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スキル四十(しじゅう)の手習いで神獣幼女を養います  作者: ELWOOD CRAFTWORKS


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第84話 白狐神、寂しさの意味を知る


 夕食の準備を始めた頃には、湖の向こうへ夕日が沈みかけていた。


 今日の獲物は三羽。ガランが湖岸で仕留めた大きめの水鳥が2羽。リーファとロクが森から持ち帰った森鳥が1羽だ。狩猟スキルと鑑定で食用に問題がないことを確認し、血抜きと下処理を済ませる。


「ぜんぶ、やく?」


 ユキが調理台の向こうから覗き込んでいる。


「全部は焼かない。今日は2種類だ」


「ふたつ?」


「唐揚げと焼き鳥」


 ぴん。白い耳が立った。


「からあげ!」


「反応が早いな」


「かみのにく」


「鳥の種類が違っても神の肉なのか」


「からあげになれば、かみのにく」


「調理法で昇格するんだな」


 水鳥は胸肉と腿肉を中心に切り分け、一部を唐揚げ用へ。森鳥は串焼きに向く部位を取る。リリアとミーシャが唐揚げ用の肉を、醤油、酒、ショウガ、少量のニンニクで漬け込む。


 俺は焼き鳥用の肉を一口大へ切り、串へ刺していく。


「塩とタレ、両方作るぞ」


「タレ?」


 ユキが言った。


「そう。醤油とみりんと砂糖を煮詰めたやつ」


「……たれ」


 その声だけ、少し違った。俺はまだ気づかず、鍋へ調味料を入れた。醤油。みりん。砂糖。少量の酒。火へ掛け、ゆっくり煮詰める。甘辛い匂いが、キッチンタープへ広がった。


 その瞬間だった。


「……おっちゃん」


「ん?」


 ユキが動かなくなっている。白い耳をぴんと立て、鼻を小さく動かしていた。


「これ……」


「タレだよ」


「この、におい……」


 俺もようやく思い出した。


「ああ」


 箸を止める。


「初めて会った時以来だな」


「……うん」


 森で出会った初日。まだ、この子がユキという名前を持っていなかった時。肉も魚も、自分で焼いて食べていた。塩も知らずタレも知らなかった。


 俺がキャンプショップから買った焼き鳥を渡した。一口食べた途端、尻尾を膨らませて――。


『にくが、えらくなってる!』


 そう叫んだ。


「覚えてるか?」


「おぼえてる」


 ユキが小さく頷いた。


「おっちゃん、くれた」


「ああ」


「さいしょの、あじついた、にく」


「そうだったな」


 ユキは鍋から立つ湯気を見ていた。そこへこびゃっこが鼻をひくつかせながら寄ってくる。


「これは良い匂いじゃ。焼き鳥は塩もよいが、甘辛いタレも捨て難――」


 途中で止まった。ユキの顔を見たからだ。


「……ユキ?」


「だいじょうぶ」


 そう答えた直後。ぽろっ。大きな黒い瞳から、涙が一粒落ちた。


「ユキ?」


 俺はすぐしゃがんだ。


「どこか痛いのか?」


「いたくない」


「気持ち悪い?」


「ちがう」


「じゃあ……」


 また一粒。ユキ本人も驚いたように、自分の頬へ触った。


「あれっ……なんで?」


 濡れた指を見る。


「ユキ、ないてる?」


「ああ」


「かなしく、ないよ?」


「無理に決めなくていい」


「でも……」


 ユキは困った顔をした。


