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スキル四十(しじゅう)の手習いで神獣幼女を養います  作者: ELWOOD CRAFTWORKS


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第69話 白狐神のためいき


 日が沈み始めると最初に、宿泊棟外階段のセンサーライトが反応した。俺が昇降口へ近づくと、踊り場上の灯りが点き、階段を白く照らす。


 続いて、敷地外周のポールライトが一基ずつ点灯した。

 南東。南西。東側。西側。北側。

 最終的に八本の小さな街灯が、新しい生活区画の輪郭を夜の中へ浮かび上がらせる。


 高さ一・八メートルの、既存の住居区画と同じアンティーク街灯風の形だ。少し離れて見れば、南の住居区画と北の職人区画に、二つの灯りのまとまりができている。その間を、三十メートルの草地と通路がつないでいた。


「おっちゃん」


「何だ」


「かえる、ばしょの、あかり」


「ああ」


 ユキは、最初の仮拠点へ帰ってきた時に見た、一本のソーラー式ポールライトを覚えていた。暗くなった湖畔で、あの灯りだけが帰る場所を示していた。


 今は一本ではない。住居区画にも、職人区画にも灯りがある。


「しょくにん、よる、かえっても、わかる」


「迷わず戻れるな」


「むれの、あかり、ふえた」


「そうだな」


 こびゃっこが、ユキの隣でふわふわ浮いている。


「灯りが増えるのは、よいものじゃ」


「こびゃっこも、そう思うか?」


「暗闇の中で長く過ごした者ほど、一つの灯りを忘れぬものじゃよ」


 いつものふざけた調子ではなかった。俺が返す言葉を考え終わる前に、こびゃっこは前足を上げる。


「さあ、点灯式は終了じゃ! 次はオムライス式典じゃ!」


「一瞬で戻ったな」


「腹が減っては感傷もできぬ」


 それも、こびゃっこらしい。


 ◇


 食堂タープの長机には、黄色いオムライスが並んでいた。


 リリアとミーシャが卵を焼き、俺がケチャップライスと仕上げを担当した。人数が多いため、全員分を同時には作れない。


 ケチャップライスは大きなフライパンでまとめて作り、卵は一人分ずつ焼く。


 子供用は少し小さめ。大人用は大盛り。こびゃっこの分は、ぬいぐるみの体格に合わせた小型だが、中身はしっかり詰めた。


「きいろい!」


 ユキが目を輝かせる。


「たまごのおふとん」


 ミーシャも自分の皿を覗き込んだ。


「赤いごはん、隠れてるよ」


「切ると出てくるぞ」


 トトが中央へスプーンを入れる。薄い卵が開き、中からケチャップライスが見えた。


「出た」


「やさいも、はいってる?」


「玉ねぎと細かく切ったニンジン、それに鶏肉だ」


「はたけの?」


「まだだ。これはショップの野菜」


「そだつまで、まつ」


「ああ」


 ニナのオムライスには、ケチャップで小さなハンマーを描いた。トトには野菜。ミーシャには猫の顔。


 ユキは白狐の顔にしようとしたが、ケチャップだけでは白狐にならないので、大きな尻尾を描いた。


「ユキ」


「しっぽだ」


「分かったか」


「おおきい」


「本人も大きいからな」


 こびゃっこのオムライスには、稲荷寿司の形を描いた。


「なぜオムライスの上に稲荷寿司なのじゃ」


「好きな物を描いた」


「そこは音符であろう!」


「そう言えば、音楽監督だったな」


「忘れておったのか!」


「稲荷寿司監督の印象が強い」


「正式な肩書を軽んじるでない!」


