第78話 白狐神と火花の仕事
翌朝。俺の頬に、柔らかい肉球のようなものが押しつけられ、何やら呟く声が聞こえてくる。
「……今朝は何の夢だ」
目を開ける前に尋ねると、俺の左頬の上に乗っている何かが、ぴくりと動いた。
「むにゃ……カレーは飲み物じゃ……」
「千年以上生きた神使が、食レポタレントの様な格言を広めるな。ユキが誤解する」
「大盛り……福神漬けも大盛り……」
「ここでまだ作ってもいない料理を、夢の中で先に食うな」
薄目を開けると、俺の左頬には、こびゃっこの腹が載っていた。四本の短い足を投げ出し、完全に俺の顔を寝床として使っている。
右腕にはユキが抱きついている。いつものように胸から腹へ、大きな白い尻尾が斜めに乗っていた。
「おっちゃん……」
「起きたか?」
「まだ」
「普通に会話しているが」
「ねながら、おきた」
ユキは目を閉じたまま、俺の腕を抱き直した。
「きょう、おうちのえ?」
「宿泊棟と厨房の配置図を作る予定だ」
「きしの、おうち?」
「ああ。近衛騎士団が来る前に、宿舎と風呂とトイレの位置を決める」
「ごはんの、おうちも?」
「新しい厨房もな」
「おにく、つくる?」
「厨房だから、肉だけじゃない」
「からあげがいい」
「朝から献立の決定権を握ろうとするな」
顔の上で寝ていたこびゃっこが、片方の前足を上げた。
「異議あり。新厨房の完成記念は、カレーがよい」
「寝言じゃなかったのか」
「今、正式な要望へ昇格した」
「寝起き1分で、寝言を要望に変えるな」
「びゃっこは、千年ぶりにカレーの香りを嗅ぎたいのじゃ」
「千年ぶり?」
「日本におった頃以来じゃからの」
「先代の宗一郎さんは作らなかったのか?」
「宗一郎は、カレーを知らなかった」
「知らなかった?」
「明治の初め頃に、この世界へ来たのじゃぞ。日本中の家庭で、当たり前にカレーライスを食べる時代ではなかった」
「なるほどな」
橘宗一郎は、明治期にこの世界へ転移してきた医師だ。
現代日本人の俺には、カレーライスは最初から家庭料理として存在していた。だが、日本で広く普及する前に転移した宗一郎にとっては、身近な料理ではなかったのだろう。
「では、びゃっこが初めて食べたのは?」
「この世界に来る前、日本に居た時じゃ。笠間で巫女をしていた頃、近くの食堂で食べた」
「どうだった?」
「香りだけで腹が鳴った」
「今と変わらないな」
「当時は少女の姿じゃったから、周囲の者が皆、心配して大盛りへしてくれた」
「その食欲を心配されたんじゃなく、痩せていると思われたんじゃないか?」
「びゃっこの美貌は細身であったからの」
「現在は綿で丸いけどな」
「神使の体形へ不用意に言及するでない!」
こびゃっこが俺の顔の上で立ち上がった。
「よっこいしょういち」
「ググらなければ分からない、昭和の有名人を呟きながら立つな。爪が頬へ刺さってる」
「爪だけではない。柔らかな肉球もじゃ」
「どうでもいいが、顔面の上へ体重を集中させるな」
俺は上半身を起こし、こびゃっこを持ち上げ、枕の間に置かれた籐カゴ――夜城へ戻した。
すると、右腕へ抱きついていたユキが目を開けた。
「おっちゃん、にげる」
「逃げてない。起きるんだ」
「…もうちょっと」
「今日は図面を作る。朝食後に事務所へ行くぞ」
「ユキも?」
「監督用の配置確認を頼む」
「おきる」
役職が出ると早い。ユキは俺の腕を放し、布団の上へ座った。大きな尻尾が、俺の腹の上からようやく退く。右腕に血が戻り、じんじんと痺れた。
「右腕の血流だけ夜間通行止めだな」
「おっちゃんのうで、ユキの」
「所有権を主張するな」
「むれ、おなじ」
「群れの共有財産にもするな」
こびゃっこが夜城から頭を出した。
「人型抱き枕は、群れの福利厚生じゃ」
「労働組合へ訴えるぞ」
「経営者も労働者もヒカルではないか」
「だから一番困るんだよ」
◇
朝食は白飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、それに葉物を使ったお浸しだった。ニナが、卵焼きの切り口をじっと見ている。
「今日は何を検査しているんだ」
「巻き方」
「卵焼きの?」
