第84話 白狐神、寂しさの意味を知る
夕食の準備を始めた頃には、湖の向こうへ夕日が沈みかけていた。
今日の獲物は三羽。ガランが湖岸で仕留めた大きめの水鳥が2羽。リーファとロクが森から持ち帰った森鳥が1羽だ。狩猟スキルと鑑定で食用に問題がないことを確認し、血抜きと下処理を済ませる。
「ぜんぶ、やく?」
ユキが調理台の向こうから覗き込んでいる。
「全部は焼かない。今日は2種類だ」
「ふたつ?」
「唐揚げと焼き鳥」
ぴん。白い耳が立った。
「からあげ!」
「反応が早いな」
「かみのにく」
「鳥の種類が違っても神の肉なのか」
「からあげになれば、かみのにく」
「調理法で昇格するんだな」
水鳥は胸肉と腿肉を中心に切り分け、一部を唐揚げ用へ。森鳥は串焼きに向く部位を取る。リリアとミーシャが唐揚げ用の肉を、醤油、酒、ショウガ、少量のニンニクで漬け込む。
俺は焼き鳥用の肉を一口大へ切り、串へ刺していく。
「塩とタレ、両方作るぞ」
「タレ?」
ユキが言った。
「そう。醤油とみりんと砂糖を煮詰めたやつ」
「……たれ」
その声だけ、少し違った。俺はまだ気づかず、鍋へ調味料を入れた。醤油。みりん。砂糖。少量の酒。火へ掛け、ゆっくり煮詰める。甘辛い匂いが、キッチンタープへ広がった。
その瞬間だった。
「……おっちゃん」
「ん?」
ユキが動かなくなっている。白い耳をぴんと立て、鼻を小さく動かしていた。
「これ……」
「タレだよ」
「この、におい……」
俺もようやく思い出した。
「ああ」
箸を止める。
「初めて会った時以来だな」
「……うん」
森で出会った初日。まだ、この子がユキという名前を持っていなかった時。肉も魚も、自分で焼いて食べていた。塩も知らずタレも知らなかった。
俺がキャンプショップから買った焼き鳥を渡した。一口食べた途端、尻尾を膨らませて――。
『にくが、えらくなってる!』
そう叫んだ。
「覚えてるか?」
「おぼえてる」
ユキが小さく頷いた。
「おっちゃん、くれた」
「ああ」
「さいしょの、あじついた、にく」
「そうだったな」
ユキは鍋から立つ湯気を見ていた。そこへこびゃっこが鼻をひくつかせながら寄ってくる。
「これは良い匂いじゃ。焼き鳥は塩もよいが、甘辛いタレも捨て難――」
途中で止まった。ユキの顔を見たからだ。
「……ユキ?」
「だいじょうぶ」
そう答えた直後。ぽろっ。大きな黒い瞳から、涙が一粒落ちた。
「ユキ?」
俺はすぐしゃがんだ。
「どこか痛いのか?」
「いたくない」
「気持ち悪い?」
「ちがう」
「じゃあ……」
また一粒。ユキ本人も驚いたように、自分の頬へ触った。
「あれっ……なんで?」
濡れた指を見る。
「ユキ、ないてる?」
「ああ」
「かなしく、ないよ?」
「無理に決めなくていい」
「でも……」
ユキは困った顔をした。
「なんで、でる?」
俺にもすぐ答えは出なかった。だから、とりあえず抱き上げた。
「分からないなら、分からないままでいい」
「うん」
ユキは俺の首へ腕を回した。そのまましばらく、タレの煮える匂いを嗅いでいた。
◇
夕食は、少し遅くなった。
唐揚げ。塩焼き鳥。タレ焼き鳥。野菜の浅漬け。冷やしトマトはまだ畑の物ではなく購入品。それと、昨夜残したカレー。
「カレーへ唐揚げを載せてもいいぞ」
「!」
ユキが顔を上げる。
「からあげ、カレー?」
「ああ。唐揚げカレー」
「かみのにくと、おうちカレー……」
「合体させるな」
「つよい」
「何と戦う気だ」
子供たちは甘口。俺たちは中辛。そこへ揚げたての唐揚げを2、3個載せる。ユキは自分の皿を見て、しばらく真剣に考えていた。
「これ、すごい」
「味の感想は食べてから言え」
ひと口。
「うんみゃあ!」
いつもの声が戻り、少し安心する。
「からあげ、カレー、えらい!」
「結局全部えらいんだな」
「べつべつでも、えらい。いっしょでも、えらい」
