第82話 白狐神と千年ぶりのカレー
翌朝。目を覚ますと、籐カゴの夜城から、妙な気配を感じた。
右腕には、いつものようにユキが抱きついている。大きな白い尻尾も、俺の腹から左脚へ斜めに載っていた。
そこまでは普段どおり。
問題は、こびゃっこだ。
夜城の中では、白い毛玉が布団を胸まで掛け、目を閉じたまま前足で何かを握っている。
「……何を持ってる」
「寝ておる」
「寝ている奴は返事をしない」
「神使は寝ながら周囲を警戒できる」
「紙を見せろ」
「むう」
受け取って広げる。
大陸共通語――カタカナを基本とし、接続詞と助詞をひらがなで書いた文章が並んでいた。
【カレー ヨウボウショ】
一、カジバ カンセイ イワイとして、カレーライスをキボウする。
二、ニナの ハツヒバナ イワイとして、ニクをオオメにする。
三、コドモヨウはアマク、オトナヨウはスコシカラクする。
四、ビャッコヨウは、リョウとカラサをトクベツシヨウにする。
五、オカワリはサンバイまでをキホンとする。
「四と五は却下」
「なぜじゃ!」
「手のひらサイズの神使に、大盛り三杯を基本設定する家庭はない」
「千年ぶりなのじゃぞ!」
「千年ぶりを便利な言葉にするな」
「カレー……」
右腕から声がした。
「ユキも起きたか?」
「まだ」
「喋ってるぞ」
「カレー、にく?」
「牛肉を入れる」
ぱちり。ユキの目が開いた。
「きょう?」
「ああ。夕食だ」
「おきる」
肉料理の目覚まし効果は、監督業務と同等らしい。
「ただし、その前に仕事だぞ。午前中は昨日どおり溶接の練習。午後は近衛騎士団用の宿泊棟を置く」
「おうち、でる?」
「ああ」
「ユキ、かんとく」
「頼む」
こびゃっこも前足を上げる。
「そして工事終了後、千年ぶりの感動的大団円――」
「カレーは最終回じゃない」
「料理番組の撮影は?」
「使用記録を書いて、厨房の外から三脚固定なら許可する」
「ズバリタイトルは『こびゃっこ3分カレークッキング』じゃ!」
「どっかの番組にタイトルを寄せるな。レトルトじゃないんだぞ。3分じゃできない」
「む。それでは『こびゃっこの食いしん坊3杯』はどうじゃ」
「タイトルでおかわりをするな」
◇
朝食後。リリアとミーシャは洗濯と食堂仕事、トトとアルノは畑へ。ロク、リーファ、ガランは巡回へ出た。
マリベルは診療所だ。
鍛冶場へ来たのは、昨日と同じ俺、ドラン、ニナ、ユキ、こびゃっこの五人。まずニナの体調を確認する。
「目は?」
「大丈夫」
「手と肩は?」
「少し重い。でも、痛くない」
昨日は初めてアークを飛ばし、午後には実際に使う道具掛けの仮付けもした。
今日は無理をさせない。
「最初は無通電。問題がなければ短い仮付けだけだ」
「うん」
「ドランもだぞ」
「わしは元気じゃ」
「昨日初めてアークとガスを触った初心者が何を言ってる」
「鍛冶歴なら長い」
「アーク歴は一日」
「……それを言われると弱いのう」
ニナが淡々と付け加えた。
「ドラン、昨日、棒くっついた」
「言わんでよい!」
「事実」
「ニナもくっつけたじゃろ」
「うん。だから、おなじ」
ユキが頷く。
「むれの、ようせつ一年生」
「白狐神まで!」
「いいじゃないか。初心者なのは事実だ」
まずディーゼル発電機、ケーブル、アーク溶接機を点検する。送風機を回し、風向きを確認。
入口には昨日作った鉄製表示立てを置き、こびゃっこ筆耕の白いアクリル板を吊るす。
【ヨウセツチュウ タチイリ キンシ】
「今日も美しい字じゃ」
こびゃっこが胸を張る。
「これぞ自画自賛ならぬ、字が自賛だな」
「口頭で伝わらないと思って、お主失礼な事を言っておらぬか?」
◇
午前中の練習は一時間ほどに絞った。
最初はドラン。昨日よりアークの発生は安定したが、どうしても鍛冶の癖で腕を動かしすぎる。
「速い。もっとゆっくり」
「鉄が溶けるのを見ると、先へ進みたくなる」
「そこを我慢する」
「槌なら手数が仕事になるが、こちらは違うか」
「熱を入れすぎても駄目だし、足りなくても駄目だ」
「面白いのう」
