニナが自分のチップを綺麗に積んでいる。
「お前、毎回高さまで揃えるな」
「数えやすい」
「そこは仕事と変わらないな」
ガランがカードを伏せる。
「チェック」
リーファも続く。
「私も」
ドランがカードを見る。
「20じゃ!」
「急に上げたな」
「ドワーフなら勝負じゃ!」
「ポーカーで種族を持ち出すな」
ニナがドランを見る。
「顔、分かりやすい」
「何じゃと?」
「弱い時、大きい声」
「わしはいつでも大きい!」
「だから分かりやすい」
リーファが吹き出した。
「確かに」
「お主まで!」
実際、この中で一番弱いのはドランだった。カードが良ければニヤける。悪ければ眉間に皺が寄る。ブラフをすると声が大きくなる。
全部顔に書いてある。
強さで言えば、今のところ俺、ニナ、ガラン、リーファ、ドランの順だ。
意外なのはニナだった。ほぼ表情が変わらない。ポーカーフェイスという意味では、この場で最強だ。
「ニナ、10」
「乗る」
「ガランは?」
「降りる」
「リーファ」
「私も降りるわ」
残ったのは俺とニナ。ニナがカードを見る。一瞬。本当に一瞬だけ、右の三つ編みの先が動いた。
「……」
「何?」
「いや」
仕事で上手くできた時。俺が褒めた時。ニナは顔にはほとんど出ない。だが、視線がほんの少し上がる。そして三つ編みの先が微妙に揺れる。
今、それが出た。
「20追加」
「……乗る」
「さらに20」
ニナが俺を見る。
「ヒカル、知ってる?」
「何を?」
「ニナの札」
「知らないぞ」
「ほんと?」
「ポーカーは相手を読む遊びだ」
「む」
ニナはチップを追加した。
勝負。ニナはフルハウス。
「強いな」
「おっちゃんは?」
俺はストレートフラッシュ。
ニナが数秒止まった。
「ずるい」
「カードは操作してないぞ」
「顔、見た」
「それはポーカーの技だ」
「何で分かったの?」
「秘密」
ガランが俺を見る。
「ヒカル。子供相手に大人気ないぞ」
「待て。ニナは普通に強いんだぞ」
「次」
ニナがカードを集め始める。
「もう一回」
「ほら、完全に勝負師だ」
ドランが腕を組んだ。
「ニナ。わしと組まぬか?」
「嫌」
「即答!?」
「ドラン、顔に出る」
「師匠格に対して容赦がないのう!」
「溶接とポーカーは別」
「正論だ」
◇
昼前。遊び疲れた連中が、匂いにつられてタープへ集まった。
「おっちゃん」
ユキが鼻をひくひくさせる。
「にく?」
「肉だ」
「パンも」
「よく分かったな」
今日の昼は料理もしない。スキルショップの食品系取り寄せから、ハンバーガーとホットドッグを注文した。
ハンバーガーは、チーズ入り、普通のビーフ、照り焼き系。ホットドッグは子供でも食べやすい味。
それに大盛りのフライドポテト。
「袋に入ってる!」
ミーシャが嬉しそうに言う。
「俺の世界では、こういう店で買って外で食べたりするんだ」
「お店のごはん?」
「そうだな」
ユキは包み紙を開く。
「まるい」
「ハンバーガー」
「にく、パンに、はさまった」
「そう」
