第81話 白狐神とニナの火花
翌朝。目を覚ますと、部屋が妙に静かだった。
右腕には、いつものようにユキが抱きついている。大きな白い尻尾も、俺の腹から左脚へ斜めに載っていた。
そこまでは普段どおりだ。問題は、こびゃっこだった。
籐カゴの夜城を見ると、白い毛玉は中で丸くなり、珍しく本当に眠っている。首にカメラはない。前足にお玉もない。
「……本当に寝てるな」
「むにゃ……撮影見習いは、早朝の無断取材をせぬ……」
「寝言でも反省してるのか」
「許可申請書は、カタカナで三部提出……」
「どこの役所だよ」
大陸共通文字はカタカナだ。千年以上この世界にいるこびゃっこは当然読み書きできるし、古い字体や地方ごとの微妙な違いまで知っている。
ただし、撮影許可を三部提出する規則はない。
「一部は白狐神、一部は撮影局、一部は保存用……」
「撮影局は存在しない」
「局長は、びゃっこ……」
「撮影見習いへ降格したばかりだろ」
こびゃっこの耳がぴくりと動いた。
「起きておるのか?」
「お前が寝てるんだ」
「む」
こびゃっこが夜城から顔を出す。
「カメラは事務所。お玉は厨房。保冷剤は冷蔵庫。完璧じゃ」
「何もしないことを完璧と言うな」
「信用回復とは、普通を積み重ねることじゃ」
「そこだけは正しいな」
俺の腕へ顔を押しつけていたユキも目を開けた。
「こびゃっこ、きょう、いいこ?」
「無断撮影をしておらぬ」
「それが普通だ」
「ヒカルは評価が厳しいのう」
ユキは布団の上へ座る。
「おっちゃん。きょう、ニナのひばな?」
「ああ。まず俺とドランで機械を確認する。それからニナは電気を流さないで練習だ」
「そのあと?」
「安全にできそうなら、ほんの少しだけ火花を出す」
「こわかったら?」
「止めていい」
「やめても、だめじゃない?」
「もちろんだ」
ユキは納得したように頷いた。
「なら、よし」
今日の目的は、上手な溶接をすることじゃない。
安全に始めて、安全に止めることだ。
◇
朝食は白飯、味噌汁、焼き虹マス、卵焼き。それにキャベツとニンジンの浅漬けだった。
ニナは椅子へ座ったまま、自分の右手を握ったり開いたりしている。
「何を確認してるんだ?」
「今日、使う手」
「痛い所は?」
「ない。でも、右肩、少し重い」
腕を前へ上げ、肩を回す。
「ここ」
右肩の前側だ。昨日、仮設鍛冶場の単管を支えていた時の疲れだろう。
「マリベルに見てもらえ」
「溶接、できない?」
「確認してから決める」
食事を終えたマリベルがニナの横へ来た。
「少し診ますね。力を抜いてください」
「うん」
右肩へ手を添える。指先から淡い緑色の光が広がった。以前、森で倒れていたアルノを診た時にも使った、医療に特化した身体鑑定だ。
しばらくしてマリベルが目を開く。
「骨、関節、腱に異常はありません。腫れもありませんね。筋肉に軽い疲労が残っているだけです」
「短時間なら?」
「身体だけを見れば問題ありません。ただ、初めての溶接ですから、緊張して肩へ余計な力が入るでしょう」
ニナがすぐに尋ねる。
「なおる?」
「軽い筋肉疲労なら、回復魔法で楽にできます」
「傷も?」
「傷や骨折を直接治療する魔法ではありません。軽い筋肉痛や疲労、痛みを和らげるものです」
「じゃあ、お願い」
「魔法を使ったからといって、無理は駄目ですよ」
「うん」
今度は診断ではなく、回復のための光が右肩を包んだ。淡い緑色が肩から上腕へ染み込むように消えていく。
「温かい」
「少しくすぐったいでしょう?」
「むずむず」
十数秒ほどで光が消えた。
「動かしてみてください」
ニナが腕を前へ上げる。横。後ろ。肩を一周。
「軽い」
「張りは?」
「ほとんどない」
