第72話 白狐神、日本を鑑賞する
翌朝。目を覚ますと、俺の右腕にはユキが抱きつき、胸の上にはこびゃっこがうつ伏せで寝ていた。
いつもの配置だが、こびゃっこの前足には、白い布が握られていた。細長く折った布へ、黒い文字で何かが書かれている。
「……何だ、これは」
俺が布の端をつまむと、こびゃっこが薄目を開けた。
「むにゃ……映写主任じゃ……」
「いつのまに…作ったのか?」
「役職には、たすきが必要じゃろう」
「そう思って裁縫道具は収納したんだが」
「確認が甘かったのう。リリアの裁縫箱から、針と糸。それから端切れを少々借りた」
「無断で持ってきたのか?」
「借用じゃ」
「許可は?」
「返却時に得る予定じゃ」
「まったく。それは借用じゃなくて無断持ち出しだ」
白い布には、黒い文字で『映写主任』と書かれていた。
文字は読める。読めるのだが、最後の『任』だけ妙に細長く、虫がひっくり返ったような形になっている。
「夜中に縫ったのか?」
「うむ。びゃっこは器用じゃからの」
「リリアの裁縫針を使って?」
「うむ」
「暗い部屋で?」
「ユキの尻尾の神々しい光を頼りにのう」
「光ってないぞ」
ユキの尻尾は大きくて白いが、発光機能はない。
「……ベッドの下でランタンを灯したのじゃ」
「話を盛り上げるな」
「おっちゃん……」
俺の腕へ抱きついていたユキが目を開けた。
「おはよう」
「おはよう。まだ寝ていてもいいぞ」
「にほん、みる」
「朝食のあとだ」
「いま、あさごはん?」
「起きたばかりだ。まず顔を洗う」
ユキは少し考え、俺の胸の上にいるこびゃっこを見た。
「こびゃっこ、たすき」
「映写主任の正装じゃ」
「えらい?」
「たいへん偉いぞ」
「リモコンは持たせないけどな」
「役職への弾圧が続いておる!」
俺は前足の先をワキワキさせているこびゃっこを持ち上げ、籐カゴの夜城へ戻した。
「それと、リリアに謝って端切れを正式にもらえ。針と糸を使ったことも報告だ」
「びゃっこは神使ぞ」
「神使でも道具を借りたら報告する」
「むう」
「むれ、おなじ。でもどうぐ、かりたらいう」
ユキが眠そうな顔で言った。
「その通りだ」
「白狐神からも追及されるとは……」
朝から、映写主任の権威は地に落ちた。最初から地上へ出てすらいなかった気もするが。
◇
朝食後。工事事務所の長机を壁際へ寄せ、テレビモニターの正面へ椅子を並べた。
昨日はカメラの試験と説明が中心だったため、全員がまとまって映像を見るのは今日が初めてになる。
俺が用意したのは、日本各地の風景を収録した観光DVDの五枚組だ。
神社仏閣。東京と大都市。鉄道と乗り物。山、海、湖、四季。暮らしと祭り。映像の年代は、俺がこの世界へ来る少し前。極端に古くもなく、新しすぎもしない。
こびゃっこが知っている昭和後期から平成初期よりは、かなり先の日本になる。
画面の正面にはユキ、ミーシャ、トト、ニナ。その後ろにリリア、アルノ、マリベル、ロク、リーファが座った。
ミミとクロメは事務所の外だ。中へ入れると、全員が画面を見るどころではなくなる。こびゃっこが背中へ乗り、映写主任入場式を始める可能性が高い。
「では、上映に先立ち、映写主任より挨拶を――」
「こびゃっこ。座れ」
「まだ何もしておらぬぞ」
「モニターの前に浮いてる」
白いたすきを掛けたこびゃっこが、画面中央へ浮いている。
「主演者の挨拶じゃ」
「お前は収録されてない」
「日本代表として――」
「座れ」
ユキがこびゃっこを両手で捕まえ、自分の膝へ載せた。
「こびゃっこ、みるひと」
「映写主任じゃ」
「りもこん、ない」
「肩書だけでも守らせてほしいのじゃ」
ニナの手元には、昨日から続く撮影管理台帳とは別に、映像視聴用のメモ帳がある。俺が渡したものではなく、自分で用意したらしい。
「ニナ、今日は操作の練習じゃないぞ」
「見て気になったもの、書く」
「それならいい。画面ばかり見続けて目が疲れたら休むこと」
「わかった」
トトはスケッチブックと色鉛筆を膝に載せている。
「トトも、全部描こうとしなくていいからな。気になったものだけでいい」
「トト、とりい、かいて」
「まだ鳥居が出るとは限らないぞ」
「いっぱい、でる」
ユキが確信している。昨日、俺が数え切れないほどあると言ったからだろう。
「最初は神社と寺の映像にする。全部を一度には見ない。途中で休憩を入れる」