「なんで、でる?」


 俺にもすぐ答えは出なかった。だから、とりあえず抱き上げた。


「分からないなら、分からないままでいい」


「うん」


 ユキは俺の首へ腕を回した。そのまましばらく、タレの煮える匂いを嗅いでいた。


     ◇


 夕食は、少し遅くなった。

 唐揚げ。塩焼き鳥。タレ焼き鳥。野菜の浅漬け。冷やしトマトはまだ畑の物ではなく購入品。それと、昨夜残したカレー。


「カレーへ唐揚げを載せてもいいぞ」


「!」


 ユキが顔を上げる。


「からあげ、カレー?」


「ああ。唐揚げカレー」


「かみのにくと、おうちカレー……」


「合体させるな」


「つよい」


「何と戦う気だ」


 子供たちは甘口。俺たちは中辛。そこへ揚げたての唐揚げを2、3個載せる。ユキは自分の皿を見て、しばらく真剣に考えていた。


「これ、すごい」


「味の感想は食べてから言え」


 ひと口。


「うんみゃあ!」


 いつもの声が戻り、少し安心する。


「からあげ、カレー、えらい!」


「結局全部えらいんだな」


「べつべつでも、えらい。いっしょでも、えらい」


「万能評価だな」


 ニナも唐揚げをカレーへ乗せる。


「いっしょの皿で食べれる。弁当みたい、べんり」


「まあ、カレー弁当もあるにはあるが」


「弁当のべんは、べんりのべん?」


「字の意味としては違うけどな」


 ニナはもう一口食べた。


「ちがうけど、おいしいから、べんり」


「新しい評価軸ができたな」


 ミーシャは焼き鳥も食べ比べている。


「私、タレ好きかも」


「私は塩も好きです」


 リリアが笑う。トトは塩を一口、タレを一口食べ、それからスケッチブックを取り出した。


「飯の途中で描くなよ」


「あとでだと、わすれる」


「じゃあ線だけな」


 茶色い線の周りへ、黄色と赤の線が増える。


「これは?」


「におい」


「昨日のカレーに続いて今日も香りか」


「たれ、あまいにおい」


 ユキがその絵をじっと見ていた。


     ◇


 そして今日は、大人にも特別扱いだ。


「明日は休みにしようと思うんだが」


 俺が言うと、ドランの顔が一気に明るくなった。


「本当か!」


「完全休業。鍛冶場も工事もなし」


「溶接練習も?」


「なし」


「おお……」


「工事も一区切りついたし、いいんじゃないか」


 そう言ってガランが頷く。


「但し警備まで全休にはできない。朝夕の巡回だけは行う。ドランは工事をやってもらっているので休みにしてくれ」


「すまんが、頼む」


「ならば!」


 ドランが立ち上がる。


「酒じゃ!」


「やっぱりそこか」


「明日は鍛冶も溶接もない! これを飲まずしていつ飲む!」


 マリベルを見る。


「マリベル」


「今日はいいわよ」


「おお!」


「但し、潰れるまで飲んでいいとは言ってないわよ」


「一瞬の自由であった」


「十分自由だろ」


 今日は少し種類を増やしてある。ビール。缶チューハイ。日本酒。赤ワインと白ワイン。ウイスキー。そして――。


「……ヒカル」


 ドランの声が震えた。


「何だ」


「それは」


「ようやく開けようと思ってな」


 収納から、一本の瓶を取り出す。王へ献上した物と同じブランデー。以前用意したうち、湖畔側で保管していた一本だ。王冠の形をしたボトルに、フランスの王様の名前が付いた高級酒。