「中に隙間、少ない」
ミーシャが少し誇らしげに胸を張った。
「今日は私が巻いた」
「上手くなったな」
「リリアに、火を少し弱くして、急がないって教えてもらった」
「前よりきれいだ」
「ヒカルも食べて」
「もう食べてる。美味しいぞ」
「よかった」
ミーシャは短く答えたが、猫耳が少し前へ向いた。リリアが味噌汁を配りながら尋ねる。
「今日は、騎士団の施設配置を決められるのですよね」
「ああ。宿泊棟だけ先に置くと、厨房や食堂の動線が悪くなる。全部を一度、図面上へ並べる」
「現在の厨房も移すのですか?」
「調理設備は、新しい8坪の厨房ユニットへ集約する。今ある厨房タープは、食堂へ転用する予定だ」
「では、既存の食堂タープと合わせて2つを、私たちと職人の食堂に」
「そうなる。近衛騎士団用には、新しく食堂タープを2セット追加する」
ミーシャが数を指で確認する。
「食べるところ、4つ?」
「基本はな。ただし料理は同じ厨房で作る。人員や天候によって、使い方は変える」
「みんな、ちがうところで、ごはん?」
ユキが不安そうに尋ねた。
「完全に分けるわけじゃない。人数が一気に増えるから、座れる場所を増やすだけだ」
「むれ、おなじ?」
「料理は同じ。食べる時間も可能なら合わせる。席が分かれても、仲間外れにするわけじゃない」
「なら、よし」
「まだ来ていない騎士団を、もう群れへ入れるのか?」
「むれにくるひと」
「予約済みか」
こびゃっこが小さな茶碗を抱えながら言う。
「席の確保は大切じゃ。びゃっこも新しい食堂に専用席を要求する」
「今の人形用椅子とテーブルを持っていけばいいだろ」
「各食堂へ1脚ずつ必要じゃ」
「同時に4か所へ座る気か」
「神使の分身を――」
「できないだろ」
「気分としてじゃ」
「気分で椅子を4倍にするな」
朝食後、俺は食堂設備の確認をリリアとミーシャへ任せた。
アルノはトトと畑記録の整理。マリベルは診療所で薬草の在庫確認。ロクとリーファは、ガランと一緒に朝の巡回へ出る。ドランは、ニナを連れて新倉庫へ向かうという。
「工具棚の確認じゃ」
「勝手に分解するなよ」
「棚を分解するわけではない」
「昨日から、置き方が気になる」
ニナが言う。
「どこがだ?」
「壁、高いところ、空いてる」
「なるほど」
「長い道具、床に置く。場所、使う」
新しく設置した8坪の倉庫兼作業場は、床面積こそ約16畳あるが、資材や電動工具を増やせば、すぐに狭くなる。
現在、長柄のハンマー、バール、レーキ、スコップ、一部のクランプ類は、長物ラックや床置き収納へ入れている。壁面を使えば、かなり効率を上げられる。
「朝の配置図が終わったら見に行く」
「先に見た方がよいぞ」
ドランが言う。
「なぜだ?」
「ニナが昨夜、道具掛けの絵を描いておった」
「昨夜?」
「寝る前」
ニナは小さなメモ帳を差し出した。壁へ横長の鉄材を2本固定し、そこからフックを出す。工具の形に合わせて幅を変え、落下防止用の爪を付ける。
簡単な絵だが、用途は分かる。
「よく考えたな」
「道具、見える。取る。戻す」
「棚へ積むより、何がないかも分かるな」
「絵も付ける」
「いい案だ」
ニナの表情はほとんど変わらない。だが、三つ編みの先が小さく揺れた。
「じゃあ、午前は図面。午後から道具掛けの計画だ」
「うん」
「鉄を使うか?」
ドランが尋ねる。
「ああ。アングル鋼材で枠を作る」
「穴を開け、ボルトで組むのか?」
「普段ならそうするが……」
俺はニナの絵を見る。道具掛けは今後、倉庫以外にも必要になる。大型ガレージ。鍛冶場。整備区画。厨房の清掃用具置き場。
そのたびにアングル鋼材へ穴を開け、ボルトとナットで組むこともできる。分解できる利点はあるが、部品数が増え、穴開けにも時間が掛かる。
「今回は、溶接で作った方が早いかもしれない」
「ようせつ?」
ニナが聞き返した。ドランも眉を上げる。
「聞いたことのない言葉じゃな」
「俺の世界の鍛冶仕事の一種だ」
「鍛冶?」
「鉄と鉄の接合部分を、熱で溶かして一つにつなぐ」
ドランが腕を組んだ。
「炉で赤く熱し、槌で叩いて接合する鍛接とは違うのか?」