マリベルがもう一度身体鑑定を使う。
「かなり和らぎました。ただし、今日使った分の疲れは新しく溜まります」
「痛くなかったら、いっぱいできる?」
「できません」
普段穏やかなマリベルが、きっぱり言った。
「痛みは身体からの知らせです。魔法で一時的に楽になったからといって、筋肉が急に丈夫になったわけではありません」
「む」
「疲れる前に止める。それも仕事です」
「止めるのも?」
「はい」
俺も頷く。
「今日の最優先だ。肩が重くなったら言う。手が疲れても言う。怖くなっても言う」
「分かった」
「マリベルは?」
「今日は診療所にいます。何かあれば無線で呼んでください」
「頼む」
朝食後、それぞれいつもの仕事へ散る。リリアとミーシャは洗濯と食事の準備。トトとアルノは畑。ロク、リーファ、ガランは巡回と警備確認。マリベルは診療所。
鍛冶場へ行くのは、俺、ドラン、ニナ、ユキ、こびゃっこの五人だけだ。
今後は近衛騎士団の宿泊棟や食堂改装も進めなければならない。だから溶接の練習だけで一日を使うつもりはない。朝食後の涼しい午前中に、俺、ドラン、ニナで一時間から長くても二時間ほど練習。休憩を間に入れ、倉庫の道具掛けを作成する。
それくらいがちょうどいい。
◇
「群れの鍛冶場」へ着く。
約五メートル四方。単管骨組み。ブラウンのポリカ波板屋根。溶接位置の上には金属製火花受け板。遮光防火カーテン。鋼板床。横には工具と溶接機器を収納する小型コンテナ。少し離した位置にガスボンベ区画。そして表には、昨日設置したディーゼル発電機がある。
この鍛冶場には、まだ常設電源を引いていない。アーク溶接機だけでなく、必要に応じてLED投光機や送風機も、このディーゼル発電機から取る。
「今日は明るいから、投光機はいらないな」
「でも、見る?」
ニナが尋ねる。
「作業前点検としては見る。夕方や曇天で必要になるからな」
発電機本体。燃料。オイル。接地。排気方向。電源ケーブル。LED投光機。送風機。一通り確認する。
「表示灯は?」
ニナが入口を見る。
「付けない」
「昨日、あかいの、考えてた」
「電源がなければ使えないし、発電機を止めたら消える。鍛冶場には、もっと単純な方がいい」
「何を作る?」
「立て札だ」
俺は収納から十六ミリ角の鉄の角棒を出した。
「これを溶接して、看板スタンドを作る」
四角い台座。そこから二本の支柱。上部へ横棒。横棒には、小さなフックを二つ付ける。
「表示部分は固定しない。ぶら下げる」
「変える?」
「そうだ」
溶接中。高温作業中。点検中。立入禁止。状況に合わせて板だけ差し替えられる。
「それ、べんり」
「ニナの好きな言葉が出たな」
「作りたい」
「まず俺が一つ作る」
白いアクリル板も何枚か用意した。その一枚へこびゃっこが鉛筆で薄く下書きする。
【ヨウセツチュウ タチイリ キンシ】
「お前、字は本当に上手いよな」
「巫女時代には、祝詞や奉納札も書いておったからの」
「じゃあ仕事を頼む」
「撮影か?」
「文字」
「文字監修主任!」
「今日は筆耕も兼任だ」
赤い塗料と細い筆を渡す。
「下書きの上から、見やすく書いてくれ」
こびゃっこが胸を張った。
「任せるのじゃ」
「毛に塗料を付けるなよ」
「高位神使を幼児扱いするでない」
そう言いながら、前足で器用に筆を持つ。さすがに字は見事だった。太さが揃っている。角はきっちり。文字間も均等。
【ヨウセツチュウ タチイリ キンシ】
「おお」
思わず声が出た。
「看板屋でも食っていけそうだな」
「神使に副業を勧めるでない」
ほかにも作る。
【サギョウチュウ タチイリ キンシ】
【アツイ サワルナ】
【テンケンチュウ】
【ガスシヨウチュウ ヒヲチカヅケナイ】