「にくの、ふとん?」
「パンの布団だな」
「おお。うんみゃあ!」
「まだ食ってないだろ」
ユキは一口かじった。目が丸くなる。
「うんみゃあ!」
「今度は正式だな」
ロクは大きめのバーガーを両手で持っている。
「これ、歩きながらでも食えそうっすね」
「本来は手軽に食べる料理だからな」
「巡回飯にいいっす」
「ただしソース垂らすぞ」
リーファも照り焼きバーガーを食べる。
「甘い味の肉をパンに挟むの、面白いわね」
アルノは包装紙を広げて観察している。
「皿がなくても食べられるのですね」
「ゴミは出るけどな」
「洗い物は減ります」
「そういう利点もある」
ニナはホットドッグを見ていた。
「長い」
「ソーセージがな」
「パン、切れてる。でも分かれてない」
「そこを観察するのか」
「挟みやすい」
「確かに」
そして飲み物。コーラ。オレンジ炭酸。レモン系炭酸。子供用には普通のジュースや麦茶もある。
俺がコーラのペットボトルを開けた。ぷしゅっ。ユキの耳が、ぴんと立った。そして一歩下がった。
「……しゅわ」
「そんな警戒するな」
「けぷ、でる」
「飲みすぎなければ大丈夫だ」
「びゃっこのためいき、でる」
「炭酸系な」
こびゃっこが胸を張る。
「炭酸系びゃっこのためいきは、白狐神の伝統芸能じゃ」
「伝統になってない。誕生から二週間も経ってない」
「歴史の長さではない。心じゃ」
「ゲップを文化遺産にしようとするな」
ユキはコーラを遠巻きに見る。
「おっちゃん、のんで」
「俺は毒見役か
俺が一口飲む。
「平気だ」
「けぷ?」
「今のところ出ない」
「じゃあ、ちょっと」
小さなカップへ少量だけ注いだ。ユキが恐る恐る飲む。
「……あまい」
「どうだ?」
「しゅわ、つよい」
「コーラだからな」
「でも、うんみゃあ」
「気に入ったか」
「ちょっとだけ」
かなり慎重になった。
恥じらい……なのか?
◇
食後、何気ない話から次の問題が出てきた。きっかけはマリベルだった。
「そういえば、リーファたちはあの二輪の乗り物に普通に乗れるようになったのよね」
「マウンテンバイク?」
「はい。私も少し興味はあるんですけど……」
マリベルが遠くに置かれた自転車を見る。
「あれ、難しそうですよね」
「最初は練習がいるな」
「乗れれば診療所から畑や橋の方へ移動するのも早そうです。怪我人が出た時にも便利でしょうし」
「確かに」
「でも転んで私が患者になったら意味がないので」
「それは確かに困るな」
マリベルが笑う。隣でポテトを食べ終えたニナが言った。
「ニナも、あるとべんり」
「自転車?」
「朝、ランタン回収する」
「ああ」
ニナは毎朝、各住戸と生活区画のトイレから充電式ランタンを集め、充電場所へ持っていく。今はワゴンを使っている。
「畑も、行ける」
「そうだな」
「工具、運べる?」
「普通の自転車だと、積める量は少ないな」
「前にかご?」
「……待てよ」
俺は少し考えた。自転車は二輪だから、止まる時に足をつく必要がある。練習もいる。だが三輪なら?