「考え方は近い。ただし、部材全体を炉へ入れず、つなぎたい場所だけを非常に高い熱で溶かす」
「局所だけを?」
「ああ。電気や燃えるガスを使う」
ニナの目が、はっきりと俺へ向いた。
「電気で、鉄、溶かす?」
「そうだ」
「見たい」
「まだ買うと決めたわけじゃない」
「買う」
「決定権を奪うな」
「べんり」
「便利なのは間違いないが、危険も大きい」
「何が、危ない?」
「強い光。火花。高温の金属。煙。感電。火災。ガスを使う場合は、漏れや逆火もある」
ニナは黙り込んだ。諦めた顔ではない。危険項目を頭の中へ並べている顔だ。
「まず俺が調べ、設備と場所を決める。見せるとしても、安全区域の外からだ」
「ニナも、やる?」
「それは後で考える」
「やりたい」
「まだ見てもいないだろ」
「鉄、つなぐ。やりたい」
いつもより返答が速かった。ドランが、ニナを横目で見る。
「随分、食いつくのう」
「どうぐの、仕事」
「溶接は工具を管理する仕事じゃないぞ」
「作る、仕事」
「そうだが……」
ニナはメモ帳を胸へ抱えた。
「ニナ、作る仕事、したい」
俺はすぐには答えなかった。7歳の子供に、火花と高温金属を扱わせる。普通なら、即座に却下する話だ。
だが、ニナはドワーフで、成人女性並みの力を持つ。構造や工具への理解も早い。ただし身体能力が高いことと、危険作業へ参加させてよいことは別だ。
「まず、俺が使ってみせる。そこからだ」
「うん」
納得したように頷いたが、目だけはまったく諦めていなかった。
◇
工事事務所の大型ホワイトボードには、職人区画と既存生活区画の配置図を貼った。
俺はノートパソコンでCADを開き、現在の職人宿、風呂、男女別トイレ、給水タンク、外周ポールライトの位置を表示する。
「近衛騎士団用宿泊棟は、職人宿から北へ1棟分空けて置く」
ガランが椅子へ座り、図面を見ている。朝の巡回を終えたロクとリーファも同席した。
ユキは俺の隣で、子供用の椅子へ座っている。こびゃっこはモニター前へ浮こうとしたため、ユキの膝へ戻された。
「なぜびゃっこだけ固定されるのじゃ」
「画面の前を横切るから」
「立体的な指示をしようとしただけじゃ」
「マウスカーソルで十分だ」
「びゃっこの前足カーソルの方が、愛嬌があるぞ」
「図面へ愛嬌は必要ない」
ガランが配置を確認する。
「宿泊棟同士の間を、なぜ1棟分も空ける?」
「将来、間へ共同施設か増設棟を置ける。今回は人数構成が分からないから、詰めすぎない方がいい」
「火災時の延焼防止にもなるな」
「ああ。それに騎士団が来た後、警備上の配置を相談して見張り所を置く余地も残る」
「宿泊棟の入口は?」
「職人宿と同じく東側。湖面側を向ける」
「夜間警戒の動線としては悪くない。ただし、北側と森側へ直接出られる通路も必要だ」
「建物の外周へ幅2メートル以上の通路を確保する。避難路兼点検路だ」
ニナがメモする。
「2メートル。荷物、置かない」
「そうだ。物置場にしない」
「では、風呂はどこ?」
リーファが図面を見る。
「騎士団用の男女別風呂は、既存風呂の北側。ただし宿泊棟から直接見通せないよう、目隠し壁と通路を設ける」
「男女別で2棟?」
「ああ。人数が未定だから、同規模にしておく。使用時間を分ければ、片方を整備中でも対応できる」
「トイレも男女別か」
ガランが尋ねる。
「もちろん。既存職人用とは別に1ユニット追加する。汚水タンクも別系統にする」
「一つのタンクへまとめないのか?」
「人数が増えた時の負荷を分散できるし、片方を点検しても、もう片方は使える」
「むれ、おなじ。でも、はいすい、ちがう」
「そうだな」
「白狐神直々の衛生設備方針じゃ」
こびゃっこが胸を張る。
「お前は何も言ってないだろ」
続いて厨房と食堂の配置を確認する。現在の食堂タープと厨房タープは、既存住居区画より南側にある診療所の前。湖側に横に並んでいる。
新しい厨房ユニットは、その2つから近く、給水と排水タンクを接続しやすい位置がいい。
「新厨房は、現在の厨房タープの北側へ置く」
「診療所からは少し離すのね」
リーファが言う。
「火と油を使う場所を、診療所の隣へ置きたくない」
「マリベルも納得すると思うわ」