「待っておった……」


 ドランが両手を合わせた。


「酒へ祈るな」


「王が飲んだ物と同じなのじゃろ?」


「同じ銘柄だ」


「ついに……」


「顔が怖いぞ」


「わしはこの日のために王都まで行ったと言っても過言ではない」


 ガランが即座に否定した。


「過言だ」


「外交より酒が目的だったの?」


 マリベルも冷たい。


「違う! 職人も呼んだ!」


「順番が逆になってるぞ」


 小さなグラスへ少量注ぐ。


「一気飲みするなよ。香りを見る酒だからな」


「心得ておる」


 ドランがグラスを鼻へ近づける。さっきまでの騒がしさが消えた。


「……おお」


 一口。目を閉じる。


「……なんという」


「どう?」


「口へ入れた時より、飲み込んだ後の方が香る……」


「まともな感想だな」


「王め……こんな物を先に飲んでおったのか……」


「王なんだからいいだろ」


「羨ましい」


「国家元首への感想がそれか」


 ガランも少量飲む。


「確かに、これは王へ出しても問題ない酒だ」


「だろ」


「危険だな」


「何が?」


「ドランが覚えた」


 全員がドランを見る。ドランは瓶を見つめていた。


「これは……特別な日にだけ出すべき酒じゃ」


「意外と冷静だな」


「毎日飲めば特別ではなくなる」


「そういう理由か」


「そして値段を聞けば酔いが醒めそうじゃ」


「それも正しい」


 こびゃっこは日本酒の小さな杯を前にしている。


「びゃっこもブランデーを――」


「一杯だけな」


「千年神使ぞ!」


「手のひらサイズだ」


「魂の大きさで測るべきじゃ」


「肝臓の大きさで考えろ」


「神使に肝臓があるかは――」


「あるか分からないから、余計飲ませられない」


「ぐっ。論破されたのじゃ!」


     ◇


 宴会みたいな夕食になった。ガランは赤ワイン。リーファは白ワイン。ロクはビール。アルノは薄めたワイン。リリアとマリベルは少量の白ワイン。


 ドランは、ビールから始まり、日本酒、ウイスキー、最後にブランデーを少しずつ試している。


「混ぜるなよ」


「全部少量じゃ」


「明日頭痛いって言っても回復魔法は使わないからね」


 マリベルが言う。


「二日酔いにも使えるじゃろ?」


「使えても使わない」


「なぜじゃ!」


「自業自得だから」


「医療の理念に情がない!」


「自制できる病気は自制しなさい」


「病気扱いされたぞい」


 笑い声が上がる。たまには少しくらい賑やかな夜があってもいい。


     ◇


 ユキは、タレ焼き鳥を一本持っていた。いつものように肉だけ先に食べるのではなく、今日は少しずつ口にしている。


「どうした?」


「これ」


「焼き鳥?」


「うん」


「さっきからずっと見てるな」


「おなじ、におい」


「最初の日と?」


「うん」


 一口。また少し目が潤む。


「ユキ?」


「だいじょうぶ」


「無理に大丈夫って言わなくていい」


「……わかんない」


 ユキは焼き鳥を皿へ置いた。そして、ぽつりと言った。


「まえね」


 食卓が少し静かになる。


「ああ」


 俺は急かさない。


「ユキ、ひとりだった」


「……ああ」


「ずっと?」


ミーシャが聞く。


「どれくらいか、わかんない」


 ユキには日付も時計もなかった。


「きのしたで、ねて、おきてた」


 少しずつ話す。


「いつもおなか、へってた」


「うん」


「きのみ、さがしたり、さかなと、みずのうえのとり、ときどき、ぱちっしてとった。おにく、たべたいから」


「自分で焼いてたんだよな」


「それもぱちって、火つける」


 小さな指を立てる。


「かわのそばで、さかな、また、ぱちってすると、ぬるぬるきえた、とりは、はねをとって、また、ぱちっして、そのままやいた。ひは、おみずで、けす」


「無意識に浄化したのじゃな。おそらく血抜きや殺菌の効果があったはずじゃ」


 こびゃっこが説明する。

 ユキは続ける。


「でも、あじ、なかった」


「塩も知らなかったもんな」


「しお、しらない。たれ、しらない。くつ、しらない。とりいのなまえ、しらない」


 ユキが自分の足を見る。


「じぶんのなまえも、なかった」


 誰も口を挟まなかった。


「でもね」


 俺を見る。


「ユキ、そのとき、かなしくなかった」


 胸が少し詰まった。


「ひとり、ふつうだった、でも、もりの、いろんなにおい、こえ、ユキにはなしかけてきた」


「……そうか」


「だれもいないが、ふつう。ごはん、ひとり。ねる、ひとり。けがしても、ひとり」


 ユキは首を傾げた。


「だから、さびしい、しらなかった」


 その言葉で、俺は何となく分かった。寂しさは、最初から人に備わった感情じゃないのかもしれない。誰かと一緒にいる温かさを知って初めて、その反対側に気が付く。