「こっちは赤だけじゃなくて、黒も使うか」
「重要な部分を赤にする方が見やすいのう」
「任せる」
「びゃっこは、文字の仕事も主任級じゃ」
「文字だけな」
「撮影も――」
「見習い」
「昇進の壁が厚いのじゃ」
◇
まず、俺が表示立てを作る。角棒を寸法どおり切り、切断面のバリを取る。
台座を直角に組み、クランプで固定。アースを取る。遮光カーテンを閉める前に、ユキとこびゃっこを外側へ下がらせる。
「ユキ、ここ?」
「その位置ならいい」
「びゃっこも?」
「お前も同じだ」
「浮けば――」
「同じ」
「む。分かったのじゃ」
こびゃっこが今日は素直だ。
早速、短く仮付けして直角を確認。反対側も同様に。歪みが出ないよう、左右を入れ替えながら本溶接。支柱を立て、上部の横棒とフックまで付ける。冷却後、スラグを落として軽く研磨。
「できた」
白いアクリル板を二本のフックへ掛ける。
【ヨウセツチュウ タチイリ キンシ】
「遠くからでも見える」
ニナが少し離れて確認する。
「高さは?」
「ユキのかおより、ちょっとうえ」
「大人にも見える位置だな」
ユキが看板を見上げる。
「こびゃっこのじ?」
「うむ」
「きれい、えらい」
「白狐神より御褒めを賜った!」
「カメラも、これくらいだと、もっとえらい」
「評価と課題を同時に出すでない」
俺はもう一つ同じスタンドを作る。一つは鍛冶場入口。もう一つは、作業内容に応じて資材側や通路側へ動かす。表示板だけ差し替えればいい。
「電気、いらない」
ニナが言う。
「ああ。壊れる所も少ない」
「夜は?」
「夜間は原則、溶接しない。どうしても作業する場合はLED投光機を点けるし、入口も照らす。ただし、基本は日中作業だ」
「分かった」
◇
「さて」
俺はアーク溶接機を見る。
「次はドランだ」
「わしか?」
「お前も覚えろ」
ドランの目が明らかに輝いた。
「昨日から待っておった」
「機械を開けるのは無しだぞ」
「開けぬ」
「本当に?」
「保証が切れるのじゃろう?」
「そうだ」
「それは困る」
最初にアーク溶接。機械の電源操作。電流調整。アースクリップ。溶接棒の種類。ホルダー。材料表面の錆や油の除去。ドランは鍛冶もできるだけあって、金属そのものの理解は速い。
「要するに、鉄を溶かす場所だけを作り、溶けた部分同士を一体にするのじゃな」
「ああ。ただし熱の入り方が鍛接とは違う」
「棒の芯も足される」
「そうだ」
「この灰色の被覆が、溶けた鉄を守る」
「その理解でいい」
遮光面を被らせ、無通電で動きを確認させる。
「面倒じゃのう」
「初めて使うんだから、いきなり火花を出すな」
「ニナと同じじゃな」
「全員同じだ」
ニナが淡々と言う。
「むれ、おなじ」
「七歳児と同じ教習課程か」
「初心者だからな」
「ぐうの音も出ぬ」
ドランは数分で感覚を掴んだ。俺が許可して通電。
バチッ。最初の一回は、溶接棒を思い切り母材へくっつけた。
「やったな」
「……む」
「ニナ、見たか」
「くっついた」
「わしも初回は失敗しただけじゃ」
「無理に引っ張るな」
「分かっておる」
電源を切って外す。
二回目。今度はきれいにアークが出る。ドランの動きはまだ固いが、金属が溶ける様子を遮光面越しに見て、声を上げた。
「おお……これは面白い!」
「顔を近づけるな」
「鍛冶場の火より、鉄の溶ける場所がはっきり見える!」
「だからって調子に乗るなよ」
「ニナ、これは覚える価値があるぞ」
「うん」
「まず自分が安全に使えるようになってから教えてくれ」
「ヒカルより厳しいのう」
「今日は俺が先生だからな」
続いてガス。酸素ボンベと燃料ガスボンベ。調整器。ホース。逆火防止器。漏れ確認後バルブ操作。