二本目の試験片では、かなりまともな短いビードになった。冷えてからドラン自身に叩かせる。
「外れぬ」
「昨日よりいい」
「明日は、もっと長く――」
「明日は工事優先だ」
「分かっておる」
「朝に少しずつだ」
次にガス器具。今日は点火と炎の調整、薄い鉄棒の加熱まで。切断は俺が行い、ドランには横で確認させた。
「燃料ガスを先に大量に出すな。点火後に酸素を加えて調整する」
「逆火したら?」
「すぐ止める。無理に続けない」
「ニナには、まだ触らせぬのじゃな」
「ああ」
ニナが横で聞いている。
「いつ?」
「アークの基本が先だ」
「何日?」
「日数で決めない」
「むう」
「焦らない」
「…あせらない」
「それでいい」
◇
ニナは、防炎作業服と革装備、自分の名前を書いた遮光面を着ける。
【ニナ】その下には、小さな白と黄色の火花のイラスト。
「肩は?」
「大丈夫」
「怖い?」
「昨日よりは、少しだけ」
「怖くなくなった、じゃなくて?」
「少しだけ怖い」
「それでいい」
無通電で姿勢を確認。足場。ケーブル。ホルダー。棒先の距離。昨日より、肩へ入る力が明らかに少ない。
「よくなった」
ドランが横から見る。
「肘も下がっておる」
「火花、やる?」
「一度休憩してから」
「うん」
水を飲ませ、十分ほど休む。その後、厚めの試験片を固定した。
「今日は二、三回だけだ。長いビードはまだやらない」
「うん」
一回目。バチッ。二秒ほどのアークを維持し、停止。
二回目。少し棒が近づきすぎたが、自分で距離を戻した。
三回目。短いながら、昨日より安定している。
「今日はくっつかなかった」
「そこを目的にするなよ」
「でも、うれしい」
「それはいい」
ニナが遮光面を上げる。
「もう一回?」
「終わり」
「まだできる」
「そこで止める」
ニナは少しだけ口を尖らせ、それでもホルダーを所定位置へ戻した。
「止めるのも仕事」
「ああ」
今日の練習結果は、夕方に作業日誌へまとめればいい。
「さて、片付けるぞ」
「もう?」
「午後は本工事だ」
「きしのおうち」
ユキが言う。
「ああ。今日はそっちが本番だ」
◇
昼食は、鶏肉と野菜のサンドイッチ、豆のスープ、果物だった。食事が始まると、畑組のアルノ、ミーシャ、トトが揃って報告を始めた。
「まずトマトです」
アルノが記録帳を開く。
「昨日より色付きが進んでいます。一番早い実は、薄い橙色から赤へ変わり始めています」
「あと何日かだな」
「トト、さわった」
「硬さは?」
「まだ、かたい。でも、前よりやわらかい」
トトがスケッチブックを出す。緑、薄橙、赤みの増した実が三段階で描いてあった。
「分かりやすいな」
「毎日、いろ、かく」
「そのまま続けてくれ」
ミーシャも報告する。
「ナスは三本、大きくなってる。もうちょっとで食べられそう。キャベツも真ん中が昨日より固くなったよ」
「虫は?」
「ネットの中には入ってない。葉っぱを二枚、少しかじられてたけど、外側だけ」
「とうもろこしは?」
ユキがすぐ聞く。
「まだ」
「スイカ?」
「まだ」
「じゃがいも?」
「まだ掘らない」
俺が答える。
「むう」
「今日の夕食なら心配するな。ジャガイモは買う」
ユキの耳が立つ。
「カレー」
「忘れてない」
こびゃっこが小さなパンを持ちながら尋ねる。
「トマトを一つ、カレーへ――」
「まだ収穫しない」
「カレーへ入れれば火が通るぞ」
「そういう問題じゃない」
「豊穣神使として生育確認を――」
「青いトマトを食いたいだけだろ」
「味覚による品質検査じゃ」
トトが言った。
「こびゃっこ、まだ」
「畑担当からも却下された!」
◇
昼休憩を取った後、職人区画の北側へ向かう。今日から、近衛騎士団用施設の工事を始める。とは言っても、以前作った職人用宿泊棟と同型を基本とした、二階建てプレハブ宿泊棟を設置するだけだ。
事前の配置図どおり、職人宿との間には十分な空間を残す。
「まず位置確認」
ニナがコンベックスを出す。
「建物だけ置いて終わりじゃない。避難通路、風呂、トイレ、将来の増設場所まで残すぞ」
「東が入口」
「そうだ」