「食材搬入口は西側。調理済み料理の受け渡し口は南側。野菜の洗い場は、調理区画と分けて東側へ置く」
「畑からは東側に運ぶ?」
ユキが聞く。
「橋と道路から来たワゴンを、厨房の調理済み側へ入れないようにする」
「どろ、ちがう」
「そうだ。土と生の食材を扱う場所、出来上がった料理を扱う場所を分ける」
ミーシャとリリアも呼び、厨房の作業動線を確認する。
「冷蔵庫は、どこ?」
ミーシャがモニターを覗き込む。
「北側の壁沿い。業務用冷蔵庫と冷凍庫を並べる。ただし背面と上部に放熱空間を確保する」
「肉と魚、同じ?」
「棚と容器を分ける。生肉は下段。液が落ちてもほかへ付かないようにする」
「野菜は?」
「洗った野菜と、土付き野菜は別だ」
「作ったものは?」
「作り置き区画を決める。日付と時間も書く」
「いっぱい、決める」
「人数が増えるほど、決めておいた方が迷わない」
ミーシャは図面を見たまま、しばらく考えた。
「大きい鍋、置くところもいる」
「その通りだ。鍋洗い用の深いシンクを1台入れる」
「ミーシャ、届く?」
「子供用の作業台を用意する。ただし、大鍋を持つのは大人だ」
「近衛の炊事担当にも確認する必要があるな」
ガランが言う。
「ああ。到着後に作業台の高さや鍋の大きさを見直す」
「作る前に全部決めなくていいのか?」
「後で変えられる部分は、余白を残す。給排水や換気のように変えにくい所を先に決める」
「段取りじゃな」
こびゃっこが言う。
「珍しく正しいな」
「いつも正しいわ!」
午前中いっぱいを使い、宿泊棟、風呂、トイレ、新厨房、追加食堂タープの仮配置図まで作成した。
確定ではない。現地で再測量し、地盤、高低差、排水方向、既存配管との接続を確認してから最終決定する。
「今日は図面だけ?」
ユキが尋ねる。
「午後は倉庫の道具掛けだ」
「鉄、つなぐ?」
「まず溶接機を選ぶ」
ニナが椅子から立ち上がった。
「見る」
「昼食を食べてからだ」
「いま、ひる?」
「時計を見ろ」
ニナが壁の時計を見る。
「まだ」
「あと30分だ」
「長い」
「工具を待つ30分が長く感じるのは、少し分かる」
◇
昼食後、俺は工事事務所のノートパソコンで溶接機器を調べた。
今回用意するのは、インバーター式の小型アーク溶接機。鉄骨やアングル鋼材、平鋼、角パイプの接合へ使う。
さらに、ガス溶接と切断用の酸素・燃料ガス一式。
ガス溶接は薄板の接合、加熱、曲げ修正。ガス切断は厚い鋼材の切断へ使える。
どちらも湖畔の既存ポータブル電源へ、無理に負荷を掛けるべき設備ではない。そこで、溶接専用の発電機も用意する。
「電気の機械と、火の機械?」
ニナが画面を見ている。
「そうだ」
「両方、鉄つなぐ?」
「アーク溶接は電気の放電で高熱を作る。ガス溶接は、燃えるガスと酸素の炎で金属を熱する」
「切るのも?」
「ガス切断は、鉄を高温にして、酸素で燃焼させながら吹き飛ばす」
ドランが腕を組んだ。
「鉄を燃やすのか」
「そう考えていい。木のように炎を上げるわけではないが、高温になった鉄を酸化させて切る」
「実物を見ねば理解しにくいのう」
「俺も試運転する。ドランは見て、鍛冶仕事との違いを教えてくれ」
「任せろ」
「ニナは規制区域の外からだ」
「近くで、見たい」
「遮光面なしで光を見ると、目を傷める」
「目、閉じる?」
「閉じるだけでは駄目だ。専用の遮光保護具を使う」
「ニナのも?」
「見学用は用意する。ただし、溶接中に遮光面を外すな」
「分かった」
こびゃっこが画面の横へ浮かんできた。
「びゃっこ用も必要じゃな」
「お前は事務所に残れ」
「なぜじゃ!」
「火花へ近づく。空中から覗く。遮光カーテンの隙間へ頭を入れる。危険行動が3つ見える」
「まだ何もしておらぬ!」
「過去の行動から予測した」
「高位神使を、危険予測表の典型例にするでない!」
「白い毛へ火花が付いたら焦げるぞ」
こびゃっこが自分の胸元を見る。
「……見学用保護服を要求する」
「そこまでして見たいのか」
「新技術の記録は、撮影担当の使命じゃ」
「溶接の光を普通のカメラで直接撮るな。機材も傷める可能性がある」
「では、びゃっこは?」
「遮光カーテンの外」
「ユキと同じ?」