「なぜじゃ。五枚すべて続けて見ればよいではないか」
「何時間座らせる気だ」
「テレビとは、一日中見るものではないのか?」
「昭和の休日みたいな発想をするな」
「土曜の昼には再放送を見るのじゃ」
「この世界に土曜日はない」
「日曜の朝には子供番組じゃ」
「日曜日も放送もない」
「そして夜には時代劇じゃ」
「観光DVDをテレビ番組表にするな」
俺はリモコンで入力を切り替え、DVDプレーヤーの電源を入れた。画面にメーカーのロゴが現れる。それだけで、子供たちの背筋が伸びた。
「くろい、いた、おきた」
ユキが小声で言う。
「まだ本編じゃないぞ」
ディスクトレイを開き、神社仏閣編の円盤を置く。ニナが昨日教えた内容を確認するように、俺の指先とトレイの向きをじっと見ている。
「金いろ、さわらない?」
「DVDは記録面を触らない。端と中央の穴を持つ」
「SDと、ちがう。でも、さわらない」
「そうだ」
トレイを閉じる。短い読み込み時間のあと、画面に日本地図が現れた。
「島の地図?」
リーファが尋ねる。
「ああ。これが日本だ。俺がいた国だ」
細長い列島を見て、アルノが目を細める。
「大陸ではないのですね」
「大小の島が集まった国だ。北から南まで長い。地域によって気候もかなり違う」
「ヒカルさんは、どの辺りに住んでいたんですか?」
リリアに聞かれ、俺は画面の中央付近を指した。
「この辺だ。正確な場所は、この映像には出ないと思う」
「おっちゃんの、おうち、ない?」
「たぶんな」
「こびゃっこの、おうちは?」
「びゃっこは全国を股にかけた神使じゃからの」
「原宿と笠間稲荷の話しかしてないだろ」
「伏見にも行ったことはあるぞ。宇迦之御魂神へ仕える神使として当然じゃ」
「それは初めて聞いた」
「聞かれなかったからの」
映像が始まった。朝霧の中に、朱色の鳥居が現れる。静かな笛の音とともに、参道を歩く人々、手水舎、拝殿、御神木が映し出された。
ユキが息を止める。大きな白い耳が、ぴんと立った。
「とりい」
「ああ」
「おおきい」
「湖畔の鳥居より、ずっと大きなものもある」
「ひと、いっぱい」
画面の中では、参拝者が列を作っていた。鳥居の前で一礼し、参道の端を歩き、手水舎で手と口を清めている。
「みんな、かみさまに、あいにいく?」
「お願いをする人もいるし、お礼を言いに来る人もいる。新しい年の挨拶や、子供が育ったことを報告する人もいる」
「にく、あげる?」
「どうだろう?神社による」
「からあげは?」
「普通は供えない」
「かみのにく、なのに」
「ユキの中だけの神事だ」
こびゃっこがユキの膝の上で腕を組む。
「昔は米、酒、魚、野菜、塩などが基本じゃ。稲荷社なら油揚げを供える者も多かったのう」
「いなりずし?」
「それも喜ばれる」
「主にお前がだろ」
「神使が喜べば神も喜ぶ。古来より、そのような循環で成り立っておる」
「食欲を信仰の仕組みに組み込むな」
画面が切り替わった。山の斜面を埋め尽くす、朱色の鳥居。伏見稲荷大社の千本鳥居だった。
「――いっぱい」
ユキの声が小さくなる。
「これが昨日話した千本鳥居だ」
「せんぼん?」
「名前はそうだが、実際にはもっと多い」
「もっと?」
「参道全体では、一万基ほどあると言われていた」
ユキは数を理解しようとしているらしい。両手の指を開き、閉じ、もう一度開いた。
「ユキの、ゆび、たりない」
「千本の時点で足りないな」
「おっちゃんの、ゆびも?」
「百人分あっても足りない」
「むれ、ぜんぶでも?」
「足りないな」
ユキは画面を見直した。鳥居の列の中を、人々が歩いていく。朱色の柱と黒い根巻きが、奥へ奥へと続いている。
「とりいの、みち」
「そうだな」
「どこまで?」
「山の上まで続いている」
「かみさまの、おうち、いっぱい?」
「鳥居一つ一つが家というわけじゃない。願いがかなった人や商売をする人が、感謝として奉納したものが多い」
「ありがとうの、とりい?」
「そう考えていい」
ユキはしばらく黙っていた。それから、自分の胸へ両手を当てる。
「ユキの、とりいも、ありがとう?」
「湖畔の鳥居は、ユキとこびゃっこのために建てた。戻ってきてくれてありがとう、これからも一緒にいよう、という気持ちは入っている」
「おっちゃんが?」
「ああ」
「むれも?」