ガランも巡回を終えて合流した。
「森側の通路は?」
「最低二メートル確保。北側も塞がない」
「警備上、それでいい」
ドランが聞く。
「今日は宿泊棟を全部完成させるのか?」
「置くところまで。固定と周辺調整を少しやって、早めに切り上げる」
「なぜじゃ?」
「夕食の準備を皆んなでしようと思ってな」
ユキが即答した。
「カレー」
「白狐神の工期判断が食欲で決まっておる」
「今日は予定に入れてるんだよ。暗くなるまで仕事してから大鍋料理なんてやらない」
「段取りじゃな」
「そういうことだ」
◇
地面の高さと支持位置のコンクリートブロックを再確認する。職人用宿泊棟を置いた時と同じ手順だ。俺はスキルショップから、騎士団用として選定していた二階建てプレハブ宿泊棟を購入した。
購入した大型設備は、いきなり異空間収納から現物を放り出すわけではない。配置対象を選び、配置展開へ切り替える。
視界の中に、建物と同じ大きさの半透明な輪郭が現れた。
位置。向き。出入口。周囲との離隔。地面との高さ。少しずつ調整する。
「おっちゃん、おうち、すけすけ」
ユキが俺の横で見上げた。
「まだ仮置きだからな」
こびゃっこも浮かぶ。
「もう半間ほど北でもよいのではないか?」
「俺もそう思ってる」
ニナたちには、現地へ打った杭と水糸を基準に確認してもらう。
「ニナ。入口角は?」
「杭から、二十センチ内」
「もう少し北だな」
輪郭をずらす。
「今は?」
「合ってる」
「ガラン」
「南側通路も十分だ。入口から職人宿が近すぎることもない」
「よし」
最後にコンクリートブロックの水平と接地位置を確認する。
「展開するぞ。全員、建物範囲から離れてるな?」
「離れた」
「ユキも、ここ」
「びゃっこは空中――」
「こびゃっこも下がれ」
「はい」
安全を確認して、配置を確定する。半透明だった輪郭へ光が走った。次の瞬間、二階建てのプレハブ宿泊棟が、指定した位置へ静かに実体化した。
「出た」
ユキの耳がぴんと立つ。
「前と同じじゃが、何度見ても妙な建築じゃのう」
ドランが見上げる。
「普通なら何人もの職人と巻き上げ起重が要るぞ」
「クレーンの事か?でも、置いた後の確認は人間がやる」
俺はすぐ建物へ近づかない。まず外周。接地。傾き。扉や窓の開閉。外階段。手すり。床。壁。一つずつ確認する。配置展開は便利だが、それで検査まで終わるわけじゃない。
「北東、問題なし」
ニナが水準器を見る。
「南もいい」
「外階段、ぐらつきなしじゃ」
ドランが確認する。ガランは入口から周囲を見回した。
「警備動線も予定どおりだ。これなら北側へ抜けられる」
「今日はここまで進めば十分だな」
「電気は?」
ニナが尋ねる。
「まだ。風呂とトイレの給排水も明日だ。先に建物の固定と周囲の地面を確認する」
「おふろは?」
ユキが聞く。
「それもこれから」
「トイレ?」
「これから」
「きし、まだ、すめない」
「だから来る前に作るんだ」
◇
アンカーと外周を確認し、入口へ仮設通路を作る。今日は大掛かりな配線も配管もしない。
午後三時前。俺は工具を片付けた。
「終わり?」
ニナが聞く。
「ああ」
「まだできる」
「できる。でも、今日は終わる」
ドランが空を見る。
「まだ日は高いぞ」
「明日もある。それに、今日は夕食を早めに仕込む」
「カレーじゃ!」
こびゃっこが一番大きな声を出した。
「工事より反応が早いな」
「千年ぶりぞ!」
ユキも両手を上げる。
「カレー!」
ニナは新しい宿泊棟を一度振り返った。
「明日、続き?」
「ああ。朝に短く溶接練習。その後、ここへ戻る」
「分かった」
今日の工事は、宿泊棟を置いたところまで。焦って水道も電気も一日で終わらせる必要はない。そして、たまには夕方を仕事以外へ使ってもいい。
◇
午後三時過ぎ。キッチンタープへ戻り、カレー作りを始める。大鍋は二つ。甘口と中辛。牛肉、玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ。