「ユキも近づけない」
「むれ、おなじ」
ユキが満足そうに言った。
「危険区域外で平等だ」
購入する機器を決める。アーク溶接機。溶接ケーブル。ホルダー。アースクリップ。溶接棒。
ガス溶接・切断器。酸素ボンベ。燃料ガスボンベ。調整器。逆火防止器。ホース。ボンベ台車。
専用発電機。溶接作業台。アース用金属板。溶接用クランプ。
自動遮光溶接面。革手袋。革前掛け。腕カバー。脚絆。防炎作業服。防塵マスク。保護眼鏡。耳栓。
消火器。火花受けシート。遮光防火カーテン。
現時点では常設の鍛冶場がないため、今日は倉庫裏の空き地へ工事用鉄板を仮敷きし、その上で試運転する。
周囲の草は刈り、可燃物を10メートル以内から退ける。水入りバケツと消火器を配置。風向きを確認。見学者は防火カーテンの外。
「買うぞ」
「いいよ」
なぜニナが許可する側なのだろう。
ポイントを消費し、機器一式を購入する。収納から順に出すと、ドランの目が変わった。
「この箱が、鉄を溶かすのか」
「アーク溶接機だ」
「炉がない」
「発電機から電気を送る」
「この細い棒は?」
「溶接棒。中心の金属が溶けて、接合部分へ加わる」
「周りの灰色は?」
「被覆材だ。溶けた金属を空気から守り、作業後は表面へスラグとして残る」
「それを槌で落とすのか?」
「よく分かったな」
「鍛冶でも、表面の不純物は落とす」
「考え方は似ている」
ニナはしゃがみ込み、溶接機の外観を見ている。
「穴、いっぱい」
「放熱口だ。塞ぐな」
「水、だめ」
「絶対に濡らさない。雨の日は使わない。濡れた手でも触らない」
「線、傷、見る」
「ああ。ケーブルの被覆が破れていたら使用中止。アースも作業する金属へ確実につなぐ」
「つながないと?」
「電気が流れる経路ができず、溶接できない。接触が悪いと火花や発熱の原因になる」
ニナの質問が止まらない。ドランはガスボンベの方を見ていた。
「こちらはプロパンガスと同じ容器か」
「酸素と燃料ガスだ。倒れないよう台車へ鎖で固定する」
「横へ寝かせぬのか?」
「基本は立てて固定。使用しない時はバルブを閉じ、保護キャップを付ける。熱源から離し、専用の保管場所へ置く」
「同じ場所へ置く?」
「常設時は分離して保管する。今後、鍛冶道具用の専用コンテナ倉庫を作る予定だ」
「鍛冶場を作るのか!」
ドランの声が大きくなった。
「仮設だ。ここに単管パイプで屋根を組む。ポリカ波板で屋根と一部の壁。溶接区画は遮光防火カーテンで囲う」
「炉は?」
「今回は溶接と切断設備が中心。火床や鞴は、ボルガたち職人が来てから相談する」
「なら、わしも手伝うぞ」
「頼む。3日くらいで仮設鍛冶場にする」
ニナが顔を上げた。
「ニナも」
「まず今日は見学だ」
「明日は?」
「今日の様子を見て決める」
「明後日は?」
「先に進みすぎだ」
「3日で、できる」
「工期だけは覚えるのが早いな」
◇
試運転場所を整える。ロクが周囲の草刈り機で草を刈り、リーファが森側と風向きを確認する。
マリベルも溶接作業で起こり得る、怪我防止や応急処置を検討する観点で立ち会う。救急ポーチを持ち、少し離れた見学位置へ立つ。
「火傷の場合は、まず流水で冷やします」
「ああ。ただし衣服へ溶けた金属が付着していたら、無理に剥がさない」
「目の異常もすぐ知らせてください」
「溶接光を見たあと、時間が経ってから痛みが出ることもある。見学者全員へ遮光保護具を使わせる」
ユキ、ミーシャ、トト、こびゃっこ、その他全員は、単管パイプで組んだ衝立に、黄色のビニールフィルム製遮光カーテンを張った外側で見学。
ニナとドランは、俺から十分な距離を取り、見学用遮光面を持つ。
「全員、説明するぞ」
俺は溶接面を上げたまま言う。
「作業開始前に、周囲へ人がいないか確認する。燃える物を置かない。火花は思ったより遠くへ飛ぶ。溶接中の光を、裸眼で見ない」
「まぶしい?」
ユキが尋ねる。
「太陽を近くで見るような、強い光だと思ってくれ」
「みない」
「火花が出ている間は、カーテンから顔を出さない」
「こびゃっこも?」
「特にこびゃっこ」
「名指しの規則が増えてゆくのじゃ!」
「これまでの実績だな」