「まもの、ユキをこわくしてると、おっちゃん、きた」


「うん」


「おおきい、おと、した」


「ライフルな。俺も驚いた」


 少しだけ笑った。


「おみず、くれた」


「うん」


「あったかい、すーぷ」


「コンソメスープ」


「ぱん」


「ロールパン」


「おにく」


 ユキは、焼き鳥を見る。


「これ」


「ああ」


「たれの、おにく」


 唇が少し震える。


「ユキ、びっくりした」


「尻尾が爆発したみたいになってたな」


「にく、えらくなってた」


「言ってた」


「おっちゃん、ふく、くれた。くつ、くれた。あし、いたいの、ぺたってした」


「絆創膏な」


「しゃわーで、しっぽ、ふわふわしてくれた」


「お湯も知らなかったんだよな」


「とりい、なまえ、くれた」


「それもあったな」


「ユキの、なまえ、くれた」


「……そうだな」


 ユキは胸へ手を置いた。


「ユキは、ユキになった」


 俺の視界が少し滲んだ。


「それからね」


「うん」


「おっちゃん、いっしょに、ねた」


「ああ」


「ユキ、おっちゃんに、にげるなって、いった」


 覚えている。


『おっちゃん、にげるな』


 あの時は、ただ森で一人だった子供が不安なのだと思っていた。


「そのときも、ユキ、さびしい、しらなかった」


「……うん」


「でも、おっちゃん、いなくなるの、いやだった」


「そうだったんだな」


「なんでいやか、わかんなかった」


 涙がまた落ちる。


「そのあと、みんなきた」


 リリアを見る。


「リリア」


「はい」


「ごはん、いっしょ」


 リリアの目も潤んだ。


「はい」


「ミーシャ」


「うん」


「おかし、つくった」


「また作ろうね」


「トト」


「うん」


「え、いっぱい」


 トトが頷く。


「ニナ」


「うん」


「どうぐ。ひばな」


「うん」


「アルノ」


「はい」


「もじ、おしえてくれる」


「これからも教えます」


「ロク」


「はいっす」


「ミミとクロメといっしょ――」


「自分、狼族っす」


 思わず、全員が少し笑った。ユキも泣きながら笑う。


「おおかみ」


「そうっす」


「リーファ」


「なあに、ユキちゃん」


「ユキのしっぽともり、みてくれる」


「任せて」


「マリベル」


「はい」


「いたいの、みてくれる」


「ええ」


「ガラン」


「うん」


「かえってきた」


「ああ」


「ドラン」


「うむ」


「……おさけ」


「なぜわしだけ酒なんじゃ!」


 また笑いが起きる。


「だって、いつも」


「否定できぬ!」


 ユキが今度はこびゃっこを見る。


「こびゃっこ」


「うむ」


「ずっと、いた」


 こびゃっこの細い目が少しだけ開く。


「夢でもな」


「ユキ、ゆめのびゃっこ、こびゃっこって、しらなかった」


「それでよい」


「いま、いる」


「うむ」


「みんな、いる」


 ユキが周囲を見る。


「おうち、ある」


「うん」


「おふろ、ある」


「あるな」


「といれ、ある」


「大事だな」


「どうろ、ある」


「ああ」


「はたけ、ある」


「ああ」


「とりい、ある」


「ある」


「まってる、あかり、ある」


 近衛宿の方角を見る。


「いっぱい、ある」


「そうだな」


 ユキはそこで言葉を探した。何度か口を開いて、閉じる。


「だから……」


「うん」


「いまね」


 俺の服を掴んだ。


「ひとり、こわい」


 誰も動かなかった。


「朝ね」


「うん」


「ときどき、おきるまえに、こわい」


「何が?」


「ぜんぶ、ゆめだったら、どうしようって」


 胸の奥を掴まれたような気がした。


「め、あけて」


 ユキは俺を見上げる。


「おっちゃん、いなかったら、どうしようって」


「……ユキ」


「おうち、なくて。みんな、いなくて。また、きのしただったら」


 涙が次々落ちる。


「いや」


 俺は、ユキを抱き上げた。


「いやだ」


「ああ」


「ユキ、ひとり、もう、いや」


「うん」


「まえは、へいきだった。でも、いまは、いや」


「それでいい」


「これが……」


 鼻をすすった。


「さびしい?」


 俺は答えるまで少し時間がかかった。


「たぶん、そうだ」


「さびしい、いや」


「ああ」


「でも」


 俺の肩へ顔を押しつける。


「さびしいって、わかるの、みんな、いるから?」


「……そうかもしれない」


 一人しか知らなければ、一人が普通だ。誰かの声を知ったから、静けさが寂しくなる。温かい飯を囲んだから、一人の食事が寂しくなる。帰る場所を知ったから、帰れないことが怖くなる。