 ロクの皿には狼の牙。リーファには弓。リリアには花。アルノには本。マリベルには薬草。


 俺自身の皿へは、ニナがケチャップを持ってきた。


「おっちゃん、なに?」


 ユキが尋ねる。


「何も描かなくていい」


「なんでものひと」


「文字数が多い」


「これ」


 ニナがケチャップで、工具箱らしき四角を描いた。その上へ、ミーシャが家の屋根を足す。トトが横に野菜を描こうとして、赤い丸になった。


 ユキは大きな尻尾を加えた。最後にこびゃっこが前足で容器を押し、よく分からない波線を引く。


「何だ、これは」


「昭和歌謡の旋律じゃ」


「全く見えないんだが」


「心で聞くのじゃ」


 俺のオムライスだけ、工具箱と家と野菜と狐の尻尾と昭和歌謡が混ざった、意味不明の絵になった。


「なんでもの」


 ユキが満足そうに頷いた。


「全部入れればいいと思っているだろ」


「おっちゃん、ぜんぶ、するから」


 否定はできなかった。


「いただきます」


 全員で手を合わせ、スプーンを入れる。いただきますの習慣も、いつのまにか定着していた。


 ユキは最初の一口を頬張り、目を丸くした。


「たまご、やわらかい」


「中のご飯と一緒に食べるんだぞ」


「いっしょ、うんみゃあ」


 ミーシャも尻尾を大きく揺らしている。


「甘い卵と、赤いご飯が合う」


「リリアの卵が上手く焼けたからな」


「ヒカルさんが教えてくださった通りにしただけです」


「火を入れすぎないのが難しいんだ」


 トトは中の具を一つずつ確認していた。


「鶏肉。玉ねぎ。ニンジン」


「グリーンピースは入れなかった」


「あの緑の丸いの? どうして?」


「嫌いな子供が多いという、俺の世界の偏見だ」


「僕、食べられる」


「次は入れるか」


「うん」


 ニナはオムライスを切り開き、卵の厚さを見ている。


「同じ、薄さ」


「食事まで測らなくていいぞ」


「でも、きれい」


「冷める前に食べろ」


「うん」


 子供たちの飲み物は、いつものりんごジュースだ。甘くて飲みやすいため、今日も大人気だった。


 俺は自分の席へ座り、缶ビールを開ける。プシュッ、と小さな音がして、飲み口の周囲へ泡が立った。


 その音に反応し、ユキの狐耳がぴくりと動く。ユキは自分のりんごジュースと俺の缶を見比べてから、じっと缶ビールを見つめた。


「おっちゃん、それ、しゅわってする?」


「する」


「りんごじゅーす、しゅわ、ない」


「炭酸に興味があるのか?」


 ユキは真剣な顔で頷いた。


「しゅわ、のみたい」


 ミーシャも興味を示した。


「泡の飲み物?」


 トトも身を乗り出す。


「舌、痛い?」


 ニナは一言だけだった。


「試す」


「酒は駄目だぞ」


「しゅわだけ」


「分かっている」


 炭酸水そのものでは、異世界の子供には刺激が強いかもしれない。なら、微炭酸のオレンジジュースがいいだろう。


「びゃっこも飲むぞ!」


 こびゃっこがすぐに前足を上げた。


「こびゃっこは炭酸を知っているだろ」


「知っておるからこそ、味見が必要なのじゃ」


「何の確認だ」


「昭和の味が正しく再現されておるかじゃ」


「これは俺の時代の商品だ」


「細かいことを言うでない」


 俺はショップから子供用の微炭酸オレンジジュースを購入した。小さめのカップへ少量ずつ注ぐ。液体の中から細かな泡が浮かび上がるのを見て、ユキたちは顔を寄せた。


「いきてる?」


「生きてはいない。溶けていた空気が出てきているんだ」


「逃げてる」


 トトが言う。


「泡がのう」


 こびゃっこも自分の小さなカップを覗き込む。