発電機を水平な場所へ置く。周囲に十分な排気空間を取り、排気口を人や建物へ向けない。燃料とオイルを確認。アーク溶接機を接続する前に、発電機の出力容量と配線を確認する。
「始動する」
発電機のエンジンが掛かる。低い音が、倉庫裏へ響いた。ユキが両手で耳を軽く塞ぐ。
「うるさい」
「今日は試運転だからな。常設時は、防音と換気を考えた発電機置き場を作る」
「屋根の外?」
「排気ガスが溜まらない場所だ」
アングル鋼材の端材を溶接作業台へ置き、クランプで固定する。表面の錆と汚れを落とす。接合面を合わせ、アースクリップを確実に取り付ける。
「これから仮付けする。ニナ、遮光面」
「ある」
「ドランも」
「分かっておる」
「ほかの全員はカーテンの外」
自動遮光面を下ろす。溶接棒をホルダーへ取り付け、角度を確認する。一度呼吸を整え、棒先を金属へ軽く接触させ、少し引く。
バチッ。
白青色の強烈な光が生まれ、火花が周囲へ散った。ユキたちの側から、小さな声が重なる。
「おおっ!」
溶接棒を一定の距離へ保ち、接合線に沿ってゆっくり動かす。金属が溶け、溶接棒の芯材が加わり、細い溶接ビードが形成される。
数秒で止める。光が消えても、すぐには触らない。
「終わり?」
ニナが尋ねた。
「まだ熱い。見た目が暗くなっても、温度は高い」
少し冷ましてから、チッピングハンマーで表面のスラグを叩く。灰色の殻が剥がれ、下から金属の接合部が現れた。
ドランが遮光面を上げ、近づける距離まで許可を待つ。
「来ていいぞ。ただし触るな」
ドランは溶接部へ顔を近づけた。
「本当に、鉄が一つになっておる」
「接合が悪ければ、中に欠陥が入る。見た目だけで判断できないこともある」
「炉へ入れず、槌で打たず、ここだけを溶かしたのか」
「ああ」
「速い」
「鍛造や鍛接を全部置き換えるものではない。向き不向きがある」
「それでも、枠や架台、屋根の骨組み、金具を作るには便利じゃ」
「だから道具掛けに使おうと思った」
ニナは溶接部をじっと見ている。
「火花、きれい」
「きれいだが、危険だ」
「鉄、つながった」
「ああ」
「もう1回する?」
「次はガス溶接だ」
燃料ガスと酸素のボンベを確認する。調整器。ホース。逆火防止器。接続部の漏れ検査。バルブを急に開かず、規定どおりゆっくり操作する。
「火を付ける前に、必ず漏れを確認する」
「におい?」
ニナが尋ねる。
「臭いだけに頼らない。専用の検査液を接続部へ塗り、泡が出ないかを見る」
「泡、出たら?」
「使用中止。火を付けない。バルブを閉め、原因を直す」
「ニナ、見る。触らないで記録する」
「今はそれでいい」
トーチへ点火し、炎を調整する。黄色い炎が、酸素を加えると短く鋭い青白い炎へ変わった。
「火の色が変わった」
トトがカーテン越しに言う。
「燃える状態が変わったんだ」
薄い鋼板の端を加熱する。赤くなったところへ溶加棒を送り、ゆっくり接合する。アーク溶接より時間は掛かるが、炎と溶け方が目で追いやすい。
「鍛冶場の火に近い」
ドランが言う。
「だが、ずっと小さく、熱を当てる場所が狭い」
「薄い物や細かな修理に向く」
「曲がった金具を温めて直すのにも使えるな」
「その通りだ」
最後にガス切断を試す。少し厚みのある平鋼を作業台へ固定し、下へ火花受けを置く。
「今度は切る。火花が下へ大きく飛ぶから、絶対に近づくな」
鋼材を予熱する。切断温度へ達したところで酸素レバーを押す。激しい火花とともに、赤熱した金属が下へ吹き飛び、切断線が進んでいく。火花受けシートへ、細かな赤い粒が降った。
「鉄が……切れた」
アルノが呟いた。
「鋸ではないのですね」
「燃焼を使っている」
切断を終え、トーチを止める。切断面は荒い。必要ならグラインダーで整える。ニナは、アーク溶接の時以上に前へ身を乗り出していた。
「規制線から出るな」
俺が言うと、ぴたりと止まる。
「出てない」
「気持ちが3歩くらい出てる」
「ニナ、これ、やりたい」
「……そう言うと思った」
「道具作ったり、鉄を切ったり、つないで直したい」
「危険な作業だ」
「分かってる」
「分かっているだけでは足りない。火傷は一瞬だ。光で目を傷める。煙も吸う。感電もある」
