第80話 白狐神と群れの鍛冶場
翌朝。誰かが、やけに芝居がかった小声で囁いていた。
「おはよーございます。ただいま時刻は午前5時32分。白狐神の群れは、いまだ深い眠りの中におります」
俺は目を閉じたまま、ゆっくり息を吐いた。声は、腹の上から聞こえている。
「本日、我々取材班は、湖畔のなんでも担当ヒカルの寝起きを直撃したいと思います」
こびゃっこだ。
「それでは、物音を立てぬよう、静かに近づいてみましょう」
掛け布団の上を、軽い何かが二本足で歩いてくる。腹。胸。肩。そして、顎の近くで止まった。
「寝ております。見事に寝ております。普段はグイグイやゴロゴロを操り、湖畔中へ建物を増やし続ける男も、今はまったくの無防備でございます」
誰に説明してるんだ。薄く目を開けると、予想どおり、こびゃっこが俺の胸の上へ立っていた。首から超小型カメラを下げ、片方の前足には木製のお玉。
カメラには赤い録画表示が点灯。今回は、本当に撮っている。
「それでは恒例の寝起き確認へ――」
「いつから恒例になった」
「うひゃっ!」
こびゃっこが飛び上がった。俺は左手を伸ばし、カメラを支える紐の付け根を掴む。
「起きておったのか!」
空中でバタバタするこびゃっこ。
「最初から起きてた。胸元で実況されたら普通は起きる」
「白狐の前で狸寝入りとは卑怯じゃ!」
「寝ている人間の顔の近くで喋る方がおかしい」
「しまった。そうじゃった。昭和の寝起きドッキリ番組では、もっと気配を殺して近づくものじゃった」
「模倣するな。それと、そのお玉は何だ」
中には、小さな保冷剤が載っていた。
「寝起き一発、顔面へ冷たい保冷剤を――」
「絶対にやめろ」
「冷たくて爽やかな目覚めをじゃな――」
「驚いてお前ごと投げ飛ばす未来しか見えない」
「お玉は、保冷剤を安全に運搬するための道具じゃ」
「台所用品を勝手に持ち出すな」
「洗って返すつもりであった」
「借りる前に言え」
俺の右腕へ抱きついていたユキが、もぞもぞと動いた。
「おっちゃん……うるさい」
「俺じゃない。こびゃっこだ」
「寝起き番組の収録中じゃ」
ユキは目を閉じたまま、声のする方へ手を伸ばした。そして、空中のこびゃっこを掴む。
「むぎゅ」
「こびゃっこ、ねる」
「ユキよ、これは後世へ残す歴史的映像記録――」
「カメラ、しまう」
こびゃっこの首からストラップを外し、カメラを俺の枕元へ置く。さらに、そのまま白い毛玉を大きな尻尾の下へ押し込んだ。
「白狐神による強制収録終了じゃ!」
「自業自得だ」
「まだ番組の締めが残っておる!」
「いらない」
「寝起きドッキリ、大成功――」
「失敗だ」
ユキの尻尾が動き、こびゃっこの顔まで覆った。
「むぐっ」
俺はカメラを手に取り、録画を止める。録画時間は4分12秒。確認すると、暗い天井、俺の顎、こびゃっこの鼻、白い毛。まともな映像はほとんどない。
「撮影主任を名乗る割に、構図が酷いぞ」
尻尾の下から声がする。
「寝室が暗かったのじゃ」
「暗い寝室で撮るからだ」
「寝起き撮影班の装備強化を――」
「そんな班は存在しない」
ユキが目を閉じたまま言った。
「こびゃっこ、くび」
「クビ?」
「さつえいしゅにん、くび」
「白狐神直々の解任!」
「妥当だな」
「横暴じゃ!」
そもそも正式に任命した覚えはない。朝一番から、撮影主任は撮影見習いへ降格した。
◇
朝食の席で、寝起きドッキリ未遂の映像を再生した。
「何も見えないっす」
ロクが率直に言う。
「芸術的な暗部表現じゃ」
「画面の半分以上、神使様の毛ね」
リーファが笑う。ニナはテレビではなく、カメラ管理台帳を見ていた。
「使う人、書いてない」
「そうだな」
「目的も、ない」
「撮影文化の研究じゃ」
「違う」
俺は指を一本ずつ立てる。
「無断で持ち出した」
「む」
「首へ掛けたまま寝た」
「緊急撮影に――」
「寝室を無断撮影した」
「密着取材――」
「台帳へ書かなかった」
「試験放送――」