「万能評価だな」
ニナも唐揚げをカレーへ乗せる。
「いっしょの皿で食べれる。弁当みたい、べんり」
「まあ、カレー弁当もあるにはあるが」
「弁当のべんは、べんりのべん?」
「字の意味としては違うけどな」
ニナはもう一口食べた。
「ちがうけど、おいしいから、べんり」
「新しい評価軸ができたな」
ミーシャは焼き鳥も食べ比べている。
「私、タレ好きかも」
「私は塩も好きです」
リリアが笑う。トトは塩を一口、タレを一口食べ、それからスケッチブックを取り出した。
「飯の途中で描くなよ」
「あとでだと、わすれる」
「じゃあ線だけな」
茶色い線の周りへ、黄色と赤の線が増える。
「これは?」
「におい」
「昨日のカレーに続いて今日も香りか」
「たれ、あまいにおい」
ユキがその絵をじっと見ていた。
◇
そして今日は、大人にも特別扱いだ。
「明日は休みにしようと思うんだが」
俺が言うと、ドランの顔が一気に明るくなった。
「本当か!」
「完全休業。鍛冶場も工事もなし」
「溶接練習も?」
「なし」
「おお……」
「工事も一区切りついたし、いいんじゃないか」
そう言ってガランが頷く。
「但し警備まで全休にはできない。朝夕の巡回だけは行う。ドランは工事をやってもらっているので休みにしてくれ」
「すまんが、頼む」
「ならば!」
ドランが立ち上がる。
「酒じゃ!」
「やっぱりそこか」
「明日は鍛冶も溶接もない! これを飲まずしていつ飲む!」
マリベルを見る。
「マリベル」
「今日はいいわよ」
「おお!」
「但し、潰れるまで飲んでいいとは言ってないわよ」
「一瞬の自由であった」
「十分自由だろ」
今日は少し種類を増やしてある。ビール。缶チューハイ。日本酒。赤ワインと白ワイン。ウイスキー。そして――。
「……ヒカル」
ドランの声が震えた。
「何だ」
「それは」
「ようやく開けようと思ってな」
収納から、一本の瓶を取り出す。王へ献上した物と同じブランデー。以前用意したうち、湖畔側で保管していた一本だ。王冠の形をしたボトルに、フランスの王様の名前が付いた高級酒。
「待っておった……」
ドランが両手を合わせた。
「酒へ祈るな」
「王が飲んだ物と同じなのじゃろ?」
「同じ銘柄だ」
「ついに……」
「顔が怖いぞ」
「わしはこの日のために王都まで行ったと言っても過言ではない」
ガランが即座に否定した。
「過言だ」
「外交より酒が目的だったの?」
マリベルも冷たい。
「違う! 職人も呼んだ!」
「順番が逆になってるぞ」
小さなグラスへ少量注ぐ。
「一気飲みするなよ。香りを見る酒だからな」
「心得ておる」
ドランがグラスを鼻へ近づける。さっきまでの騒がしさが消えた。
「……おお」
一口。目を閉じる。
「……なんという」
「どう?」
「口へ入れた時より、飲み込んだ後の方が香る……」
「まともな感想だな」
「王め……こんな物を先に飲んでおったのか……」
「王なんだからいいだろ」
「羨ましい」
「国家元首への感想がそれか」
ガランも少量飲む。
「確かに、これは王へ出しても問題ない酒だ」
「だろ」
「危険だな」
「何が?」
「ドランが覚えた」
全員がドランを見る。ドランは瓶を見つめていた。
「これは……特別な日にだけ出すべき酒じゃ」
「意外と冷静だな」
「毎日飲めば特別ではなくなる」
「そういう理由か」
「そして値段を聞けば酔いが醒めそうじゃ」
「それも正しい」
こびゃっこは日本酒の小さな杯を前にしている。
「びゃっこもブランデーを――」
「一杯だけな」
「千年神使ぞ!」
「手のひらサイズだ」
「魂の大きさで測るべきじゃ」
「肝臓の大きさで考えろ」
「神使に肝臓があるかは――」
「あるか分からないから、余計飲ませられない」
「ぐっ。論破されたのじゃ!」
◇