「みんなの場所だからな」
ユキの尻尾が椅子の横で、ゆっくり揺れた。
「ユキの、とりい、ひとつ。でも、いっぱい」
「そう、数じゃない。数は一つでも、込めたものは多い」
「うん」
こびゃっこは何も言わなかった。いつものように自慢話を差し込むこともなく、画面の鳥居を見ている。
朱色の光が、黒い瞳に映っている。次に映ったのは、狐の像だった。巻物をくわえた狐。鍵をくわえた狐。宝珠や稲穂を持つ狐。ユキが膝の上のこびゃっこと、画面の狐を交互に見る。
「こびゃっこ?」
「びゃっこではない」
「しんせき?」
「広い意味では同業者じゃな」
「職業で分類するのか」
「神使業界は広いのじゃ」
「この、きつね、うごかない」
「石像じゃからの」
「こびゃっこも、いしに、なる?」
「ならぬ!」
こびゃっこが立ち上がった。
「びゃっこの麗しさは、柔らかな白毛と愛らしい動きにこそ宿るのじゃ。石像では、このもちもち感が再現できぬ」
ユキが両手でこびゃっこの頬を挟む。
「もちもち」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
「おもち?」
「神々しい感触と言わぬか」
「非常食にはするなよ」
「誰が食べるのじゃ!」
「でも、にくじゃない」
ユキが冷静に評価した。
「食材として分析するでない!」
画面には、神社の祭礼が映った。提灯。屋台。浴衣姿の人々。神輿。笛と太鼓。子供たちが金魚すくいや綿菓子を楽しんでいる。
「おまつり?」
ミーシャが身を乗り出した。
「食べ物の店が、たくさんあります」
リリアも画面に見入っている。
「屋台だ。焼きそば、たこ焼き、綿菓子、りんご飴……祭りによって色々ある」
「ぜんぶ、たべれる?」
「腹を壊すぞ」
「こびゃっこなら可能じゃ」
「張り合うな」
「びゃっこは祭礼の間、巫女として働いておったからの。終わったあとに屋台を巡るのが楽しみであった」
祭りの夜景を見ながら、リーファが小さく笑う。
「こちらの歌劇場とは違うのね。観客と演者が分かれていないように見えるわ」
「祭りは見るだけじゃなく、参加するものだからな。地域によっては踊ったり、神輿を担いだり、山車を引いたりする」
「全員が役割を持つのね」
「そうだな。準備する人、料理を作る人、警備する人、楽器を演奏する人、片付ける人もいる」
「むれ、おなじ。でも、おしごと、ちがう」
ユキが言う。
「祭りにも適用できるな」
「ユキ、かんとく?」
「祭りで監督が必要かは知らないが、迷子にならない係が向いてる」
「ユキ、まいご、ならない」
「ユキを見失わない係もいるか」
「おっちゃん?」
「やはり俺か」
「なんでも」
「祭りでもなんでも扱いか」
神社仏閣編の前半が終わったところで、一度映像を止めた。
「休憩にする。目を閉じたり、外を見たりして、遠くへ焦点を合わせてくれ」
子供たちは椅子から降り、事務所の外へ出た。
晴れた湖面が光っている。遠くを見るという説明を聞いたユキは、双眼鏡を取り出そうとした。
「双眼鏡はいらないぞ。肉眼で遠くを見るんだ」
「にくの、め?」
「そのままの目だ」
休憩用に、りんごジュースと小さなクラッカーを用意した。
上映会だからといって、映画館のように大量の菓子を並べるつもりはない。午前中からこびゃっこへポップコーンを与えたら、昼食までに塩味、バター味、キャラメル味を要求される。
「なぜポップコーンがないのじゃ」
「早速こちらが予想していた事を言うな」
「映画にはポップコーンじゃろう」
「これは観光映像だ」
「映像である以上、上映文化を尊重すべきじゃ」
「クラッカーを食べろ」
「乾燥した板では心が踊らぬ」
「蜂蜜を少し塗ってあるぞ」
「いただくのじゃ」
切り替えが早い。こびゃっこは両手でクラッカーを持ち、端からかじり始めた。
「こびゃっこ、さっき、しずか」
ユキが聞く。
「何がじゃ?」
「とりい、いっぱいのとき」
「……昔を思い出しておっただけじゃ」
「かなしい?」
「悲しいとは違うのう」
こびゃっこはクラッカーを見下ろした。
「知っている場所が残っていることは、嬉しい。じゃが、びゃっこの知っている頃とは、歩く人も、建物も、時代も違う。懐かしいのに、同じ場所へ戻れるわけではない」
「こびゃっこ、かえれない?」
「今のびゃっこは、この世界の白狐神へ仕える守護神使じゃ。そもそも帰るつもりはない」