「これは、アークより手順を間違えると怖い」
「じゃからニナにはまだ触らせぬのじゃな」
「ああ」
漏れ検査液を接続部へ塗る。
「泡が出たら?」
「使わぬ。閉めて直す」
「その通り」
トーチへ点火し炎を調整。鋭い青白い炎になる。
「鍛冶場の火床と違い、狭い場所へ熱を集中できる」
ドランが鉄棒を加熱する。赤くなった位置を治具で曲げる。
「これは便利じゃ」
「切断もできる。ただし、今日は操作を覚える程度だ」
「わしが覚えれば、ヒカルがおらぬ時にも使える」
「最終的にはそうしたい。ただ、しばらくは二人で確認する」
「分かった」
ドランは鍛冶仕事を良く知っている。だからこそ、新しい機械で「分かったつもり」になるのが一番怖い。本人もそこは理解しているらしい。
「明日からも朝に少し練習するぞ」
「その後は騎士団用の宿舎工事じゃったな」
「ああ。プレハブ宿泊棟、新しい食堂、厨房周りの改装。やることが山ほどある」
「鍛冶場へ一日中籠もる余裕はないか」
「ない」
「ニナも?」
「午前中に短く練習。休憩してから、いつもの工具管理や工事の段取りだ」
「うん」
「溶接だけが仕事じゃないからな」
「分かってる」
◇
いよいよニナだ。まずは装備を身に付ける。防炎作業服。革エプロン。腕カバー。脚絆。革手袋。安全靴。そして、名前を書いた自動遮光面。
【ニナ】その下には、黄色と白の小さな火花が描いてある。
「肩は?」
「軽い」
「手は?」
「大丈夫」
「怖い?」
ニナは少し考えた。
「ちょっと」
「それでいいんだ」
固定足場へ上がる。今日は最初から火花を出さない。ホルダーの持ち方。足の位置。腰。ケーブルの取り回し。棒先と材料の距離。
「肩へ力が入りすぎじゃ」
ドランが後ろから見る。
「肘を少し下げろ」
「こう?」
「そうじゃ」
「ドラン、もう先生みたいだな」
「鍛冶の姿勢は分かるからの」
「機械の操作は俺の指示を優先しろよ」
「もちろん、承知しておる」
数分休ませる。水を飲む。呼吸を整える。
「もう一回」
二度目は、かなり肩の力が抜けた。
「よし。やってみるか?」
「うん」
厚めの軟鋼端材を用意する。俺はニナの右後ろ。ドランは左側。
「今日の目標は?」
「きれいにつなぐ?」
「違う」
「止める?」
「それだ」
「棒がくっついたら?」
「無理に引かない。手を離す」
「怖くなったら?」
「止める」
「疲れたら?」
「言う」
「よし」
遮光カーテンを閉める。ニナが面を下ろした。
「電源を入れる」
「うん」
俺が手を軽く添える。
「鉄へ触れて、少し引く」
棒先が母材へ触れた。
バチッ。白青色の火花が散る。ニナの腕が一瞬固くなった。
「そのまま。一、二――離す」
ニナがホルダーを上げ、アークが消えた。
「一歩下がる」
下がる。
「面を上げていい」
遮光面の下から、いつもより大きく開いた黒い目が現れた。
「どうだった?」
「音、大きい」
「怖かった?」
「ちょっと」
「でも止められた」
「うん」
試験片には、ほんの小さな溶け跡がある。
「つながった?」
「少しだけな」
「ニナが?」
「ああ」
ニナはしばらく見つめていた。
「もう一回」
「三十秒休んでから」
「うん」
二回目。今度は棒が母材へ張り付いた。
「止める」
ニナは力任せに引かなかった。ホルダーから手を離し、一歩下がる。俺がすぐに出力を切った。
「よし」
「失敗?」
「アークは失敗。でも安全動作は成功だ」
「くっついたのに?」
「くっついた時に、どうするか覚えた」
ドランも頷く。
「鉄仕事では、失敗をゼロにするより、失敗した時に被害を広げぬことが大事じゃ」
「もう一回?」
「10分休む」
「まだできる」
「だから休む」
「むう」