「大人用三輪自転車ならいいか」
「三輪?」
マリベルが聞く。
「前一輪、後ろ二輪。止まっても基本的には倒れない。大きな後ろかごを付けられるタイプもある」
ニナの目が俺へ向く。
「荷物、乗る?」
「ランタンなら余裕。軽い工具や買い物かごも運べる」
「べんり」
「出たな」
「何台買う?」
「だから即決権を取るな」
でも、悪くない。むしろ今後、人が増えれば拠点内の移動手段は必要になる。バギーをちょっとした移動に毎回使うのは大げさだ。
マウンテンバイクは速いが、全員が簡単に扱えるわけではない。三輪自転車なら速度は控えめでも安定性が高い。
「子供用もある」
俺が言うと、ミーシャが反応した。
「私たちも?」
「体格に合う物ならな」
「トトも?」
「練習して安全に乗れれば」
トトが少し不安そうにする。
「倒れない?」
「二輪よりは倒れにくい。でも曲がる時に速度を出しすぎれば危ない」
「ゆっくり?」
「そう」
ユキが手を上げた。
「ユキも!」
「監督号が欲しいのか」
「かんとくさんりん!」
「名前は好きにしろ」
「白狐神爆走号じゃ!」
こびゃっこが叫ぶ。
「却下」
「まだ仕様も決めておらぬ!」
「名称だけで却下できる」
◇
午後。俺は大人用4台、子供用4台の三輪自転車を購入した。
大人用は、マリベル、アルノ、リリア、ドラン。前かごに加え、後輪の間へ大型バスケット付き。低床フレームで乗り降りしやすい。
子供用はミーシャ、トト、ニナ、ユキ。補助輪付き自転車とは違い、最初から後輪が左右に分かれた三輪タイプだ。もちろんサイズはそれぞれ合わせた。
「まず点検」
ニナがすぐ言った。
「今日は休日だぞ」
「でも乗る前、点検」
「正しい」
そこは仕事ではなく安全だからやる。タイヤ空気圧。ブレーキ。ハンドル固定。サドル高さ。チェーン。ベル。かご固定。反射板。さらに全員へ各装備を説明する。
練習を始める。最初は広い草地で道路や橋へは出ない。
「曲がる時は速度を落とす。三輪だから絶対倒れない、ではない。急にハンドルを切らない」
「ブレーキは?」
アルノが尋ねる。
「前後を急に強く掛けず、ゆっくり減速する。まずは歩くくらいの速度」
「なるほど」
マリベルは慎重にペダルを踏んだ。
「あ……」
進む。
「これは、思ったより簡単ですね」
「二輪みたいに自分で左右のバランスを取り続けなくていいからな」
「止まっても倒れない」
「それが大きい」
リリアも乗り始めた。
「荷物を入れられるのが助かります」
「洗濯物を大量に積むのは禁止な」
「なぜ先に分かったのですか?」
「生活担当の顔をして後ろかごを見たから」
リリアが小さく笑った。
「でも、タオル程度なら便利そうです」
「それくらいならいい」
アルノは最初、慎重すぎるほどゆっくりだった。
「歩いた方が速くないか?」
「まず操作を理解しています」
「アルノらしいな」
「曲がる時に外側へ少し力が掛かりますね」
「そこに気づいたなら十分だ」
そしてドラン。
「ぬおおおおっ!」
「速い!」
「三輪なら倒れぬぞ!」
「横には倒れる!」
「何!?」
「急カーブするな!」
慌ててブレーキ。ドランの三輪自転車が止まる。
「……マウンテンバイクより安心じゃ」
「お前は王都で草むらへ突っ込んだからな」
ガランが突っ込む。
「忘れろ!」
「歴史的事実だ」
「こびゃっこ殿の『白夜参上』と一緒にするでない!」
「なぜそこでびゃっこへ流れ弾が来るのじゃ!」
少し離れたところで、こびゃっこが抗議した。
◇
子供組も順番に練習する。ミーシャはすぐ慣れた。
「これ、ワゴンより楽!」
「自分で漕ぐからな」
「荷物も積める」
「料理を運ぶ時は、汁物は駄目だぞ」
「こぼれる?」
「確実に」
「じゃあ、お弁当」
「それなら固定すれば使えるな」
トトは慎重だった。