「教えて」
「ニナ」
「教えて」
いつもの無表情な声だった。だが、普段の「べんり」や「やりたい」とは違う。短い言葉の奥に、はっきりした何かがあった。ドランも、それに気づいたらしい。ニナの横顔を見つめている。
「なぜ、そこまでやりたい?」
俺は尋ねた。ニナは、溶接されたアングル鋼材を見たまま答えた。
「お父さんの仕事と、似てる」
周囲の空気が変わった。ニナが自分から父親の話をしたのは、初めてだった。
俺はこれまで、子供たちやリリア、アルノの過去を、こちらから聞かないようにしてきた。話したくないことを無理に話させる必要はない。現在、安全に暮らせているなら、まずはそれでいい。過去を知ることが、その人を理解する唯一の方法ではない。
だが、本人が話そうとしているなら、聞く。
「お父さんは、鍛冶師だったのか?」
ニナは、小さく頷いた。
「レイシスで、鍛冶屋」
ドランの眉が動く。
「レイシス皇国で、ドワーフが鍛冶屋を?」
「おることは、おる」
ドランが静かに答えた。
「亜人を蔑む国でも、ドワーフの鍛冶技術は必要とされる。武器、鎧、農具、鉱山道具。人族だけでは足りぬ技術を、都合よく利用しておるのじゃ」
「父親の仕事を見ていたのか?」
「うん」
ニナは両手を胸の前へ出した。
「やっとこ、渡した。小さい金槌も。熱い鉄は、触らない。お父さんが言った道具だけ、渡す」
「好きだったんだな」
「好き」
間を置かずに返ってきた。
「火が、赤くなる。鉄が、形になる。お父さん、叩く。音で、分かるって言った」
ドランがゆっくり頷く。
「良い鍛冶師だったのだろうな」
「うん」
ニナの声は小さい。
「でも、お父さん、いない」
それ以上は続かなかった。俺は、急かさない。リリアもミーシャも、誰も口を挟まなかった。ユキは遮光カーテンの外側から、ニナを見ている。
「今日はここまでにしよう」
俺は言った。
「片付けて、火が残っていないか確認する」
「教えない?」
「教えないとは言っていない」
ニナが俺を見る。
「ただし、条件がある」
「何?」
「今日すぐには触らせない。まず仮設鍛冶場を作って、安全設備を整える。そしてドランと俺が、教え方を決める」
「それから?」
「ニナがまだ話をしたいことがあるなら、聞く」
「話したら、教えてくれる?」
「話すことを条件にはしない」
俺は首を横に振った。
「過去を話したから、危険な作業をさせるという取引にはしない。教えるかどうかは、安全にできるかで決める」
「でも、ニナ、やりたい」
「分かってる」
「一番、やりたい」
今度は、はっきり言った。
「これが、ニナの仕事」
7歳の子供が、自分の仕事を決めるには早いのかもしれない。だが、年齢だけで気持ちを否定するのも違う。
俺は溶接したアングル鋼材を見る。火花を出せたことより、安全に止められること。金属をつなげることより、異常を見て手を離せること。技術より先に、危険を理解することなど条件は多い。
「明日、仮設鍛冶場の場所を測る」
「うん」
「ニナは測量と配置図をやってくれるか」
「うん」
「溶接を教えるかは、準備をしながら決める」
「分かった」
返事はした。だが、目はもう、仮設鍛冶場の完成後を見ている。
◇
片付けは、試運転より時間を掛けた。ガスボンベのバルブを閉め、ホース内の圧力を抜く。調整器の状態を確認。トーチが十分に冷えたことを確認。アーク溶接機の電源を切り、発電機を無負荷運転してから停止。そしてケーブルの傷と発熱を確認。
切断した金属や溶接した部材は、触れる温度まで下がるのを待つ。火花が飛んだ範囲を、ロクとリーファが確認する。草、シート、鉄板の下。火種が残っていないかを見る。
「異常なしっす」
「森側も煙はないわ」
「30分後に、もう一度確認する」
「作業が終わっても、すぐ離れないのね」
リーファが言う。
「火花は見えない場所へ入ることがあるからな、終わった直後に何もなくても、後から煙が出る場合がある」
「鍛冶場でも同じじゃ」
ドランが頷く。
「炉の火を落としても、炭や床へ熱が残る。最後に見回る者が必要になる」
「仮設鍛冶場では、終了確認表を作ろう」
ニナがメモ帳へ書いた。