宴会みたいな夕食になった。ガランは赤ワイン。リーファは白ワイン。ロクはビール。アルノは薄めたワイン。リリアとマリベルは少量の白ワイン。
ドランは、ビールから始まり、日本酒、ウイスキー、最後にブランデーを少しずつ試している。
「混ぜるなよ」
「全部少量じゃ」
「明日頭痛いって言っても回復魔法は使わないからね」
マリベルが言う。
「二日酔いにも使えるじゃろ?」
「使えても使わない」
「なぜじゃ!」
「自業自得だから」
「医療の理念に情がない!」
「自制できる病気は自制しなさい」
「病気扱いされたぞい」
笑い声が上がる。たまには少しくらい賑やかな夜があってもいい。
◇
ユキは、タレ焼き鳥を一本持っていた。いつものように肉だけ先に食べるのではなく、今日は少しずつ口にしている。
「どうした?」
「これ」
「焼き鳥?」
「うん」
「さっきからずっと見てるな」
「おなじ、におい」
「最初の日と?」
「うん」
一口。また少し目が潤む。
「ユキ?」
「だいじょうぶ」
「無理に大丈夫って言わなくていい」
「……わかんない」
ユキは焼き鳥を皿へ置いた。そして、ぽつりと言った。
「まえね」
食卓が少し静かになる。
「ああ」
俺は急かさない。
「ユキ、ひとりだった」
「……ああ」
「ずっと?」
ミーシャが聞く。
「どれくらいか、わかんない」
ユキには日付も時計もなかった。
「きのしたで、ねて、おきてた」
少しずつ話す。
「いつもおなか、へってた」
「うん」
「きのみ、さがしたり、さかなと、みずのうえのとり、ときどき、ぱちっしてとった。おにく、たべたいから」
「自分で焼いてたんだよな」
「それもぱちって、火つける」
小さな指を立てる。
「かわのそばで、さかな、また、ぱちってすると、ぬるぬるきえた、とりは、はねをとって、また、ぱちっして、そのままやいた。ひは、おみずで、けす」
「無意識に浄化したのじゃな。おそらく血抜きや殺菌の効果があったはずじゃ」
こびゃっこが説明する。
ユキは続ける。
「でも、あじ、なかった」
「塩も知らなかったもんな」
「しお、しらない。たれ、しらない。くつ、しらない。とりいのなまえ、しらない」
ユキが自分の足を見る。
「じぶんのなまえも、なかった」
誰も口を挟まなかった。
「でもね」
俺を見る。
「ユキ、そのとき、かなしくなかった」
胸が少し詰まった。
「ひとり、ふつうだった、でも、もりの、いろんなにおい、こえ、ユキにはなしかけてきた」
「……そうか」
「だれもいないが、ふつう。ごはん、ひとり。ねる、ひとり。けがしても、ひとり」
ユキは首を傾げた。
「だから、さびしい、しらなかった」
その言葉で、俺は何となく分かった。寂しさは、最初から人に備わった感情じゃないのかもしれない。誰かと一緒にいる温かさを知って初めて、その反対側に気が付く。
「まもの、ユキをこわくしてると、おっちゃん、きた」
「うん」
「おおきい、おと、した」
「ライフルな。俺も驚いた」
少しだけ笑った。
「おみず、くれた」
「うん」
「あったかい、すーぷ」
「コンソメスープ」
「ぱん」
「ロールパン」
「おにく」
ユキは、焼き鳥を見る。
「これ」
「ああ」
「たれの、おにく」
唇が少し震える。
「ユキ、びっくりした」
「尻尾が爆発したみたいになってたな」
「にく、えらくなってた」
「言ってた」
「おっちゃん、ふく、くれた。くつ、くれた。あし、いたいの、ぺたってした」
「絆創膏な」
「しゃわーで、しっぽ、ふわふわしてくれた」
「お湯も知らなかったんだよな」
「とりい、なまえ、くれた」
「それもあったな」
「ユキの、なまえ、くれた」
「……そうだな」
ユキは胸へ手を置いた。
「ユキは、ユキになった」
俺の視界が少し滲んだ。
「それからね」
「うん」
「おっちゃん、いっしょに、ねた」
「ああ」
「ユキ、おっちゃんに、にげるなって、いった」
覚えている。
『おっちゃん、にげるな』