「ベル、鳴らしていい?」
「必要な時だけな」
「今は?」
「練習だから一回だけ」
ちりん。トトが少し笑った。
「音、小さい」
「驚かせるためじゃなく、気づいてもらうための音だからな」
「絵、描く」
「何に?」
「かごに、トトの印」
「それは後でな」
ニナは乗って10分もしないうちに、後ろかごの寸法を測り始めた。
「何してる」
「ランタン、何個入るか」
「休日だぞ」
「遊びながら確認」
「仕事が混ざってる」
「べんり」
「やっぱり混ざってる」
ユキは50メートル位乗り終えた途端に宣言した。
「ユキ、できた!」
「まだ直線だけだ」
「まがる!」
「ゆっくり!」
ぐるーっと大回り。
「できた!」
「上手い上手い」
「おっちゃん、みてた?」
「見てた」
「ぜんぶ?」
「だいたい」
「ぜんぶ、みて」
「要求が高い」
それでも、次の周回も見た。
昨日、焼き鳥を食べながら、自分が一人だった頃の話をして、朝起きて俺がいなくなるのが怖いと、ようやく言葉にできた子だ。
今日は三輪自転車に乗って、振り返るたび俺がいることを確認している。
「おっちゃん!」
「いるよ」
「みてる?」
「見てる」
「じゃあ、いく!」
ユキがまたペダルを踏んだ。急がなくていい。何度でも振り返ればいい。そのうち、振り返らなくても俺がいると分かるようになる。
それまでは、見ていればいい。
◇
そんな少し感傷的な気分を台無しにする音が、後ろから近づいてきた。
「ブンブンブブブン! ブブブブン!」
「来たな」
クロメの背中にこびゃっこ。
ミミも隣を走っている。
「白夜三輪連合、湖畔一周じゃあ!」
「お前、三輪に乗ってないだろ!」
「護衛騎馬部隊じゃ!」
「騎馬じゃなく魔犬だ!」
「ユキ! 並走するぞ!」
「こびゃっこー!」
「煽るな!」
ロクが後ろから走ってくる。
「こびゃっこ殿! ミミとクロメを勝手に競争させないでほしいっす!」
「これは安全走行じゃ!」
「直管コールして安全走行を名乗るな!」
湖畔の休日は、静かではなかった。
◇
夕方。三輪自転車は各ユニットハウスの横に止める事にした。後日、単管パイプとポリカーボネイト波板で屋根を作る事にした。
使用後は、かごのゴミとタイヤの泥を確認。畑へ行った物は、生活区画へ入る前に泥を落とす。
「休日でもルール作るのね」
リーファが笑う。
「物を増やしたら置き場所まで決めないと、数日後に道路へ放置される」
「ヒカルらしいわ」
ニナが自分の三輪車へ札を付けた。
【ニナ】その下へ、小さく工具の絵。
「もう専用車になったな」
「うん」
「明日の朝から使う?」
「ランタン、乗せる」
「最初は軽い物だけにしろよ」
「分かった」
◇
夕食も、今日は作らない。俺は収納から大きな寿司桶をいくつも出した。
食堂の空気が止まった。
「……魚?」
リーファが目を細める。
「生だな」
ガランが即座に見抜いた。
「生?」
ミーシャの猫耳がぴんと立つ。
「焼かないの?」
「一部はな」
マリベルが少し警戒する。
「ヒカルさん。これは安全な魚なんですか?」
「生食用として処理された物だ。俺のスキルから買った。衛生管理済み」
「なら、あなたの世界では普通に食べる料理?」
「かなり代表的な料理だな。寿司という」
白い酢飯の上に、マグロ、サーモン、白身、エビ、イカ、卵焼き。
生魚が苦手な者でも食べられるよう、いなり寿司、巻き寿司、茹でエビ、卵も多めにした。
子供用は全部サビ抜き。大人用はワサビ入りと、サビ抜きを分ける。
こびゃっこの細い目が見開いた。
「寿司じゃ!」
「まあ知ってるよな、当然」
「知っておるどころではない! 寿司は昭和家族の一大行事じゃ!」
「大袈裟だな」
「昔は寿司といえば祝い事や来客の日じゃ。木の桶を出す店も多かったのう!」
「出前か」