「火。ガス。電気。熱い鉄。床。壁。煙」
「消火器と水も確認」
「書く」
「それから、作業者の体調。目が痛くないか、手に火傷がないか」
「書く」
こびゃっこがカーテンの外から声を掛ける。
「撮影機材の確認も必要じゃ」
「今日は撮ってないだろ」
「脳内記録じゃ」
「記録媒体が信用できない」
「千年の記憶力を侮るでない」
「昨日の昼食を覚えてるか?」
「……肉があったのう」
「何の肉だ」
「美味い肉じゃ」
「やっぱり信用できない」
ユキがこびゃっこを抱き上げる。
「こびゃっこ、みてただけ」
「監督業務じゃ」
「ユキも、みてた」
「白狐神は安全監督じゃ」
「こびゃっこは?」
「記録監督じゃ」
「カメラない」
「心のカメラじゃ」
「こびゃっこ、くちだけ」
「白狐神の評価が急に厳しくなりおった!」
夕方、再確認。火や煙の異常はなかった。溶接機器は、まだ倉庫内へ入れない。ガスボンベは仮の屋外保管区画へ立て、鎖で固定。雨除けと直射日光対策をしたうえで、周囲を立入禁止にする。
発電機は燃料を確認し、専用カバーを掛ける。明日から、倉庫裏へ仮設鍛冶場を作る。
工事用鉄板。単管パイプ。ポリカ波板。遮光防火カーテン。換気。発電機置き場。ガスボンベ保管区画。鍛冶道具用コンテナ倉庫。
作るべきものが増えた。だが、今回は俺が思いついて勝手に増やした設備ではない。ニナが望み、ドランが必要性を認め、今後来る職人たちも使う場所になる。
「おっちゃん」
「何だ?」
「ひばな、きれいだった」
「ああ」
「でも、見たら、だめ」
「専用の遮光面越しならな」
「ニナ、できるの?」
「まだ分からない」
「できるように、する?」
「安全にできる方法があるか、一緒に考える」
「うん」
ユキはニナの手を取った。
「ニナ、ひばなのひと?」
ニナは少し考える。
「まだ」
「これから?」
「うん」
「むれ、おなじ。でも、おしごと、ちがう」
「ニナ、鉄の仕事」
「おっちゃんは?」
「また何でもだろ」
「ひばなけいの、なんでも」
「何でもの系統分けが止まらない」
ニナは、今日初めて溶接したアングル鋼材を見ている。
不格好な短い溶接線。俺もスキル知識を初めて使ったため、完璧とは言えない。だが、2本の鉄は確かにつながっていた。
ニナの過去と、これからの仕事も、そんなふうにつながるのだろうか。
無理に引っ張れば壊れる。熱を掛けすぎても、部材を傷める。必要な場所へ、必要なだけ。状態を見ながら、急がずにつなぐ。
明日から3日間で、仮設鍛冶場を作る。そして、その間にニナが話したいことを話すなら、俺たちは聞く。
その先で、火花の仕事を教えられるか決めよう。殺意ではなく段取り。怒りが生まれる話を聞くことになるとしても、まずはニナの言葉を受け止める。
夕暮れの倉庫裏には、溶接でつないだ小さな鉄の枠が残っていた。道具掛けの最初の部品。そして、ニナが初めて自分から「一番やりたい」と言った仕事の、最初の形だった。
◇
【第78話・収支報告】
異世界生活63日目
日付:五の月22日
オリエント王国歴952年
開始残高:3,278,276pt
今回の購入:
・インバーター式アーク溶接機、溶接ケーブル、ホルダー、アースクリップ
900pt(約90,000円)
・ガス溶接・切断器一式、酸素・燃料ガスボンベ、調整器、逆火防止器、専用台車
1,450pt(約145,000円)
・溶接作業用専用発電機、接続ケーブル
2,600pt(約260,000円)
・自動遮光溶接面、見学用遮光面、防炎作業服、革手袋、革前掛け、腕カバー、脚絆
420pt(約42,000円)
・溶接作業台、固定クランプ、火花受け鉄板、アース用金属板
240pt(約24,000円)
・溶接棒、溶加棒、切断火口、検査液、研磨材等消耗品
160pt(約16,000円)
・遮光防火カーテン、火花受けシート、追加消火器
80pt(約8,000円)
今回支出合計:5,850pt(約585,000円)
現在残高:
3,278,276pt − 5,850pt = 3,272,426pt
円換算目安:
3,272,426pt × 100円 = 約327,242,600円相当
続く