それでも、素直に足場を降りた。
◇
午前中に何度か練習後、今日の実用品を作る。倉庫の壁掛け式道具掛けだ。
「すぐ作るの?」
「一度昼休みを挟んでからだ」
「うん」
昼食後。ニナの肩と手をもう一度確認。問題はない。今日は鍛冶場での作業日なので、午後も溶接作業のみとする。明日からは午前練習の後、騎士団用施設の工事へ戻る予定だ。
道具掛けの材料はアングル鋼と丸棒。
「何を掛ける?」
ニナが一覧を見る。
「金槌。やっとこ。金属用鋏。バール。クランプ。レンチ。溶接ケーブル」
「大槌は?」
「重いから床」
「鋭い物は?」
「先を外へ向けない」
「よし」
現物を壁へ並べ、配置を決める。
「やっとこ、ここ」
「間隔は?」
「大きいの七センチ。小さいの四センチ」
「少し余裕を取ろう」
俺とドランがガスで丸棒を加熱し、治具を使ってU字フックへ曲げる。ドランも操作する。
「火床より速い」
「同じ形を繰り返すなら便利だろ」
「治具が要る理由も分かった」
「目測だけだと全部違う形になるからな」
アングル鋼を切り、バリを取る。仮組み。ニナがスコヤとメジャーを当てる。
「右、二ミリ長い」
「よく見つけた」
位置を直す。
「どう?」
「よし。同じになった」
まず俺が四隅を仮付けする。
「ここからニナもやってみるか」
黒い目が俺を向く。
「いいの?」
「短い仮付けだけだ。今朝と同じ。俺とドランが横にいる」
「うん」
防炎装備を着け直す。ニナが面を下ろす。今度は完全な練習片ではない。自分たちが本当に使う道具掛けだ。
「左下のフックを一か所」
「うん」
「一秒から二秒。無理に動かさなくていい」
バチッ。短い火花。1、2秒で離す。
「よし」
「ついた?」
「仮付けとしては付いた」
次は反対側。今度は棒がくっつかない。少しだけアークを維持できた。
「止める」
ニナがすぐ離す。
「どうだ?」
「朝より、怖くない」
「怖くなくなりすぎるのも駄目だぞ」
「忘れない」
数か所だけニナに仮付けさせ、それ以上は俺とドランが仕上げる。ドランもアーク溶接を使い、俺が横から速度と角度を見る。
「少し速い」
「これくらいか?」
「そう。棒を寝かせすぎるな」
「鍛冶師が弟子へ戻った気分じゃ」
「今日は全員一年生だ」
「ヒカルも?」
「俺も実地経験は浅いからな」
「むれ、おなじ」
外からユキが言った。
「今日はそればかりじゃな」
こびゃっこは、真っ白なアクリル板へ次の文字を書きながら答えた。
完成した道具掛けは、倉庫の壁へ固定する。重量を壁だけへ掛けないよう、下部に補助脚も付けた。
金槌。やっとこ。バール。金属用鋏。大型レンチ。クランプ。溶接ケーブル。工具が一列に並ぶ。
「棚、空いた」
「床置きも減ったな」
「見れば、ない道具、分かる」
「それが目的だ」
ニナは自分が仮付けした場所を見る。
「ここ、ニナ」
「ああ」
「使う物、作った」
「初めての実用品だな」
無表情は変わらない。でも三つ編みの先が、小さく揺れた。
◇
夕方。鍛冶場を片付ける。溶接機を止め各所を点検する。ガスの元栓。ホース内の圧。発電機。ケーブル。材料。火花が飛んだ範囲。一つずつ確認する。
LED投光機は点灯試験だけ行った。外のディーゼル発電機から電源を取り、白い光が鋼板床と作業台を照らす。
「明るい」
ユキが言う。
「暗くなってから作業するためじゃない。曇天や、片付けで手元が見えにくい時の補助だ」
「よる、ひばな、しない?」
「原則しない」
「なら、よし」
送風機も短時間回す。鍛冶場は完全密閉ではないが、風の弱い日は煙を外へ逃がす補助に使う。
「全部、発電機」
ニナが言う。
「ああ。常設電源を引くまではこれで十分だ」
「止まったら?」