「返却前の確認もしていない」
「規則が多すぎぬか?」
「全部、お前が必要にした規則だ」
ユキが白飯を食べながら言った。
「こびゃっこ、カメラ、きょう、おやすみ」
「本日の鍛冶場完成記録が!」
「ニナがとる」
ニナが頷く。
「作業が終わった時だけ。三脚、使う」
「びゃっこは映る?」
「規制の外なら」
「では、撮影主任から主演者へ華麗なる――」
「撮影見習いだ」
「処分が厳しいのじゃ!」
ミーシャがこびゃっこの前へ果物を置いた。
「それより、こびゃっこ。お玉を勝手に持っていったでしょ」
「洗って返すつもりであった」
「朝、味噌汁をよそう時に探したよ」
「……すまぬ」
「今度から先に言って」
「うむ」
「謝ったなら、よし」
ユキも頷く。こびゃっこはパイナップルを持ち上げた。
「では、びゃっこへの謹慎中の慰労として頂くのじゃ」
「ただの朝ごはんだよ」
ミーシャに言われ、黙って口へ入れた。
◇
朝食後。工事事務所で、仮設鍛冶場工事二日目の工程を確認する。
昨日までに、約五メートル四方の作業区画を整地。表土を除去し、砕石を敷いて転圧。工事用鉄板を敷き、単管パイプの柱と梁、筋交いの一部まで組んである。
今日は残りの骨組みを固定し、屋根と壁を施工。その後、小型コンテナ倉庫、発電機置き場、ガスボンベ保管区画、遮光防火カーテン、消火設備まで整える。
「そのあと、ニナ、溶接?」
黄色いヘルメットを被ったニナが尋ねる。
「今日は設備を完成させるところまでだ」
「火花、まだ?」
「完成検査前には絶対に出さない」
「明日?」
「問題がなければな」
「あと、一日」
「気持ちだけ明日へ行くなよ」
「今日は?」
「測量、確認、記録。いつもの仕事だ」
「うん」
ドランは、俺が大陸共通文字のカタカナでまとめた、アーク溶接機の簡単な説明書を読んでいる。
「電気で鉄を溶かしてつなぐ。何度読んでも不思議じゃ」
「火床で鉄を熱して叩き合わせる鍛接と、根っこは似てる」
「じゃが、接合したい場所だけを溶かす」
「ああ。母材と溶接棒を局所的に溶かして一体化する」
「鉄全体を赤くする必要がない」
「その代わり、汚れ、隙間、電流、角度、動かす速さが悪いと、見た目だけ付いて中が弱いこともある」
「便利じゃが、誤魔化しも利く道具か」
「だから必要なら、試験片を叩く、曲げる、切断面を見る」
「気に入った」
「分解するなよ」
「まだ言うか」
「ボルガが来たら二人で開けそうだからな」
「機械は内部まで理解してこそ――」
「勝手に開けると保証が切れる」
「ほしょう?」
「壊れた時、修理や交換を受けられなくなる」
俺がスキルで購入した道具や機械にも、それぞれ保証期間と適用条件が設定されている。
正常な使用中の故障など、保証条件を満たしていれば、購入履歴から修理や交換を依頼できる。対象品はいったん異空間収納へ戻し、手続きを済ませれば、修理済みの品や交換品として再び収納から取り出せる仕組みだ。
逆に、勝手な分解や改造、明らかな誤使用による破損は保証対象外になる。ドランは少し考えた。
「それはイカンな。なら開けぬ」
「効く言葉が見つかったな」
ガランが配置図を見る。
「完成後、鍵は誰が持つ?」
「当面は俺とドラン。職人が来たら、ボルガを含めて正式な管理者を決める」
「ニナ、鍵、だめ?」
「今は大人と一緒だ」
「分かった」
「ガスボンベ区画は別の鍵。酸素と燃料ガスも、それぞれ立てて固定する」
「全部、べつ」
「同じ鍛冶場の設備でも、危険の種類が違うからな」
ユキが言った。
「むれ、おなじでも、あぶないの、ちがう」
「よく分かってる」
こびゃっこが前足を上げる。
「びゃっこには自動遮光面を――」
「今日は鍛冶場の中へ入らない」
「撮影も駄目。鍛冶場も駄目。謹慎内容が広すぎるのじゃ!」
「規制区域の外から見るのはいい」
「主役が舞台から遠いのじゃ」
「舞台はない。今日の主役は建物だ」
「むう」
◇
現場へ移動し、まず昨日の仮固定を確認した。柱。梁。筋交い。アンカー。クランプ。鉄板床の浮き。夜間の風による変形。