あの時は、ただ森で一人だった子供が不安なのだと思っていた。
「そのときも、ユキ、さびしい、しらなかった」
「……うん」
「でも、おっちゃん、いなくなるの、いやだった」
「そうだったんだな」
「なんでいやか、わかんなかった」
涙がまた落ちる。
「そのあと、みんなきた」
リリアを見る。
「リリア」
「はい」
「ごはん、いっしょ」
リリアの目も潤んだ。
「はい」
「ミーシャ」
「うん」
「おかし、つくった」
「また作ろうね」
「トト」
「うん」
「え、いっぱい」
トトが頷く。
「ニナ」
「うん」
「どうぐ。ひばな」
「うん」
「アルノ」
「はい」
「もじ、おしえてくれる」
「これからも教えます」
「ロク」
「はいっす」
「ミミとクロメといっしょ――」
「自分、狼族っす」
思わず、全員が少し笑った。ユキも泣きながら笑う。
「おおかみ」
「そうっす」
「リーファ」
「なあに、ユキちゃん」
「ユキのしっぽともり、みてくれる」
「任せて」
「マリベル」
「はい」
「いたいの、みてくれる」
「ええ」
「ガラン」
「うん」
「かえってきた」
「ああ」
「ドラン」
「うむ」
「……おさけ」
「なぜわしだけ酒なんじゃ!」
また笑いが起きる。
「だって、いつも」
「否定できぬ!」
ユキが今度はこびゃっこを見る。
「こびゃっこ」
「うむ」
「ずっと、いた」
こびゃっこの細い目が少しだけ開く。
「夢でもな」
「ユキ、ゆめのびゃっこ、こびゃっこって、しらなかった」
「それでよい」
「いま、いる」
「うむ」
「みんな、いる」
ユキが周囲を見る。
「おうち、ある」
「うん」
「おふろ、ある」
「あるな」
「といれ、ある」
「大事だな」
「どうろ、ある」
「ああ」
「はたけ、ある」
「ああ」
「とりい、ある」
「ある」
「まってる、あかり、ある」
近衛宿の方角を見る。
「いっぱい、ある」
「そうだな」
ユキはそこで言葉を探した。何度か口を開いて、閉じる。
「だから……」
「うん」
「いまね」
俺の服を掴んだ。
「ひとり、こわい」
誰も動かなかった。
「朝ね」
「うん」
「ときどき、おきるまえに、こわい」
「何が?」
「ぜんぶ、ゆめだったら、どうしようって」
胸の奥を掴まれたような気がした。
「め、あけて」
ユキは俺を見上げる。
「おっちゃん、いなかったら、どうしようって」
「……ユキ」
「おうち、なくて。みんな、いなくて。また、きのしただったら」
涙が次々落ちる。
「いや」
俺は、ユキを抱き上げた。
「いやだ」
「ああ」
「ユキ、ひとり、もう、いや」
「うん」
「まえは、へいきだった。でも、いまは、いや」
「それでいい」
「これが……」
鼻をすすった。
「さびしい?」
俺は答えるまで少し時間がかかった。
「たぶん、そうだ」
「さびしい、いや」
「ああ」
「でも」
俺の肩へ顔を押しつける。
「さびしいって、わかるの、みんな、いるから?」
「……そうかもしれない」
一人しか知らなければ、一人が普通だ。誰かの声を知ったから、静けさが寂しくなる。温かい飯を囲んだから、一人の食事が寂しくなる。帰る場所を知ったから、帰れないことが怖くなる。
「ユキ」
「うん」
「俺も、最初の日は明日のことなんて分からなかった」
「うん」
「逃げないって、一生分の保証まではできなかった」
「ほけん」
「覚えてたか」
「おっちゃんが、にげないほけん」
「あったな」
「ほけんりょう、ユキが、えらいっていう」
「あと肉もくれるんだろ」
「うん」
「ちょっと高い保険だな」
ユキが少し笑う。俺も笑おうとしたが駄目だった。視界がぼやける。
「おっちゃん?」
「何でもない」
「ないてる」
「これは……」
言い訳が出ない。
「四十歳はいろいろあるんだよ」
「おっちゃんも、さびしい?」
胸が詰まる。
「そうだな」