「ユキ」


「うん」


「俺も、最初の日は明日のことなんて分からなかった」


「うん」


「逃げないって、一生分の保証まではできなかった」


「ほけん」


「覚えてたか」


「おっちゃんが、にげないほけん」


「あったな」


「ほけんりょう、ユキが、えらいっていう」


「あと肉もくれるんだろ」


「うん」


「ちょっと高い保険だな」


 ユキが少し笑う。俺も笑おうとしたが駄目だった。視界がぼやける。


「おっちゃん?」


「何でもない」


「ないてる」


「これは……」


 言い訳が出ない。


「四十歳はいろいろあるんだよ」


「おっちゃんも、さびしい?」


 胸が詰まる。


「そうだな」


 俺は異世界へ来た。帰れるかも分からない。日本には、日本の生活があった。けれど今は、この腕の中にユキがいる。


「俺も、一人になるのは嫌だよ」


「おなじ?」


「ああ」


「むれ、おなじ?」


「そうだな」


 ユキが両腕を俺の首へ回した。


「おっちゃん、ありがとう」


「……うん」


「なまえ、ありがとう」


「うん」


「おにく、ありがとう」


「そこは外さないんだな」


「くつも」


「うん」


「とりいも」


「うん」


「おうちも」


「みんなで作った」


「みんな、ありがとう」


 ユキが一人ずつを見る。


「リリア、ありがとう」


「こちらこそ」


「ミーシャ、ありがとう」


「うん!」


「トト、ありがとう」


「うん」


「ニナ、ありがとう」


「ユキも、ありがとう」


「アルノ、ありがとう」


「私こそ」


「ロク、ありがとう」


「こっちの台詞っす」


「リーファ、ありがとう」


「ありがとう、ユキちゃんも」


「マリベル、ありがとう」


「はい」


「ガラン、ありがとう」


「こちらこそだ」


「ドラン、ありがとう」


「うむ……」


 ドランが鼻をすすった。


「酒が目に染みたわい」


「ブランデーを目へ入れるな」


「例えじゃ!」


 ユキは最後にこびゃっこを見る。


「こびゃっこ、ありがとう」


「……うむ」


 こびゃっこは顔を横へ向けた。


「びゃっこは神使ゆえ、この程度では泣かぬ」


「泣いてる?」


「泣いておらぬ」


 前足で目元をこする。


「これは日本酒の湯気じゃ」


「冷酒だぞ」


「ヒカルは今だけ黙っておれ!」


 俺も目元を拭った。


     ◇


 しばらくして、ユキは俺の膝へ座ったまま、冷めかけた焼き鳥を食べ始めた。


「冷めたな。温め直すか?」


「このまま」


「いいのか?」


「うん」


 一口。ゆっくり噛む。


「うんみゃあ」


「よかった」


「さいしょのより、おいしい」


「そうか?」


「うん」


「タレは似たようなものだけどな」


 ユキは首を振る。


「ちがう」


「何が?」


「みんなと、たべてる」


 それだけだった。


「……そっか」


「だから、おうちの、やきとり」


「また名前が増えたな」


「おうちカレー。おうちやきとり」


「そのうち全部おうち料理になるぞ」


「いいよ」


 ユキは笑った。


「おうち、いっぱい、いい」


     ◇


 少し重くなった空気を、最初に破ったのはやっぱりドランだった。


「ところでヒカル」


「何だ?」


「この王と同じブランデー、もう一杯だけ……」


「まだ言うのか」


「明日は休みじゃぞ!」


 マリベルがグラスを見る。


「今まで飲んだ分は?」


「ビール三杯、日本酒グラスニ杯、ウイスキーをグラス二杯、ブランデーを小グラス一杯じゃ」


「もう十分でしょ。それで終わり」


「マリベル!」


「明日の朝、頭痛いって騒がないならウイスキーをもう少しだけ」


「王と同じ方は?」


「特別な日にしなさい」


 ドランが悩む。


「……では、今日は特別では?」


「近衛宿の主要設備完成祝い」


 ガランが言った。


「ユキが寂しいという言葉の意味を覚えた日でもある」


 こびゃっこも加える。


「びゃっこ的には、かなり特別じゃ」


 マリベルが俺を見る。


「ヒカルさん」


「俺に振るの?」


「持ち主でしょう?」


 少し考えた。


「じゃあ、大人全員へ本当に小グラス一杯ずつだけ」


「おお!」


「子供はジュース」


「ユキ、りんご!」


「ニナも」


「ミーシャ、オレンジ!」


「トト、りんご」


「びゃっこは――」


「酒飲んだだろ」


「ぐぬ」


「まあ、お前もブランデーを飲め」


 小さなグラスへ、ごく少量ずつブランデーを注いだ。


「じゃあ何に乾杯するっす?」