甘口には少量のリンゴペースト。大人用は、辛味を後から調整できるよう追加香辛料を別にする。
「まず、手洗い」
ユキ、ミーシャ、トト、ニナ、こびゃっこが並ぶ。
「びゃっこは浄化できるぞ」
「料理を手伝うなら同じ手順」
「むれ、おなじ」
「神使の特権が、また消えた」
こびゃっこは浄化まで使ったうえ、流水でも前足を洗った。
「二重清潔じゃ」
「次。撮影するなら記録」
「待っておった!」
三脚は厨房の外。通路を塞がない。湯気や油の近くへ動かさない。
「勝手に空撮するなよ」
「今日は地上撮影へ徹するのじゃ」
「信用回復中だからな」
「心得ておる」
◇
ミーシャとリリアが大量の玉ねぎを切る。三個ほどで、ミーシャの猫耳が横へ倒れた。
「目、いたい」
「交代」
「まだできる」
「見えにくい状態で包丁を持たない」
ニナが言う。
「止めるのも、仕事」
「そのとおり」
「料理も?」
「料理もだ」
ミーシャは素直にリリアへ包丁を渡した。
「ニナに言われると、反論しにくい」
「今日、ニナも止められた」
「じゃあ私も休む」
トトはニンジンを洗う。
「星、つくる?」
ユキの耳が動いた。
「ほしい」
「じゃあ子供組は一個ずつ」
「びゃっこも!」
「お前は千歳以上だろ」
「星に年齢制限はない!」
「一個だけな」
「二個」
「一個」
「千年ぶり――」
「一個」
「交渉が硬いのじゃ!」
◇
牛肉を焼く。ジュウッという音と香ばしい匂いが立った瞬間、ユキの尻尾が動いた。
「おにく」
「まだだぞ」
「見てるだけ」
こびゃっこも三脚の横で鼻を鳴らす。
「すでに勝利の香りじゃ」
「まだ肉を焼いただけだ」
「肉が焼ける香りに敗北はないのじゃ」
「また妙な格言を作ったな」
肉を一度取り出し、玉ねぎを炒める。透明になり、甘い香りが出たところで肉を戻し、ニンジンとジャガイモを入れる。
水を加えて煮込む。野菜へ火が通ったところで、一度火を止めた。
「なんで止めるの?」
ニナが聞く。
「ルーを溶かしやすくするためだ。沸騰させたままだと、固まったり底へ沈んで焦げたりする」
「止めてから、入れる」
「ああ」
カレールーを割って鍋へ入れる。
「茶色い板」
ミーシャが覗き込む。
「これが?」
「見てろ」
木べらで溶かす。汁の色が濃くなり、とろみが付いていく。
再び弱火。底からゆっくり混ぜる。
すると――。香りが一気に変わった。
「……!」
こびゃっこが固まった。
「どうした?」
答えない。目を閉じ、鼻を高く上げている。
「こびゃっこ?」
ユキが呼ぶ。
「……これじゃ」
「なに?」
「この香りじゃ」
声から、いつもの大げささが消えていた。
「炒めた玉ねぎ。肉。米。それに香辛料……」
ゆっくり目を開く。
「千年近く経っても、忘れておらぬ」
◇
夕食。白飯の横へカレーを掛ける。子供用は甘口。大人は中辛。ユキたちの皿には、一つずつ星形ニンジン。
「いただきます!」
ユキが真っ先にスプーンを取る。白飯とカレーを一緒にすくい、少し冷まして口へ。
動きが止まった。次の瞬間、白い耳がぴんと立つ。
「……うんみゃあ!」
「どうだ?」
「におい、いっぱい! おにく! あまい! ちょっと、からい!」
「甘口だからな」
「カレー、えらい!」
「肉以外で最高級評価が出たな」
「おにく、はいってる」
「結局それか」
ミーシャも食べる。
「ほんとにビーフシチューと全然違う!」
「見た目だけなら似てるだろ」
「口へ入れたら香りがいっぱい出る。ご飯にも合う!」
ニナも静かに食べている。
「どうだ?」
「おいしい」
「辛くない?」
「大丈夫」
星形ニンジンをスプーンへ載せる。
「昨日の火花みたい」
「色は違うけどな」
「昨日、初めての火花。今日、初めてのカレー」
「初めてが続いたな」
「どっちも熱い」
「片方は食べていいが、片方は絶対食うな」
「分かってる」
ドランが中辛を頬張った。
「おおっ! これは美味い!」
「どうだ?」
「香りの後から辛さが来て、また肉の味へ戻る。飯が止まらぬ!」
「酒は一本までな」
「まだ何も言っておらぬ」
「顔がビールを探してる」
「これはビールに合うぞ」