俺は異世界へ来た。帰れるかも分からない。日本には、日本の生活があった。けれど今は、この腕の中にユキがいる。
「俺も、一人になるのは嫌だよ」
「おなじ?」
「ああ」
「むれ、おなじ?」
「そうだな」
ユキが両腕を俺の首へ回した。
「おっちゃん、ありがとう」
「……うん」
「なまえ、ありがとう」
「うん」
「おにく、ありがとう」
「そこは外さないんだな」
「くつも」
「うん」
「とりいも」
「うん」
「おうちも」
「みんなで作った」
「みんな、ありがとう」
ユキが一人ずつを見る。
「リリア、ありがとう」
「こちらこそ」
「ミーシャ、ありがとう」
「うん!」
「トト、ありがとう」
「うん」
「ニナ、ありがとう」
「ユキも、ありがとう」
「アルノ、ありがとう」
「私こそ」
「ロク、ありがとう」
「こっちの台詞っす」
「リーファ、ありがとう」
「ありがとう、ユキちゃんも」
「マリベル、ありがとう」
「はい」
「ガラン、ありがとう」
「こちらこそだ」
「ドラン、ありがとう」
「うむ……」
ドランが鼻をすすった。
「酒が目に染みたわい」
「ブランデーを目へ入れるな」
「例えじゃ!」
ユキは最後にこびゃっこを見る。
「こびゃっこ、ありがとう」
「……うむ」
こびゃっこは顔を横へ向けた。
「びゃっこは神使ゆえ、この程度では泣かぬ」
「泣いてる?」
「泣いておらぬ」
前足で目元をこする。
「これは日本酒の湯気じゃ」
「冷酒だぞ」
「ヒカルは今だけ黙っておれ!」
俺も目元を拭った。
◇
しばらくして、ユキは俺の膝へ座ったまま、冷めかけた焼き鳥を食べ始めた。
「冷めたな。温め直すか?」
「このまま」
「いいのか?」
「うん」
一口。ゆっくり噛む。
「うんみゃあ」
「よかった」
「さいしょのより、おいしい」
「そうか?」
「うん」
「タレは似たようなものだけどな」
ユキは首を振る。
「ちがう」
「何が?」
「みんなと、たべてる」
それだけだった。
「……そっか」
「だから、おうちの、やきとり」
「また名前が増えたな」
「おうちカレー。おうちやきとり」
「そのうち全部おうち料理になるぞ」
「いいよ」
ユキは笑った。
「おうち、いっぱい、いい」
◇
少し重くなった空気を、最初に破ったのはやっぱりドランだった。
「ところでヒカル」
「何だ?」
「この王と同じブランデー、もう一杯だけ……」
「まだ言うのか」
「明日は休みじゃぞ!」
マリベルがグラスを見る。
「今まで飲んだ分は?」
「ビール三杯、日本酒グラスニ杯、ウイスキーをグラス二杯、ブランデーを小グラス一杯じゃ」
「もう十分でしょ。それで終わり」
「マリベル!」
「明日の朝、頭痛いって騒がないならウイスキーをもう少しだけ」
「王と同じ方は?」
「特別な日にしなさい」
ドランが悩む。
「……では、今日は特別では?」
「近衛宿の主要設備完成祝い」
ガランが言った。
「ユキが寂しいという言葉の意味を覚えた日でもある」
こびゃっこも加える。
「びゃっこ的には、かなり特別じゃ」
マリベルが俺を見る。
「ヒカルさん」
「俺に振るの?」
「持ち主でしょう?」
少し考えた。
「じゃあ、大人全員へ本当に小グラス一杯ずつだけ」
「おお!」
「子供はジュース」
「ユキ、りんご!」
「ニナも」
「ミーシャ、オレンジ!」
「トト、りんご」
「びゃっこは――」
「酒飲んだだろ」
「ぐぬ」
「まあ、お前もブランデーを飲め」
小さなグラスへ、ごく少量ずつブランデーを注いだ。
「じゃあ何に乾杯するっす?」
ロクが聞く。俺はユキを見る。ユキは少し考えて、自分のりんごジュースを持ち上げた。
「みんな、いる」
それで十分だった。
「じゃあ、それに」
ガランがグラスを上げる。
「みんながここにいることに」
「乾杯」
「かんぱい!」
グラスとコップが軽く触れた。こびゃっこの人形用杯だけ、高さが足りずに届かない。
「待て! びゃっこも!」