言葉は強い。だが、いつもの胸を張る調子ではなかった。
「それでも、懐かしいものは懐かしい。人の心とは、少々面倒じゃの」
「こびゃっこ、ひとのこころ?」
「神使の心じゃ!だが、人の心も理解しておるぞ」
「食欲は人以上だがな」
「今は真面目な話をしておるのじゃ!」
こびゃっこが俺を睨むが、わざと場を軽くしたのは気づいているらしい。ユキはこびゃっこを両手ですくい上げ、自分の胸元へ抱えた。
「こびゃっこ、いま、ここにいる」
「うむ」
「ユキも、ここ」
「うむ」
「おっちゃんも」
「ああ」
「むれ、ここ」
こびゃっこの前足が、ユキの服を少し掴んだ。
「そうじゃな」
「にほん、みても、ここ」
「うむ。映像は窓のようなものじゃ。覗いても、びゃっこの足はここにある」
「うん、あし、みじかいけど」
「大事なところで体形を指摘するでない!」
いつもの声が戻った。満足したユキは、残りのりんごジュースを飲む。
「ふう」
小さな息が漏れた。
「今のは何系じゃ?」
こびゃっこが聞く。
「にほんけい、びゃっこのためいき」
「新分類じゃな!」
「また分類が増えた」
◇
休憩後は、東京と大都市編を再生した。最初に映ったのは、高層ビル群だった。
ガラスと鉄の建物が空へ伸び、その間を大量の自動車が走っている。横断歩道では、信号が変わると同時に何百人もの人が動き出した。
事務所の中が静まり返る。神社の映像とは、沈黙の種類が違う。
「……ひと」
ユキが呟く。
「ああ」
「いっぱい」
「東京は人が多い」
「おまつり?」
「祭りじゃない。仕事や学校、買い物で移動している」
俺は画面を指した。
「この交差点は、信号が変わると大勢が一斉に渡る。車側と人側の動きを時間で分けている」
ニナがすぐにメモを取る。道路工事の際、ニナには信号の話をした事がある。
「赤、止まる。青、進む?」
「基本はそうだ。ただし、青でも周囲を見る。車や自転車が完全に止まったとは限らない」
「道路に、線、いっぱい」
「車線、停止線、横断歩道、進む方向を示す矢印。文字や標識も使う」
「幅は六メートル?」
「この映像の道路はもっと広い。片側だけで何車線もある」
ニナは画面の道路幅を見積もろうとしている。
「映像だけでは正確な寸法は分からないぞ」
「うん。大体の大きさ、くらべてる」
「それならいい」
高架道路。立体交差。トンネル。地下鉄の入口。駅前広場。映像が切り替わるたび、質問が飛んでくる。
「道が、空にある」
「高架道路だ」
「下にも、道」
「ああ」
「その下にも人が歩いておるぞ!」
「土地が足りないから、上や地下を使う」
「地中に街を作ったのですか?」
アルノが目を見開く。
「地下街や地下鉄はある。水道、電気、通信、排水の設備も地下に多い」
「地面の下へ、それだけの設備を……」
「便利だが、維持管理も大変だ。どこに何が通っているか記録しないと、工事のたびに事故になる」
ニナの鉛筆が止まる。
「台帳、いる」
「ものすごく重要だ」
「とうきょう、ニナいっぱい?」
「測量や設備管理をする人は大勢いるだろうな」
「どうぐのひと、いっぱい」
「一人に全部押しつけたら、都市が止まるからな」
「むれ、おおきい。おしごと、もっと、ちがう」
ユキが言う。東京を、一つの巨大な群れとして理解したらしい。
「そう考えると分かりやすい。食べ物を運ぶ人、建物を直す人、病気を治す人、道を守る人、ゴミを集める人。誰か一人だけでは暮らせない」
「おっちゃんは、なんでも」
「東京全部は無理だ」
「湖畔も、全部一人では無理です」
リリアが穏やかに言った。
「最近は、みんなに任せてるつもりなんだが、リリアに偉そうな事は言えなくなったな」
「つもり?」
ニナが短く言う。
「ニナ?」
「ヒカル、いつも先に、やる」
「……反省します」
七歳児の指摘が痛い。
画面は原宿へ移った。竹下通りを歩く若者。色鮮やかな服。看板。クレープ店。雑貨店。
こびゃっこが椅子から立ち上がった。
「原宿じゃ!」
「今度は画面の前へ飛ぶなよ」
「変わりすぎておる!」
こびゃっこは前へ行きたいのを我慢し、ユキの膝の上で足踏みしている。
「びゃっこの知っておる店がない! いや、道は同じか? あの角は……建物が違うぞ。あそこに喫茶店があったはずじゃ!」
「何十年前の話だ」