「そうじゃ! 電話一本、『もしもし、上寿司三人前』じゃ!」
「昭和感が強い」
ユキが寿司桶を覗き込む。
「ごはんに、さかな、のってる」
「そう」
「さかな、やいてない」
「そう」
「だいじょうぶ?」
「大丈夫な魚だけ使う」
「おっちゃん、たべる?」
「食べる」
「じゃあ、ユキも」
「信頼の仕方が、遠回しにお毒見役」
俺はサーモンを一つ取る。
「醤油を少しだけ。つけすぎるなよ」
ユキも真似する。
「こっち?」
「魚側をちょっとだけな」
口へ入れる。数秒。
「……」
「どうだ?」
ユキの耳が立った。
「うんみゃあ」
「いけたか」
「おさかな、やかなくても、うんみゃあ」
「全部の魚が生で食べられるわけじゃないからな。そこは絶対覚えておけ」
「これは、だいじょうぶ」
「そう」
ミーシャも恐る恐るマグロを食べる。
「……柔らかい」
「変な感じ?」
「最初は。でも美味しい」
トトはサーモンを断面から見ていた。
「線がある」
「脂の部分だな」
「絵、描きたい」
「食べてからにしろ」
「うん」
アルノは白身魚を食べて、静かに驚いた。
「火を通さないことで、食感がまったく違うのですね」
「俺の国は生魚文化がかなり強いからな」
「水と保存技術が必要ですね」
「その通り。衛生管理なしで真似する料理じゃない」
マリベルも頷いた。
「そこは此処へ来た人に説明する上でも記録しておきましょう。『生なら何でも寿司にできる』と誤解されると危険です」
「頼む、他にも湖畔での生活は、この世界の常識と掛け離れた部分があるからな。その辺りの注意事項もまとめる必要があるな」
◇
そして大人には酒。ビール。日本酒。缶チューハイ。
「今日は昨日より控えめよ」
マリベルが最初にドランへ言った。
「明日は鍛冶場ではない!」
「でも作業はあるでしょう?」
「食堂の改装じゃ!」
「二日酔いで工具を持つなら同じ」
「む」
「ほどほど」
「……分かった」
「昨日より素直だな」
「昨日はブランデーを飲めたからの」
「満足したんだな」
「王へ贈った酒と同じ物を自分で飲めぬ日々が、どれほど辛かったか!」
「大げさだ」
乾杯して寿司を食べる。ドランはマグロを一つ食べ、頷いた。
「悪くない」
「強がってないか?」
「生魚くらい平気じゃ」
「ならワサビ入りもいけるな」
「当然じゃ」
ドランは醤油皿へワサビを追加した。かなり。
「おい」
「これくらいがドワーフの――」
「さっきもポーカーで似たこと言ってたぞ」
「わしは辛味に強い」
マグロをたっぷりワサビ醤油へ付ける。
「いただくぞ」
口へ入れた。噛む。一秒。二秒。ドランの目が見開いた。
「……」
「どうした」
「……問題ない」
目に涙が浮かんでいる。
「完全に問題ある顔だぞ」
「これは……寿司の感動じゃ」
「鼻を押さえながら言うな」
マリベルが呆れる。
「無理して飲み込まなくてもいいのよ」
「無理ではない!」
その直後。
「ふごっ!」
鼻へ抜けたらしい。ドランが両手で鼻を押さえた。ニナが静かに言う。
「ドラン、顔に出る」
「ポーカーの話をここへ持ってくるでない!」
「やっぱり、分かりやすい」
「ニナ!」
全員が笑った。
◇
こびゃっこは小さな寿司を前に、日本酒をちびちびやっていた。
「寿司といえばのう」
「始まった」
「昭和の寿司屋には、時折、頑固な親父がおった」
「偏見だろ」
「『寿司は手で食うもんだ!』」
「店による」
「『醤油を付けすぎるな!』」
「それはちょっと分かる」
「『ガリで口を整えろ!』」
「普通に食べさせろ」
ユキが聞く。
「がり?」
「生姜じゃ。甘酢に漬けた薄いものじゃよ」
「うんみゃあ?」
「大人の味じゃの」
「食べてみる?」
俺が少しだけ渡す。
ユキが一口。
「……からい」
「無理しなくていい」
「これは、おとな」