慌ててこびゃっこが浮き上がる。俺は自分のグラスを下げる。
「はい」
「かんぱいじゃ!」
「乾杯」
◇
夜。布団へ入ると、ユキはいつも以上に強く俺の右腕へ抱きついた。
「おっちゃん」
「何だ?」
「いる?」
「いるよ」
「ほんと?」
「腕を掴んでるだろ」
「うん」
大きな尻尾まで俺の腹へ載せる。
「重い」
「ほけん」
「尻尾が保険になったのか」
「おっちゃん、いなくならない」
「トイレには行かせろよ」
「そのとき、おこす」
「寝てていい」
しばらく静かになる。
「おっちゃん」
「今度は何だ?」
「朝も、いる?」
「ああ」
「明日、おやすみ?」
「休み」
「こうじ、ない?」
「ない」
「ひばなも?」
「ない」
「じゃあ」
ユキが少しだけ顔を上げた。
「朝、おっちゃんいたら、また、ねる」
「二度寝する気か」
「おやすみだから」
「覚えるのが早いな」
夜城からこびゃっこの声がする。
「休日の二度寝は文明人の権利じゃ」
「神使が文明人を名乗るな」
「昭和にも日曜はあった」
「知ってるよ」
「朝寝、朝酒、朝湯――」
「身上を潰すぞ」
「ドランが反応しそうじゃ」
隣の住居棟からは聞こえないはずなのに、なんとなくドランがくしゃみをしている気がした。
ユキがくすっと笑う。
「おっちゃん」
「ん?」
「さびしい、わかった」
「ああ」
「でも、いま、さびしくない」
「そっか」
「おっちゃん、いる」
「いる」
「みんなも、いる」
「ああ」
「だから、だいじょうぶ」
目を閉じる。
「おやすみ、おっちゃん」
「おやすみ、ユキ」
しばらくして、寝息が聞こえ始めた。
最初に会った時。この子は一人だった。一人で木の実を拾い、一人で魚を捕り、一人で肉を焼き、一人で眠っていた。だから、一人が寂しいということさえ知らなかった。
俺がタレ味の焼き鳥を渡し、名前を付けた。その程度のことだった。けれど、その日から少しずつ、一人ではなくなった。
今では食卓に十人以上いる。家がある。畑がある。道がある。橋がある。
祠がある。職人を待つ宿がある。騎士を待つ灯りもある。
そしてユキは、一人へ戻ることを怖いと言えるようになった。寂しさを知ることは、悪いことじゃない。寂しいと思えるくらい、大切なものが増えたということでもある。
俺も同じだ。異世界へ来た初日より、失いたくないものが遥かに増えている。だから明日の朝も、ここにいよう。少なくとも、ユキが目を開けた時。
「おっちゃん、いる?」
そう聞かれたら、
「いるよ」
と答えられる場所に。右腕へ巻きつく小さな手と、腹へ載った重い尻尾を感じながら、俺も目を閉じた。
明日は休みだ。工事も溶接もない。たまには朝寝坊しても、誰にも怒られないだろう。
――ただし。
「ふわぁ……明日は白狐亭道楽、休日特別大喜利を……」
「寝ろ」
「座布団係はヒカル君じゃ……」
「明日は座布団運びも休みだ」
「む……労働組合が強い……」
夜城が静かになった。今日も平和な夜だ。
◇
【第84話・収支報告】
異世界生活68日目
日付:五の月27日
オリエント王国歴952年
開始残高:3,184,316pt
今回の購入:
・ビール、缶チューハイ、日本酒、赤・白ワイン
95pt(約9,500円)
・ウイスキー、ブランデー
110pt(約11,000円)
・焼き鳥用串、調味料、揚げ油、片栗粉、薬味等
35pt(約3,500円)
・子供用りんごジュース、オレンジジュース、炭酸飲料
20pt(約2,000円)
※王へ献上した物と同銘柄の特別なブランデーは既存在庫を開封したため、新規支出なし。
今回支出合計:260pt(約26,000円)
現在残高:
3,184,316pt − 260pt = 3,184,056pt
円換算目安:
3,184,056pt × 100円 = 約318,405,600円相当
続く