「北東の筋交い、少し動いた」
ニナが指した。
「どこだ?」
「確認線」
ナットとクランプへ付けていた線が、わずかにずれている。トルクを確認すると、確かに少し緩かった。
「本当だな」
増し締めする。
「よく見つけた」
「昨日、線、ここだった」
「こういう小さな変化を見つけるための線だ。職人が来たら同じ方法を教えよう」
「うん」
屋根は、倉庫とは反対側へ緩く勾配を付ける。雨水は軒先の簡易雨樋から排水ホースへ流し、砕石を入れた浸透区画へ。
ただし、鍛冶場の床を洗った水は別だ。金属粉、研磨屑、油などが混じる可能性がある。
「床の水は、ここ」
ニナが端部を見る。
「回収溝から専用タンクへ集める」
「そのあと、びゃっこたちが浄化するのじゃな」
「ああ。ただし先に金属片や油を分離する」
「最初から神気で浄化すれば早いぞ」
「確かにそうだが、神気を設備管理の代わりにしたくない。人の手で取り除ける物は、先に取る」
「なるほどの」
「おさかな、まもる」
ユキが言う。
「ああ」
「ユキ、みずのかんとく」
「浄化を頼む時だけな」
「びゃっこも水質主任へ!」
「今朝、撮影主任をクビになったばかりだろ」
「別部署じゃ」
「役職の逃げ道を作るな」
◇
屋根材を施工する前に、規制区域を広げる。この時だけは、高所作業になるので無線を使う。
『こちらヒカル。屋根材施工を開始する。屋根下と資材落下範囲は立入禁止。以上』
『こちらユキ。みんな、そと。ミミとクロメもいる。いじょう』
『こちらニナ。固定カメラ、三脚設置。録画開始。規制区域の外。以上』
『こちらロク。倉庫側通路、立入なしっす』
『こちらリーファ。森側、異常なし。風は弱いわ』
収納から、薄いブラウンのポリカーボネート波板を出す。薬草干し場などでも使っている材料だ。
自然光を取り込めるため、昼間なら鍛冶場内部はかなり明るい。鍛冶場には、現時点で常設の照明用電源を引く予定はない。
必要な場合は、外に置くディーゼル発電機からLED投光機などへ電源を取る。ただし、LED投光機や送風機そのものは、明日の試験時に必要量を確認してから用意するつもりだ。
そして、溶接区画の真上だけはポリカ波板へ直接火花が当たり続けないよう、不燃性の金属製火花受け板を追加する。
「全部を鉄の屋根にしないのか?」
ドランが尋ねる。
「今回は仮設だから、施工の速さと昼間の明るさを優先する。本格的な火床を置くなら、その時に折板屋根へ再設計だ」
「ボルガは喜ぶぞ」
「もう増築前提になってるな」
「仕事場は育つものじゃ」
「昨日も聞いたぞ」
早速、屋根へ上がる。親綱。安全帯。工具の落下防止コードを装着する。ドランとロクは地上から、脚立に乗って波板を支えた。
ニナは固定位置と枚数を記録する。
「おっちゃん、みぎ、ちょっと」
「ユキから見て右か?」
「ユキの、みぎ」
『こちらニナ。南側端部、二センチずれてる。ヒカルから見て左。以上』
『了解』
「ニナの無線は正確じゃのう」
規制区域の外にいるこびゃっこが感心する。
「誰かと違ってな」
「びゃっこも『こちらびゃっこ』から始めるぞ」
「内容が全十八番の歌だから駄目なんだ」
「今は全十二番じゃ」
「減らしたことを誇るな。そもそも無線で歌うな」
屋根を固定し、火花受け板を追加する。ポリカ波板へ密着させず、間に空気層も設けた。
続いて、西側と北側へ金属波板の壁を付ける。完全には塞がない。
上部と下部へ換気のための開口を残す。東側は出入口と資材搬入口。南側は非常口。最後に、溶接区画を囲えるよう、遮光防火カーテンのレールを取り付けた。
「これ閉めたら、光、見えない?」
ニナが尋ねる。
「直接見えにくくなる。ただ、隙間から覗かない」
「こびゃっこ、のぞきだめ」
ユキが言った。
「なぜ名指しするのじゃ」
「やりそう」
「芸術的好奇心じゃ」
「目を傷める好奇心はいらない」