「びゃっこがモデルをしておった頃じゃ!」
「具体的には?」
「昭和の終わり頃から平成の初め頃じゃな」
「そりゃ変わる」
「若者の服も違う。なぜ皆、これほど自由なのじゃ」
「お前が見ていた竹の子族も、十分自由だっただろ」
「あれは踊って見せるための正装じゃ」
「原宿に関しては、今、普通に歩いている人が一番自由かもな」
画面に、巨大なクレープが映った。生クリーム、苺、バナナ、チョコレートソース。
こびゃっこの視線が固定された。
「そこは変わらぬのう」
「何がだ」
「原宿はクレープの都じゃ」
「都ではないと思うが」
「びゃっこも撮影のあとに食べたぞ」
「どんなの?」
ミーシャが聞く。
「苺と生クリームと、少しチョコじゃ。モデルゆえ、食べすぎぬよう注意されておったがの」
「守ったのか?」
「撮影前は」
「撮影後は?」
「仕事は終わっておる」
「守ってないな」
「明日の美貌は、明日のびゃっこが整える」
「その日の食欲を未来の自分へ押しつけるな」
ミーシャは映像のクレープを真剣に見ている。
「生地を薄く焼いて、折って包んでる。前に作ったものと同じ?」
「ああ。中身や包み方は色々ある。店で持ち歩きやすいよう、紙で巻いている」
「作れる?」
「材料はある。今度、食べ歩き用の包み方も練習しよう」
「うん」
「びゃっこは苺チョコ生クリーム大盛りじゃ」
「聞いてない」
「映写主任特典じゃ」
「役職は無給だ」
「待遇改善を要求する!」
原宿の次は、高層展望台からの東京の夜景だった。地上を埋め尽くす無数の灯り。道路を流れる赤と白の車列。窓明かり。鉄塔。遠くまで続く建物。
ユキは瞬きもせずに見ている。
「ぜんぶ、あかり」
「そうだ」
「むれの、あかり?」
「何百万人もの人が暮らしているからな」
「よる、こわくない?」
「灯りが多くても、怖いことがなくなるわけじゃない。ただ、帰る場所の明かりは見つけやすいかもしれない」
俺自身、東京の夜景を見て安心したかと言われれば、そうでもなかった。
人が多い場所ほど、一人になることもある。だが、今それを五歳の子供へ説明する必要はない。
「湖畔のあかり、ちいさい」
「東京と比べればな」
「でも、ユキ、わかる」
「何がだ?」
「あそこ、おうち。あそこ、みんな。あそこ、おふろ。あそこ、しょくにん」
ユキは事務所の外を指した。
「いっぱいじゃなくても、だれの、あかりか、わかる」
東京の夜景は美しい。だが、画面の中の一つ一つの窓に、誰がいるかまでは分からない。
湖畔の灯りなら分かる。食堂の灯り。住居の灯り。診療所。畑倉庫。職人宿。数は少ないが、どの灯りの下に誰がいるのか、俺たちは知っている。
「そうだな。湖畔の灯りは、顔が分かる灯りだ」
「かおの、あかり」
「それはちょっと変な表現だな」
「むう」
「誰を待っているか分かる灯り、でどうだ?」
「うん。まってる、あかり」
こびゃっこが画面を見たまま、小さく息を吐いた。
「ふう」
「びゃっこのためいき?」
ユキがすぐに聞く。
「これは……懐古系じゃな」
「新しい分類を自分で作るな」
「東京の変化を目にした神使の、歴史的なためいきじゃぞ」
「歴史には残らないがな」
「今からカメラを回すのじゃ!」
「再現映像になるだろ」
◇
昼食後。午後は鉄道と乗り物編を少しだけ見ることにした。
本来は翌日に回してもよかったのだが、ユキとニナがどうしても列車を見たいと言った。
午前中に十分休憩を挟み、昼食後にも外を歩かせた。午後は一枚全部ではなく、三十分だけにする。
映像が始まると、最初に新幹線が現れた。白い車体が、長い鼻先を先頭に高速で通過する。画面の中で風圧音が鳴った瞬間、子供たちが一斉に椅子へ背中を押しつけた。
「はやい!」
「新幹線だ」
「飛竜より速いのではありませんか?」
マリベルが尋ねる。
「飛べる竜の速さは分からないが、地上を走る乗り物としてはかなり速い。営業運転で時速三百キロ前後のものもある」
「さんびゃく」
ニナの鉛筆が止まった。
「一時間で、三百キロメートル?」
「そうだ」
「グイグイより?」
「比べる対象じゃない」
「ゴロゴロより?」
「圧倒的に速い」
「ツチノコより?」
「重機と速度勝負をさせるな」
ユキが目を輝かせる。
「むれの、なかま?」
「違う」
「はたらく?」
「働く機械ではある」
「ひと、はこぶ」
「ああ」
「むれ」