そこへマリベルが冷たく言う。
「ドラン。午後まで仕事してたんでしょ。明日も鍛冶場へ入るなら一本で終わり」
「わしはまだ一本目も――」
「だから先に言ってるの」
「ニナと同じことを言うのう」
「言われるようなことを毎回するからよ」
「ぐぬ」
ドランが小さくなる。ガランは二口目から明らかに食べる速度が上がった。
「これは王都でも売れるな」
「いきなり商売か」
「パンにも合うだろう」
「確かに合うだろうな」
「セイラム王へ――」
「王をカレーで呼ぶな」
ロクは耳を立てる。
「巡回の後にいいっすね。体が温まるっす」
リーファも頷く。
「香草とは違うけれど、香りを重ねる料理という考え方は面白いわ」
アルノは慎重に味わっていた。
「これほど複数の香りが一つになる料理は珍しいですね」
マリベルは甘口を食べる。
「思ったより刺激は強くない。子供なら、こっちで十分ね」
そして、こびゃっこ。小さなスプーンを握ったまま、最初の一口から動かなかった。
「こびゃっこ?」
「……味も、これじゃ」
「日本の味か?」
「うむ」
二口目。
「原宿の撮影所の近くに、小さな洋食屋があっての。撮影が長引いた日は、皆で行った」
「モデルをしてた頃か」
「カレー、オムライス、ナポリタン、クリームソーダ……」
「何を頼んだ?」
「大盛りカレー」
「聞くまでもなかったな」
「笠間で巫女をしていた頃にも食べた。祭礼の後、近くの食堂で大鍋を作っておっての。巫女も氏子も手伝いの者も、皆で同じ物を食べた」
「何杯?」
「祭礼の片付けが少し遅れたので、駆けつけ三杯じゃ」
「昭和の飲み会か」
「働いた後は腹が減るのじゃ」
小さく笑ってから、こびゃっこは皿を見る。
「宗一郎と、先代しらゆきには、この味を食べさせられなかった」
「宗一郎さんは、カレーを知らなかったんだよな」
「うむ。日本を離れた時期が早すぎた」
「再現は?」
「やってみた」
「できたのか?」
「辛い薬草煮込みになった」
「駄目だったんだな」
「先代しらゆきは『体が温かくなりますね』と言って食べてくれた」
「優しいな」
「宗一郎は、水を三杯飲んだ」
「完全に失敗じゃないか」
「香辛料を少々間違えただけじゃ」
「少々で水三杯にはならない」
ユキが、こびゃっこの頭を撫でる。
「でも、いま、カレー」
「うむ」
「にほんの?」
「味は日本じゃな」
「ここ、おうち」
「ああ」
「じゃあ、おうちカレー」
こびゃっこが黙った。
「おうちカレー……」
「みんな、いる」
「そうじゃな」
「しらゆきと、そういちろう、いない。でも、こびゃっこ、おぼえてる」
「覚えておる」
「カレーも、おぼえてた」
「……うむ」
「いま、みんなとたべた。なら、いっしょ」
こびゃっこは、しばらくユキを見ていた。
「そうかもしれぬな」
そして再びスプーンを握る。
「では、二杯目を――」
「余韻が短い」
「思い出は腹を減らすのじゃ」
「ゆっくり食え。あと五分待て」
「千年待ったのに、さらに五分かえ!」
「いや表現がおかしいから」
◇
食後、トトはスケッチブックへカレーを描いた。白い飯。茶色いカレー。牛肉。星形ニンジン。その上へ、赤、黄色、緑、青の線。
「これは?」
「におい」
「香りか」
「いっぱいあった」
隣のページには、昨日描いたニナの白青い火花がある。
「初めて、ふたつ」
トトが言う。ニナが二枚を見る。
「火花と、カレー」
「両方、記録だな」
ミーシャが尋ねる。
「料理も記録する?」
「ああ。これから人が増える。料理名、材料、量、評判くらいは残そう」
「ミーシャ、やる」
「リリアと一緒にな」
こびゃっこが前足を上げる。
「感想欄へ『センネンブリ・ゴハイキボウ』と――」
「却下」
「歴史的証言じゃぞ!」
「食べすぎ願望に歴史的価値はない」
◇
残ったカレーは浅い保存容器へ小分けし、粗熱を取って冷蔵庫へ。
「明日も?」
ユキが聞く。
「昼にな」
「朝カレー」
「希望者は少量な」
「びゃっこも朝カレー!」
「今何杯だ?」
「小皿四杯」
「いつの間に」
「全て正式なおかわりじゃ」
ミーシャが笑う。