今日はまだ、溶接中を示す専用の表示設備までは作らない。出入口には昨日まで使っていた仮設の立入禁止札と、トトやミーシャが描いた注意喚起の絵を置く。
明日、実際に溶接機を動かした後で、状況に応じて差し替えられる表示方法を作る予定だ。
トトが描いた絵の一つは、遮光面を着けずに強い光を見て、両目から滝のような涙を流している人物。
「かなり痛そうっすね」
ロクが言う。
「大げさなくらいでいっこ」
い」
「こっち、こびゃっこ」
ユキが別の絵を指す。火花へ近づいた白い毛玉が、焦げた尻尾を見て泣いている。
「なぜ、びゃっこ専用の警告図があるのじゃ!」
「トトが描いた」
「こびゃっこ、あぶない」
「まだ何もしておらぬ!」
「予防だ」
「冤罪じゃ!」
「事故が起きる前なら予防だよ」
◇
昼前。鍛冶場北側へ、小型コンテナ倉庫を設置した。入口は東向き。作業中の火花が、開いた扉へ直接入りにくい配置だ。
内部へスチール棚を置く。上段に、遮光面、防炎服、革手袋など、軽い保護具。中段には、溶接棒、溶加棒、研磨材、金属用ブラシなど。下段は、アーク溶接機、大型クランプ、重い器具。
「溶接棒、湿気、だめ?」
「ああ。湿気を吸うと、アークが不安定になったり接合不良の原因になる」
「箱?」
「密閉容器へ乾燥剤と一緒に入れる」
「使いかけは?」
「熱が残っていることがあるから耐熱容器へ分ける」
「熱いまま、戻さない」
「その通り」
ガスボンベは、コンテナへ入れない。
横に、屋根付きで換気できる専用の保護区画を作る。酸素、燃料ガスボンベ。それぞれ別の固定架台に、転倒防止チェーン。バルブ保護の上、扉に施錠。
「ガス臭がしたら?」
俺が尋ねる。
「火、つけない」
ニナが即答する。
「電気に触らない。離れてから、大人に言う」
「よし」
「あとで、日誌に書く?」
「そうだ。異常があれば俺の作業日誌に残す」
設備ごとに別々の台帳を増やしすぎるつもりはない。日々の工事内容や不具合、誰が何を練習したかは、俺が毎日付けている作業日誌へまとめる。機器固有の整備記録や在庫記録だけ、必要に応じて別にすればいい。
ドランは酸素ボンベを見上げている。
「酒を近づけたら?」
「なぜ酒で試そうとする」
「燃え方が変わるか気になっただけじゃ」
「酒は鍛冶場へ持ち込み禁止」
「飲むのではない。実験じゃ」
「その言い訳が一番危ない」
最低限の鍛冶場規則も整理する。管理者の許可なく入らない。必要な防炎装備と遮光面を使用。
濡れた手や濡れた床で溶接しない。可燃物と酒類を持ち込まない。作業前に換気を確認。異臭、異音、ケーブル損傷があれば停止。終了後は、三十分後にも火種を再確認。
子供は、指定された大人と一緒に入る。
「酒だけ、わしを狙っておらぬか?」
「主にお前とボルガ向けだ」
「正直すぎるぞ」
ガランが頷いた。
「警備側にも、火気設備として共有しておこう」
「煙や火花が見えても、いきなり水を掛けないようにしてくれ。電気設備が絡む」
「消火器の位置も教えておく」
「頼む」
鍛冶場入口には粉末消火器。発電機側にも一つ。電気設備を考え、二酸化炭素消火器も置く。
「設備が増えるほど、警備項目も増えるな」
「管理まで含めて設備だからな」
「おっちゃん、いっぱい、せつめい」
ユキが言う。
「説明する人ではあるな」
こびゃっこが前足を上げた。
「規則朗読主任は――」
「謹慎中だ」
「まだ続いておるのか!」
「少なくとも今日いっぱいだ」
ユキが言う。
「こびゃっこ、よるまで」
「……承知したのじゃ」
◇
午後。鍛冶場東側へ、ディーゼル発電機の専用置き場を整えた。この発電機自体は、昨日の溶接機器導入時に購入済みだ。
今日作るのは、そのための設置環境。不燃性の基礎板に燃料漏れを受ける受け皿。接地をして防音カバー。ケーブルを保護して、周囲の可燃物除去。
「全部囲わない?」
ニナが尋ねる。
「ディーゼルは排気と冷却が必要だ。防音したいからって完全に囲ったら危ない」
「排気、こっち?」
「人と建物のない方へ」