「大きな意味では社会の仲間だが、湖畔の群れには入らない」
「まだ」
「購入予定へ入れるな。線路から作ることになる」
「おっちゃん、なんでも」
「なんでもにも限界がある」
「ヒカルが一人で作り始めたら、自分が止めるっす」
ロクが真顔で言った。
「安心しろ。止められる前にポイントが尽きる」
駅のホームへ新幹線が入ってくる。黄色い線。ホームドア。乗客の列。駅員の確認。車内清掃。そして時間通りの発車。
ニナが画面へ食い入るように見ている。
「線、越えない」
「危ないからな」
「人、並んでる」
「乗り降りを早く、安全にするためだ」
「中の人、掃除はやい」
「短い時間で、担当を分けて作業している」
「むれ、おなじでも、おしごと、ちがう」
「今日だけで何回目だろうな」
「でも、たいせつ」
「それはそうだ」
続いて、都市の通勤電車が映った。何本もの線路。次々に到着する列車。ホームを埋める人々。こびゃっこが顔をしかめる。
「相変わらず、人を詰め込みすぎじゃのう」
「そこは昔と変わらない。朝夕は混む」
「今のびゃっこなら潰れるぞ」
「手のひらサイズで乗るな」
「昔は、これほどではなかった気がするのう」
「昔も混雑はあっただろ」
「びゃっこはモデルじゃったから、混む時間を避けておった」
「急に芸能人らしい話をするな」
「撮影場所へは事務所の車で送られることもあったぞ」
「本当にモデルだったんだな」
「今さら疑うでない!」
ローカル線の映像へ変わる。一両だけの列車。山と田畑。小さな駅。誰もいないホーム。先ほどの東京とは正反対だ。
トトがスケッチブックへ、線路の横に広がる田んぼを描き始めた。
「同じ国でも、こんなに違うのですね」
アルノが言う。
「都市もあれば、村もある。雪の多い場所、暖かい島、山の集落、海辺の町もある」
「おっちゃんの、おうち、どっち?」
「東京ほど大きくなく、この駅ほど小さくもない」
「まんなか?」
「だいたいな」
「にくのおみせは?」
「近所にあった」
「いい、おうち」
「家の評価基準が肉屋との距離になってるぞ」
画面には、田園地帯を進む列車が映る。遠くに山。川。小さな神社の鳥居。踏切で待つ人。手を振る子供。
その映像を見ていたユキが、ふと俺の服を掴んだ。
「おっちゃん」
「何だ?」
「にほん、かえりたい?」
事務所の中が静かになった。こびゃっこも、リリアたちも、俺を見る。いつか聞かれると思っていた質問だった。
映像を見せる以上、避けて通れない。俺は一度息を吸い、ゆっくり吐いた。
日本には、四十年分の記憶がある。働いた場所。暮らした部屋。よく行った店。
失敗。後悔。当たり前だと思っていた水道、電気、道路、病院。今になって初めて分かる便利さも多い。
帰れるなら、一度くらいは帰ってみたいと思うかもしれない。だが。
「懐かしいとは思う」
「かえりたい?」
「帰って前の暮らしを、そのまま続けたいかと言われたら、違う」
「どうして?」
「今は、ここにユキがいる。こびゃっこも、リリアたちもいる。畑も、道路も、橋も、まだ作りかけだ」
「グイグイも」
「重機も置いていけないな」
「むれ?」
「ああ。俺の群れは、ここにある」
ユキの耳が少し下がり、また立った。
「にほん、すき?」
「嫌いじゃない。生まれて育った国だからな」
「ここも?」
「もちろん好きだ」
「ふたつ?」
「二つを好きでもいいだろ」
ユキは考え込む。
「むれ、おなじ?」
「日本は群れというより、俺の昔の家だな。ここは今の家だ」
「むかしの、おうち。いまの、おうち」
「そうだ」
「むかし、なくならない?」
「映像を見たり、思い出したりすれば残る。忘れることもあるが、全部消えるわけじゃない」
「いまも、なくならない?」
「なくさないようにする」
それは保証ではない。この世界には神務院がある。シオンは連れ去られたままだ。レイシス皇国との問題も終わっていない。
俺たちが作った湖畔拠点が、永遠に安全だとは言えない。だからこそ、段取りをする。守るための道を作り、人を迎える場所を作る。記録も残し、逃げる必要があれば逃げられるようにする。
戦う必要があるなら、その前にできることを尽くす。殺意ではなく、段取りだ。
「ユキも、なくさない」
ユキが言った。
「何を?」
「おっちゃん」
「それは俺の台詞だ」
「こびゃっこも」
「びゃっこはそう簡単になくならぬぞ」