 ロクが聞く。俺はユキを見る。ユキは少し考えて、自分のりんごジュースを持ち上げた。


「みんな、いる」


 それで十分だった。


「じゃあ、それに」


 ガランがグラスを上げる。


「みんながここにいることに」


「乾杯」


「かんぱい!」


 グラスとコップが軽く触れた。こびゃっこの人形用杯だけ、高さが足りずに届かない。


「待て! びゃっこも!」


 慌ててこびゃっこが浮き上がる。俺は自分のグラスを下げる。


「はい」


「かんぱいじゃ!」


「乾杯」


     ◇


 夜。布団へ入ると、ユキはいつも以上に強く俺の右腕へ抱きついた。


「おっちゃん」


「何だ?」


「いる?」


「いるよ」


「ほんと?」


「腕を掴んでるだろ」


「うん」


 大きな尻尾まで俺の腹へ載せる。


「重い」


「ほけん」


「尻尾が保険になったのか」


「おっちゃん、いなくならない」


「トイレには行かせろよ」


「そのとき、おこす」


「寝てていい」


 しばらく静かになる。


「おっちゃん」


「今度は何だ?」


「朝も、いる?」


「ああ」


「明日、おやすみ?」


「休み」


「こうじ、ない?」


「ない」


「ひばなも?」


「ない」


「じゃあ」


 ユキが少しだけ顔を上げた。


「朝、おっちゃんいたら、また、ねる」


「二度寝する気か」


「おやすみだから」


「覚えるのが早いな」


 夜城からこびゃっこの声がする。


「休日の二度寝は文明人の権利じゃ」


「神使が文明人を名乗るな」


「昭和にも日曜はあった」


「知ってるよ」


「朝寝、朝酒、朝湯――」


「身上を潰すぞ」


「ドランが反応しそうじゃ」


 隣の住居棟からは聞こえないはずなのに、なんとなくドランがくしゃみをしている気がした。


 ユキがくすっと笑う。


「おっちゃん」


「ん?」


「さびしい、わかった」


「ああ」


「でも、いま、さびしくない」


「そっか」


「おっちゃん、いる」


「いる」


「みんなも、いる」


「ああ」


「だから、だいじょうぶ」


 目を閉じる。


「おやすみ、おっちゃん」


「おやすみ、ユキ」


 しばらくして、寝息が聞こえ始めた。


 最初に会った時。この子は一人だった。一人で木の実を拾い、一人で魚を捕り、一人で肉を焼き、一人で眠っていた。だから、一人が寂しいということさえ知らなかった。


 俺がタレ味の焼き鳥を渡し、名前を付けた。その程度のことだった。けれど、その日から少しずつ、一人ではなくなった。


 今では食卓に十人以上いる。家がある。畑がある。道がある。橋がある。

祠がある。職人を待つ宿がある。騎士を待つ灯りもある。


 そしてユキは、一人へ戻ることを怖いと言えるようになった。寂しさを知ることは、悪いことじゃない。寂しいと思えるくらい、大切なものが増えたということでもある。


 俺も同じだ。異世界へ来た初日より、失いたくないものが遥かに増えている。だから明日の朝も、ここにいよう。少なくとも、ユキが目を開けた時。


「おっちゃん、いる?」


 そう聞かれたら、


「いるよ」


 と答えられる場所に。右腕へ巻きつく小さな手と、腹へ載った重い尻尾を感じながら、俺も目を閉じた。


 明日は休みだ。工事も溶接もない。たまには朝寝坊しても、誰にも怒られないだろう。


 ――ただし。


「ふわぁ……明日は白狐亭道楽、休日特別大喜利を……」


「寝ろ」


「座布団係はヒカル君じゃ……」


「明日は座布団運びも休みだ」


「む……労働組合が強い……」


 夜城が静かになった。今日も平和な夜だ。


     ◇


【第84話・収支報告】


異世界生活68日目

日付:五の月27日

オリエント王国歴952年


開始残高:3,184,316pt


今回の購入:


・ビール、缶チューハイ、日本酒、赤・白ワイン

 95pt(約9,500円)


・ウイスキー、ブランデー

 110pt(約11,000円)


・焼き鳥用串、調味料、揚げ油、片栗粉、薬味等

 35pt(約3,500円)


・子供用りんごジュース、オレンジジュース、炭酸飲料

 20pt(約2,000円)


※王へ献上した物と同銘柄の特別なブランデーは既存在庫を開封したため、新規支出なし。


今回支出合計:260pt(約26,000円)


現在残高:


3,184,316pt − 260pt = 3,184,056pt


円換算目安:


3,184,056pt × 100円 = 約318,405,600円相当



続く

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