「溶接も照明も送風も止まる。だから、無理して作業を続けない」
入口には、今日作った鉄製スタンドを置く。作業終了後なので表示板を差し替える。
【テンケンチュウ】
「いいな」
「びゃっこの文字が映えるのう」
「そこは認める」
「では撮影主任へ――」
「字が上手いことと撮影は別だ」
「世知辛い!」
今日撮った映像も多くない。こびゃっこは鍛冶場の外から、作業前と完成した表示板、道具掛けを少し記録しただけだ。
カメラは自分で棚へ戻す。
「返却完了じゃ」
「今日は合格」
「主任?」
「見習い二日目」
「昇進制度が厳格すぎる!」
◇
工事事務所へ戻り、俺はいつもの作業日誌を開いた。この湖畔で工事を始めてから、毎日続けている記録だ。
日付。天候。作業内容。使用機械。購入品。異常。明日の予定。そこへ今日のニナとドランの練習もまとめて書く。
『ニナ、初回アーク練習。無通電姿勢確認後、短時間仮付け。溶接棒固着一回。指示に従い離脱。午後、道具掛けフック数か所を仮付け。体調異常なし』
『ドラン、アーク溶接およびガス溶接・加熱操作の基礎練習。漏れ確認、逆火防止、ボンベ操作を説明』
別の専用台帳を増やす必要はない。機械の整備記録や消耗品在庫は別として、日々の訓練や作業経過は、この作業日誌へ集約した方が後から追いやすい。
「ニナの失敗も書く?」
「ああ」
「棒、くっついた」
「それも大事な記録だ」
「成功は?」
「午後に実用品を仮付けしたことも書いた」
「両方?」
「両方」
ニナは少し考える。
「お父さん、見たら?」
「見せられる」
「失敗も?」
「最初から全部な」
「うん」
今朝の試験片は小さな金属箱へ残す。日付だけ油性ペンで書く。
【ゴノツキ25ニチ ニナ】
「大事にしすぎる必要はないが、最初の一個くらいは残しておこう」
「うん」
ユキが横から覗き込む。
「ニナ、ひばなのひと?」
「まだ練習中だ」
「でも、どうぐ、つくった」
「ああ」
「じゃあ、ちょっと、ひばなのひと」
「それくらいかな」
ニナも否定しなかった。
◇
食後、明日からの予定をホワイトボードへ書く。
午前。ドラン、アーク溶接練習。ニナ、無通電確認後、短時間練習。必要に応じてガス器具の説明。午前中のうちに終了。
休憩。
午後。近衛騎士団用宿泊棟の設置工事
「明日も火花?」
ニナが尋ねる。
「朝の体調を見てからだ」
「できそうなら?」
「短時間だけ」
「午後は?」
「工事」
「溶接は?」
「必要なら俺かドランが使う。ただし、お前の練習時間とは別だ」
「分かった」
「これから毎日ずっと溶接するわけじゃないぞ」
「うん」
「鍛冶仕事だけ覚えて、工事の段取りを忘れたら困る」
「忘れない」
「ニナは、道具の人でもある」
ユキが言う。
「うん」
「ひばなも」
「うん」
「いっぱい」
「ニナ、いっぱい仕事ある」
ユキは満足そうに頷いた。
「むれ、おなじ。でも、おしごと、いっぱいちがう」
こびゃっこが前足を上げる。
「びゃっこも、撮影、文字、神事、浄化、歴史監修、食文化監修――」
「最後は自称だろ」
「カレー監修もできるぞ」
「今日の夕食はカレーじゃない」
「では明日」
「その話はまた今度だ」
こびゃっこの耳がぴんと立った。
「今度とは、いつじゃ?」
「食べ物だけは聞き逃さないな」
「千年ものの聴覚じゃ」
◇
夜。布団へ入ると、ユキはいつものように俺の右腕へ抱きついた。こびゃっこは籐カゴの夜城へ入り、今日もカメラを外している。
「おっちゃん」
「何だ?」
「ニナ、きょう、こわかった?」
「少し怖いって言ってたな」
「でも、やった」
「ああ」
「止めた」
「それが一番大事だった」
「ドランも、くっついた」
「見てたのか」
「うん」