「鍛冶場には入らない?」
「風向きも見て決める」
仮設の鍛冶場には常設電源は引かない。当面、溶接機も必要な照明も送風機も、このディーゼル発電機から取る。
ただし、今日はまだ溶接しない。発電機も設置状態と始動確認だけに留める。
実際にどの位置へLED投光機を置けば影が出にくいか、送風機をどう使えば煙を作業者から逃がせるかは、明日の実地試験で確かめる。
「でんき、ずっとつける?」
ユキが尋ねる。
「使う時だけだ」
「よるは?」
「消す。鍛冶場も原則、日中作業」
「なら、しずか」
「ああ」
次は、鋼板製の溶接作業台。脚を床へ固定し、水平を出す。大型バイスは通路へ張り出さない位置。アースを取りやすいよう、接触する場所には塗装を残さない。
「これが、ニナの場所?」
「皆が使う台だ。ただ、ニナが練習する位置はここ」
大人用の作業台は、七歳のニナには高い。そこで、高さ調整式の固定足場を用意する。鉄骨フレームに滑り止め天板。手すりと固定脚。乗り降りする方向も限定する。
「動かない?」
「床へ固定する」
「大きくなったら?」
「三段階で高さを変える。もっと大きくなれば外す」
「お父さんは?」
「大人なら床からそのまま使える」
「同じ台?」
「ああ」
ニナは、まだ冷たい鋼板へ指先で触れた。昨日まで、ここには単管の骨組みしかなかった。今は、鉄を加工するための場所になり始めている。
◇
午後四時。完成検査へ入る。柱と梁。筋交いにアンカー。屋根の火花受け板。雨樋。壁。上下の換気開口。遮光防火カーテン。作業台とニナ用足場。ディーゼル発電機の設置区画。ガスボンベ保管区画。小型コンテナ。
消火器。避難通路。床の段差。火種が入り込みそうな隙間。可燃物。周囲の草。
ニナが確認し、俺が作業日誌へ要点を書いていく。
「屋根」
「固定、異常なし」
「換気」
「ふさがってない」
「カーテン」
「全部、開く。閉じる。引っ掛からない」
「作業台」
「水平」
「足場」
「動かない。手すり、ある」
「発電機」
「水平。排気、建物に向いてない」
「ガス区画」
「鍵。チェーン。酸素と燃料、別」
「避難通路」
「物、ない」
「消火器」
「ある」
「仮の立入表示」
ニナは、尻尾を焦がして泣くこびゃっこの絵を見る。
「ある」
「なぜ最後だけ、びゃっこの絵で確認するのじゃ!」
「いちばん必要な表示だから」
「危険人物扱いではないか!」
全項目、問題なし。
「かじば、かんせい?」
ユキが尋ねる。
「建物と設備配置は完成だ」
「ひばな?」
「明日」
「ニナも?」
「ああ。まず俺とドランが機械を試す。その後、ニナは電源を入れない練習から始める」
「あと、1日?」
ニナが言う。
「ああ。今日はやらないぞ」
「でも、まだ明るい」
「完成した直後に急いで試験しない」
「できる時間と、安全に終われる時間、ちがう」
「覚えてたか」
「うん」
ドランが腕を組んで、完成した仮設鍛冶場を眺める。
「小さいが、よい仕事場じゃ」
「火床も鞴もないけどな」
「工具を直す。金具を作る。鉄骨をつなぐ。それだけでも十分じゃ」
「ボルガが来たら、狭いって言うだろうな」
「翌日には増築案を描くだろうな」
「勝手に杭を打たせるなよ」
「無理かもしれん」
「そこは止めろ」
ユキが、青い線入りの監督用ヘルメットを押さえ、両手を上げる。
「かじば、できた!」
ニナも建物を見上げた。
「むれの、かじば」
「それでいい」
こびゃっこが規制区域の外から浮かび上がる。
「白夜鉄工所、開業じゃ!」
「勝手に名前を付けるな」
「白狐神鍛冶工房」
「神社の施設みたいだ」
「ニナの火花工房」
ニナが首を横に振った。
「むれの、かじば」
「本人がそう言ってる」
「少々地味じゃのう」
「仕事場は分かりやすい方がいい」
作業終了後、ニナが固定カメラで完成記録を撮る。正面。屋根。出入口。発電機区画。ガス保管区画。小型コンテナ。遮光カーテン。作業台と固定足場。