「分類が早い」
◇
寿司桶は、思った以上の速度で空になった。生魚を警戒していた連中も、結局かなり食べた。
ロクはサーモン。リーファは白身。ガランはマグロ。マリベルはエビと白身。リリアは巻き寿司。アルノは種類を順番に確認するように食べていた。
子供たちは卵、サーモン、エビが人気だった。そして、こびゃっこは種類を問わず食べていた。
「お前、何貫目だ」
「数えるでない」
「体積がおかしい」
「神通力じゃ」
「食欲へ神力を使うな」
ユキが満腹になって椅子へもたれた。
「ふぅ……」
こびゃっこがすかさず前足を上げる。
「満腹系びゃっこのためいき、確認じゃ!」
「久しぶりに出たな」
「寿司の夜にふさわしい」
「ユキ、いっぱいたべた」
「そうだな」
「きょう、いっぱい、あそんだ」
「そうだな」
「ミミ、のった」
「ああ」
「さんりんも、のった」
「上手かったぞ」
ユキは少し眠そうに笑った。
「おっちゃん、みてた」
「ああ。見てた」
「うん」
それだけ言って、また小さく息を吐いた。昨日は泣き、今日は笑った。どちらも、この子がここで覚えているものなのだろう。
嬉しいも寂しいも、腹いっぱいも、怖いも。一人だった頃には名前を知らなかった気持ちが、少しずつ増えていく。それでいい。
◇
食器を片付けながら、俺は明日からの予定を頭の中で確認した。
休日は今日で終わり。明日から食堂周りへ入る。既存厨房タープから調理設備を移す準備。新しい8坪厨房ユニットの設置位置を再測量。そして今の厨房タープを、食堂へ転用する。
職人12人が来る。その後には近衛騎士団20人と特使たちも来る。
今の食堂では足りない。
「おっちゃん」
「ん?」
「また、あした、しごと?」
「ああ」
「ユキ、かんとく?」
「頼むぞ」
「はい!」
休日が終わった瞬間、監督様が復帰した。俺も明日から、また段取りの人へ戻る。だが、たまには今日みたいな日が必要だ。
魚を釣って、フリスビーを投げる。カードで負けて悔しがる。三輪自転車で転ばないよう練習する。ハンバーガーを食べ、炭酸を警戒し、寿司に驚く。
何かを建てたわけではない。それでも今日一日で、ここは少しだけ暮らす場所になった。工事をしない日にも、群れは育つらしい。
感慨深く思ったところで、タープテントの外からこびゃっこの声が響いた。
「ブンブンブブブン! 夜の湖畔をバリバリ――」
ミミに乗ったこびゃっこがいた。
「こびゃっこ!」
「まだ出発しておらぬぞ!」
「夜間にミミとクロメへ乗るのは禁止!」
「これは新作のロケハンをじゃな!」
「制作中止」
休日最後の仕事は、守護神使の夜間暴走を未然に防ぐことだった。
⸻
【第85話・収支報告】
異世界生活69日目
日付:五の月28日
オリエント王国歴952年
開始残高:3,184,056pt
今回の購入:
・大人用低床三輪自転車4台、大型前後バスケット、鍵、防犯用品一式
2,600pt(約260,000円)
・子供用三輪自転車4台、サイズ調整部材、ベル、反射材一式
1,280pt(約128,000円)
・ミミ用小型乗用鞍、厚手パッド、調整式腹帯、安全補助具
180pt(約18,000円)
・昼食用ハンバーガー、ホットドッグ、フライドポテト、各種ジュース、炭酸飲料
210pt(約21,000円)
・夕食用寿司盛り合わせ、サビ抜き・ワサビ入り、ガリ、醤油、汁物
320pt(約32,000円)
・夕食用ビール、日本酒、缶チューハイ、子供用飲料
140pt(約14,000円)
今回支出合計:4,730pt(約473,000円)
現在残高:
3,184,056pt − 4,730pt = 3,179,326pt
円換算目安:
3,179,326pt × 100円 = 約317,932,600円相当
続く