「全部合わせても、大人の一皿くらいだよ」
「なら、まあいいが」
「びゃっこは自制した!」
「小皿の枚数で誇るな」
◇
夕食後。工事事務所で作業日誌をまとめる。
午前。ドラン、アークとガス機器の基礎練習。ニナ、短時間のアーク練習。前日より安定。体調異常なし。
昼。畑のトマトが色付き始め、ナスとキャベツも順調との報告。
午後。近衛騎士団用二階建てプレハブ宿泊棟を配置展開。位置、向き、接地、外階段、周辺通路を確認。給排水、電気、風呂、トイレは今後施工。
夕食。湖畔初のカレーライスを皆んなで作る。
「今日はいっぱい」
ニナが日誌を覗く。
「朝は火花。午後は建物。夜はカレーだ」
「全部、仕事?」
「半分は生活の記録だな」
「でも、みんなのきろく」
「ああ」
ユキが言う。
「きしのおうち、できた」
「まだ建物を置いただけだぞ」
「でも、ある」
「まあな」
「カレーも、ある」
「あったな」
「むれ、ふえたら、いっぱいつくる」
「その時は、もっと大きい厨房が必要だ」
明日から、騎士団宿の続き。その次には食堂。新厨房。給排水に電気。まだ仕事はいくらでもある。けれど今日は、早めに工事を切り上げて正解だった。
◇
布団へ入ると、ユキがいつものように右腕へ抱きつく。
「おっちゃん」
「何だ?」
「カレー、またつくる?」
「ああ」
「ニナのおとうさん、きたら?」
「作ろう」
「シオンも?」
「救出できたらな」
「職人も、きしも?」
「大鍋ならいける」
「みんな、カレー」
「毎日にはしないぞ」
「むう」
夜城から、満ち足りた声がする。
「王都の料理人が来たら、この味に大騒ぎするじゃろうな」
「来ないだろ」
「料理人は新しい料理の香りを嗅ぎつけるものじゃ」
「王都からは無理だ」
「カレーの香りは国境を越えるのじゃ」
「昭和の広告みたいなことを言うな」
「千年は越えたぞ」
それには、少しだけ返す言葉がなかった。
今日、騎士を迎える建物が一つ増えた。ニナとドランは、新しい鉄仕事を少し覚えた。畑では、初めての収穫が近づいている。そして食卓には、新しい「おうちの味」が増えた。
どれも、一日で完成するものではない。建物も。仕事も。畑も。群れも。少しずつ増やしていけばいい。
「おっちゃん」
「何だ?」
「カレー、まってるごはん?」
「帰ってきた人へ作ってやれる料理、って意味ならな」
「かじば、まってるしごとば」
「ああ」
「きしのおうち、まってるおうち」
「そうだな」
「むれ、まってる」
「ああ」
ユキは満足したように目を閉じた。こびゃっこも夜城で丸くなる。
「おやすみじゃ。……カレー、おかわり」
「寝言へ入るのが早すぎるだろ」
今夜は、服や髪にほんの少し香辛料の匂いが残っていた。日本では普通だった家庭料理。この湖畔では、今日から始まった味だ。次に同じ香りが漂う時。食卓の席は、今より増えているかもしれない。
それでいい。帰ってくる者へ出せる皿が、一つ増えたのだから。
◇
【第82話・収支報告】
異世界生活67日目
日付:五の月26日
オリエント王国歴952年
開始残高:3,262,471pt
今回の購入:
・近衛騎士団用中古二階建て二連棟プレハブ
27,280pt(約2,728,000円)
・300×300mm、厚さ100mmコンクリート平板一式
720pt(約72,000円)
・建物固定金具、配管保護材、表示杭等
410pt(約41,000円)
・カレー用牛肉、玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ
68pt(約6,800円)
・甘口、中辛カレールー、リンゴペースト、追加香辛料
42pt(約4,200円)
・福神漬け、翌日保存用耐熱保存容器
25pt(約2,500円)
今回支出合計:
28,545pt(約2,854,500円)
現在残高:
3,262,471pt − 28,545pt = 3,233,926pt
円換算目安:
3,233,926pt × 100円 = 約323,392,600円相当
続く