まだ専用の溶接中表示立ても、LED投光機も、送風機もない。それらは明日の実地試験で、実際の使い勝手を見ながら追加する。
「最後、みんな」
ニナが言う。セルフタイマーを使い、完成した鍛冶場の前へ並ぶ。
俺。ドラン。ニナ。ユキ。こびゃっこ。ロク。リーファ。ガラン。少し遅れて仕事を終えたリリアたちも加わる。
「ニナ」
「なに?」
「明日は、ここで最初の練習だ」
「うん」
「今日はよく測って、不具合もよく見つけてくれた」
「火花、出してない」
「火花を出す前の仕事も、仕事だ」
ドランも頷く。
「よい鍛冶師は、槌を振る前に道具と炉を見る」
「ニナも?」
「今日は、よい鍛冶師の仕事をした」
ニナは無表情のまま、ほんの少しだけ胸を張った。
カシャッ。まだ火花はない。だが、火花を受け止める屋根はある。強い光を遮るカーテンがある。高温の鉄を置ける台がある。道具を守る倉庫がある。ガスと発電機を分ける場所がある。始める前に確認し、終わった後にも見回る決まりも作った。
昨日、ニナは父親の話をした。今日は、その父親がもし帰ってきた時にも使える仕事場ができた。
それだけでガルムが見つかるわけではない。だが、待っているだけの場所ではなくなった。ここでは仕事ができる。
明日、その最初の火花を出す。上手くいかなくてもいい。溶接棒が鉄へくっついてもいい。怖くなったら止めればいい。最初に覚えるべきことは、きれいにつなぐことではない。
危ない時に止めることだ。
「こびゃっこ」
俺が呼ぶ。
「何じゃ?」
「カメラは?」
「ニナが使用中じゃ」
「今日は触るなよ」
「分かっておる」
「明日からは使いたければ、ちゃんと台帳へ書け」
「撮影主任へ復帰――」
「撮影見習い」
「今朝の解任がまだ有効なのか!」
「一日で戻したら反省にならない」
「では、再就職活動じゃ!」
ユキが言う。
「こびゃっこ、れんしゅう」
「何のじゃ?」
「カメラ、かりるとき、かく。おわったらもどす」
「撮影技術より備品管理からかえ」
「ニナも、れんしゅう」
ニナが続ける。
「見る。止める。片付ける」
「びゃっこと同じじゃな」
「むれ、おなじでも、れんしゅう、ちがう」
「白狐神に、きれいに整理されてしまったのう」
夕暮れの光が、ブラウンの屋根と鋼板の作業台を照らしている。発電機は止まっていて灯りもない。
送風機の音もなく火花もない。静かな鍛冶場だ。明日は、外のディーゼル発電機が動く。そして、この鋼板の上で初めて白青色の火花が生まれる。
今日のところはここまで。急がないことも、段取りの一つだ。
◇
【第80話・収支報告】
異世界生活65日目
日付:五の月24日
オリエント王国歴952年
開始残高:3,270,146pt
今回の購入:
・仮設鍛冶場用ポリカーボネート波板、固定金具、簡易雨樋、排水ホース
420pt(約42,000円)
・溶接区画用金属製火花受け板、遮光防火カーテン、カーテンレール
560pt(約56,000円)
・鍛冶道具、溶接機器保管用小型コンテナ倉庫
3,800pt(約380,000円)
・コンテナ内スチール棚、耐熱保管容器、乾燥剤入り溶接棒保管箱
360pt(約36,000円)
・鋼板製溶接作業台、大型バイス、固定用アンカー
620pt(約62,000円)
・ニナ用高さ調整式固定作業足場、滑り止め、手すり
280pt(約28,000円)
・ディーゼル発電機設置用防音カバー、ケーブル保護カバー、接地部材、不燃基礎材
310pt(約31,000円)
・酸素、燃料ガスボンベ用固定架台、転倒防止チェーン、保護柵
240pt(約24,000円)
・粉末消火器二本、二酸化炭素消火器一本、耐火バケツ、火種確認用具
390pt(約39,000円)
今回支出合計:6,980pt(約698,000円)
現在残高:
3,270,146pt − 6,980pt = 3,263,166pt
円換算目安:
3,263,166pt × 100円 = 約326,316,600円相当
続く