「よる、おっちゃんのかおで、ねる」
「それはやめろ」
「寝場所を失わぬための工夫じゃ」
「お前は籐カゴへ戻れ」
「夜城はユキの尻尾に攻め落とされるのじゃ」
「防衛力を強化しろ」
「大型改修費を要求する」
「蓋を被せるか?檻みたいになるが」
「びゃっこを囚人にするでない!」
重くなりかけた空気が、いつもの調子へ戻った。
画面の列車は、小さな駅へ到着している。乗客が降り、駅員へ切符を渡し、家族らしい人のもとへ駆けていく。どこの世界でも、帰る場所へ向かう人の姿は変わらない。
◇
上映を終えたあと、全員で椅子と机を戻した。DVDはケースへ収納し、番号順に並べる。
再生した神社仏閣編、東京と大都市編、鉄道と乗り物編には、使用済みの印を付けるのではなく、視聴日と視聴範囲を台帳へ記録した。途中までしか見ていない鉄道編は、次回どこから再開するかも書く。
「DVDも、台帳?」
ニナが尋ねる。
「絶対に必要というほどではないが、教材として使うなら記録した方がいい。どこまで見せたか、何を説明したかが分かる」
「勝手に、消えない?」
「DVDの映像は、普通に見ただけでは消えない。ただし、傷が付けば読めなくなる」
「端、持つ。使ったら、戻す」
「直射日光と高温を避ける。重ねて置かない。ケースを閉じる」
「わかった」
「ところで、こびゃっこ。リリアには謝ったのか?」
「……端切れの正式な譲渡を受けた」
「針は?」
「返した」
「謝った?」
「謝った」
「偉い」
ユキがこびゃっこの頭を撫でる。
「白狐神から褒められたぞ」
「当たり前のことをしただけだ」
「褒める時は素直に褒めるのじゃ」
「まあそうだな。ちゃんと報告して返したのは偉い」
「うむ」
「でも映写主任は認めない」
「褒めてから落とすでない!」
トトは今日描いた絵を机へ並べた。
千本鳥居。東京の高い建物。線路の横の田んぼ。三枚とも、写真のように正確ではない。
千本鳥居は、画面より柱が太く、一つ一つの間隔も広い。だが、奥へ続く感じがよく出ている。
東京の絵には、人より建物が大きく描かれていた。田んぼの絵では、列車よりも葉と水面が目立っている。
「しゃしんと、ちがう」
トトが言う。
「ああ」
「でも、トト、これ、みた」
「トトが大事だと思ったものが分かる絵だ」
「とりい、ずっとあって。東京、たかい建物。はっぱが、いっぱいあった」
「ああ。それできちんと伝わる」
ユキが三枚を順に見て、最後の田んぼの絵を指した。
「にほんも、はたけ」
「日本にも畑はある」
「トトと、おなじ?」
「育てている作物は違うかもしれないが、葉を見て、水を見て、虫を見て育てるところは同じだ」
トトは嬉しそうに、色鉛筆を箱へ戻した。
ニナのメモ帳には、建物の高さ、信号、車線、駅の安全線、ホームドア、列車清掃、地下設備などが並んでいる。観光映像を見せたはずなのに、半分は工事視察記録になっていた。
「ニナ、東京を作る気じゃないだろうな」
「作らない」
「よかった」
「でも道、べんり」
「参考にする程度にしてくれ。湖畔へ片側四車線はいらないが」
「地下、ほる?」
「掘らない」
「高架は?」
「作らない」
「新幹線は?」
「ユキと組むな」
ニナは無表情のまま、メモ帳の隅へ小さく書いた。
【シンカンセン、マダ。】
「『まだ』を付けるな」
こびゃっこが映写主任のたすきを整える。
「では次回は、暮らしと祭り編を上映するのじゃな」
「山と海も残っている」
「その前に、原宿クレープ再現会じゃ」
「予定へ勝手に挟むな」
「東京視察後の正式な復習じゃ」
「食べるだけだろ」
「味覚による文化研究じゃ」
ミーシャが少し手を上げた。
「紙で包むクレープ、練習したいです」
「ミーシャが作りたいなら、別の日にやろう。今日ではない」
「はい」
「苺チョコ生クリーム大盛りじゃ!」
「大盛りはしない」
「映写主任特別仕様!」
「役職は無給、特典なし」
「横暴じゃ!」
ユキが窓の外を見る。工事事務所からは、湖面の一部と、ユニットハウス住居区画の屋根が見える。
その南側の方には、小さな鳥居。映像で見た千本鳥居と比べれば、一つしかない。
東京の夜景と比べれば、夜の灯りもわずかだ。
新幹線と比べれば、バギーもグイグイも遅い。
それでも、ここには俺たちが作った道があり、橋があり、畑があり、帰る場所がある。