「明日言うなよ。本人も分かってる」
「こびゃっこは記録映像を――」
「公開しなくていい」
「職人ドラン、初めてのアークで棒を固着――」
「題名を付けるな」
夜城から不満そうな声がする。
「技術教育映像として価値があるぞ」
「ニナも同じ失敗をした。初心者なら普通だ」
「ならば『むれの溶接一年生』」
「少しまともになったな」
「第一回、みんな棒がくっつく」
「番組にするな」
ユキがくすっと笑った。
今日俺は、二人へ教えながら、自分の知識を実際の仕事へ落とし込んだ。明日からは、鍛冶場だけに構ってはいられない。だから、溶接の練習は朝。元気なうちに短く、終わったら休む。それから、本来の工事へ戻る。
技術を覚えるために仕事を止めるのではなく、仕事の中へ少しずつ新しい技術を組み込んでいく。
今日作った表示立てもそうだ。鉄の角棒を溶接しただけの簡単な物。白いアクリル板を吊るし、必要に応じて交換する。
【ヨウセツチュウ タチイリ キンシ】
赤い文字は、こびゃっこが書いた。道具掛けには、ニナの最初の実用品としての火花が残っている。どちらも派手な仕事ではない。でも、明日から本当に使う物だ。
「おっちゃん」
「何だ?」
「ニナのおとうさん、みたら?」
「驚くだろうな」
「火花?」
「ああ。自分の娘が、知らない鍛冶技術を覚え始めてるんだからな」
「道具掛けも?」
「見せられる」
「こびゃっこの字も?」
「それは別に見せなくても――」
「なぜじゃ!」
夜城から即座に抗議が飛んだ。
「歴史的筆耕作品ぞ!」
「看板だろ」
「千年神使直筆看板じゃ」
「値札を付けるなよ」
「奉納額なら――」
「売るな」
ユキが目を閉じる。
「みんな、しごと、のこる」
「ああ」
「きろくも」
「ああ」
「なら、みつかったら、いっぱいみせる」
「そうだな」
ニナの父ガルムがどこにいるかは、まだ分からない。だが、待っているだけではない。今日の作業日誌にも、ニナの最初の火花を書いた。
いつかガルムがこの湖畔へ来た時、娘がどんなふうに仕事を始めたのか、最初から見せられるように。
「おやすみ、ユキ」
「おやすみ、おっちゃん」
「こびゃっこも寝ろよ」
「うむ。明朝は撮影予定なしじゃ」
「実況は?」
「なし」
「お玉は?」
「厨房」
「保冷剤は?」
「冷蔵庫」
「よし」
「信用確認が細かいのう」
「自分で増やしたんだ」
明日の朝も、鍛冶場では短い火花が出るかもしれない。その後は、また建物を増やす仕事へ戻る。職人を迎える場所。騎士を迎える場所。そして、いつか帰ってくるかもしれない誰かを迎える場所。
その全部を、少しずつ作っていこう。
◇
開始残高:
今回支出:605pt
終了残高:
【第81話・収支報告】
異世界生活66日目
日付:五の月25日
オリエント王国歴952年
開始残高:3,263,166pt
今回の購入:
・ニナ専用防炎作業服、革エプロン、革手袋、腕カバー、脚絆、自動遮光溶接面
260pt(約26,000円)
・アーク溶接練習用軟鋼試験片、低電流用溶接棒
70pt(約7,000円)
・壁掛け式道具掛け用アングル鋼材、丸棒、アンカー金具
175pt(約17,500円)
・表示立て用鉄角棒、吊り金具、白色アクリル板
55pt(約5,500円)
・表示板用赤・黒塗料、筆、下書き用具
20pt(約2,000円)
・鍛冶場用LED投光機、送風機用延長ケーブル等
25pt(約2,500円)
今回支出合計:605pt(約60,500円)
現在残高:
3,263,076pt − 605pt = 3,262,561pt
円換算目安:
3,262,471pt × 100円 = 約326,256,100円相当
続く