「おっちゃん」
「何だ?」
「にほん、まど」
「映像がか?」
「うん。くろい、いたの、まど」
「そうだな」
「ここも、にほんから、みえる?」
「今の日本から、こちらを見ることはできない」
「むう」
「でも、俺たちが映像を撮れば、湖畔の今は残せる。いつか誰かへ見せることはできるかもしれない」
「にほんに?」
「それは分からない。少なくとも、これから来る職人には見せられる」
「シオンも?」
不意に出た名前へ、全員の動きが止まった。ユキは窓の外を見たまま続ける。
「シオン、きたら、みる?」
「ああ」
「とりいも?」
「見せよう」
「東京も?」
「見せる」
「ユキの、どうろも?」
「それは映像じゃなく、本物を歩かせる」
「こびゃっこ、前、だめ?」
「撮影中はな」
「シオンへ向けた歓迎映像なら、びゃっこが冒頭で挨拶を――」
「三メートル離れろ」
「まだ撮影しておらぬ!」
笑いが起きた。シオンがどこにいるのか、無事なのか、いつ救い出せるのか、何も分かっていない。簡単な約束ではないが、ここに来た時に、見せるものを作ることはできる。
道路。橋。畑。祠。群れの姿。その日のために、記録を残しておく。
「次の道路工事から、本格的に撮影する」
俺が言うと、ニナがうなずいた。
「最初。杭。表土。グイグイ。砕石。ゴロゴロ。完成」
「安全確認も入れる」
「ロク、旗。リーファ、森。ユキ、かんとく」
「俺は?」
「なんでも」
「撮影されても扱いは変わらないな」
「こびゃっこは?」
「みてるひと」
「映写主任じゃ!」
ユキが笑いながら、こびゃっこを抱き上げた。
「こびゃっこ、にほん、みた」
「うむ」
「かえってきた?」
こびゃっこが、少しだけ目を丸くした。それから、ユキの腕の中で胸を張る。
「見る前から、びゃっこはここへ帰っておる」
「ここ、おうち?」
「ここが今のびゃっこの社であり、群れであり、帰る場所じゃ」
「うん」
ユキは満足そうに頷いた。黒いテレビモニターには、電源を切った事務所の中が、ぼんやり映り込んでいる。
日本の景色は消えた。
代わりに、椅子を片付けるリリアたち、絵を抱えるトト、台帳を書くニナ、映写主任のたすきを誇らしげに掛けたこびゃっこが映っていた。
映像の窓を閉じても、こちら側には群れが残る。
「おっちゃん」
「何だ?」
「ユキも、うつってる」
黒い画面の中に、俺の隣へ立つ小さな白狐神がいる。
「ああ」
「こっちにも、ユキ」
「昨日と同じだな」
「でも、きょうの、ユキ」
「そうだな」
昨日のユキでも、映像の中の日本にいる誰かでもない。今日、この場所にいるユキだ。
「おっちゃんも、きょうの、おっちゃん」
「毎日少しずつ疲れてるおっちゃんだ」
「なんでもけい?」
「今のは、ただの疲労だ」
俺が息を吐くと、こびゃっこが前足を上げた。
「日本映像鑑賞後、群れの安心を確認した際に発生する、帰郷系びゃっこのためいきじゃ!」
「勝手にややこしい認定するな」
「では、正式名称を募集するぞ」
「募集しない」
「ユキ、わかった」
「何がだ?」
「おうち系」
一瞬、誰も何も言わなかった。こびゃっこが、ゆっくりうなずく。
「うむ。おうち系じゃな」
「認定するのか」
「白狐神直々の命名ぞ」
「ただのため息だろ」
「おっちゃん、ちがう」
ユキが俺の服を掴む。
「ここにいる、ためいき」
まあ…それなら、悪くない。
「……そうか」
「うん」
日本を見るために開いた映像の窓は、最後に俺たちのいる場所を映した。
昔の家を忘れなくてもいい。今の家を選んでもいい。その両方を胸に持ったまま、明日も道を作ればいい。
「明日は、道路工事だ」
「ユキ、かんとく」
「ニナ、きろく」
「びゃっこは、撮影監督じゃ!」
「こびゃっこ、みるひと」
「なぜ最後だけ昨日から変わらぬのじゃ!」
事務所へ、今日最後の笑い声が広がった。
◇
【第72話・収支報告】
異世界生活59日目
日付:五の月18日
オリエント王国歴952年
開始残高:284,611pt
今回の購入:
・日本観光映像DVD五枚組
120pt(約12,000円)
今回支出合計:120pt(約12,000円)
現在残高:
284,611pt − 120pt = 284,491pt
円換算目安:
284,491pt × 100円 = 約28,449,100円相当
続く