「昔は、この泡を眺めておるだけでも、少し贅沢な気分になったものじゃ」


「昔も飲んでいたのか?」


「もちろんじゃ。原宿でモデルをしておった頃は、撮影が終わると皆で喫茶店へ行ったものじゃよ」


「原宿でモデル……」


 以前は聞いているはずなのに、ぬいぐるみ姿のこびゃっこから改めて聞くと違和感が強い。


「何じゃ。その目は」


「モデルをしていた姿と、今の姿がつながらないだけだ」


「俗世におった頃のびゃっこは、街を歩けば声を掛けられるほどの美少女じゃったぞ」


「自分で言うのか」


「事実を事実として語っておるだけじゃ」


 こびゃっこは胸を張った。


「撮影の後には、クリームソーダやレモンスカッシュを飲んだものじゃ。背の高い硝子の器に、氷と炭酸と、丸いアイスが乗っておっての」


「それ、あまい?」


 ユキが尋ねる。


「甘いぞ。上には赤いサクランボまで付いておった」


「たべたい」


「今度な」


「約束じゃぞ、ヒカル」


「お前もかい」


「原宿のモデルには、撮影後の甘味が必要なのじゃ」


「今はモデルではないだろ」


「現役を退いただけじゃ」


「引退したつもりなのか」


 リーファが、こびゃっこのぬいぐるみの体を上から下まで眺めた。


「神使様。今でもモデルを出来るのでは? 布玩具の」


「布玩具ではない! 白狐神に仕える高位神使じゃ!」


「音楽監督でもあるんでしょう?」


「うむ。肩書が多くて困るのう」


「心配するな。お前以外、誰も困っていない」


 こびゃっこは微炭酸オレンジを一口飲む。ぱちぱちと弾ける刺激に、白い耳がぴくぴくと動いた。


「うむ。これはこれでよい。しかし、ラムネも捨てがたい」


「ラムネも飲んでいたのか?」


「笠間稲荷神社で巫女をしておった頃、夏の祭りや大きな祭礼の後にの。手伝いの娘たちと一緒に飲んだものじゃ。初めて飲んだ時は、瓶の中のビー玉を、どうにか取り出せぬものかと眺めながら飲んだものじゃ」


「びーだま?」


 ユキが首を傾げる。


「瓶の口に丸い硝子玉が入っておるのじゃ。栓の代わりになっておって、飲む時には指で押し込む」


「なかに、落ちる?」


「落ちるぞ。飲む時に、ころころ鳴るのじゃ」


「とりたい」


「皆そう思うのじゃ。しかし瓶は店へ返さねばならぬ」


「返す?」


「昔は瓶を洗って、何度も使っておったからの。勝手に割ってビー玉を取り出せば、叱られる」


「こびゃっこ、とった?」


「と、取っておらぬ」


 こびゃっこは一度、目を逸らした。


「本当か?」


「……一度だけ、空き瓶を譲ってもらったことはある」


「取り出したんだな」


「割ったのは、びゃっこではないぞ。神社へ出入りしていた悪戯好きの小僧じゃ」


「止めなかったのか」


「びゃっこは、危ないからやめよと言ったぞ」


「その後は?」


「……一緒にビー玉を探したのじゃ」


「共犯だな」


「思い出は美しいままにしておくものじゃ」


 都合の悪いところだけ、昭和の色あせた写真のようにぼかすらしい。


「はらじゅくでも、かさまでも、しゅわ、のんだ?」


 ユキが聞く。


「飲んだぞ。原宿では洒落た硝子の器。笠間ではラムネ瓶。入れ物は違っても、しゅわしゅわは人を少し楽しくするのじゃ」


「しゅわ、えらい」


「うむ。祭りと撮影後の疲れを癒やす、優秀な飲み物じゃ」


「ただし、飲みすぎるなよ」


 俺は子供たちを見回す。


「一気に飲まない。ゆっくりだ」


「ゆっくり」


 ユキがカップを両手で持って飲んでいる。


「しゅわしゅわするから、びっくりするぞ。あんまり急いで飲むと――」



「けぷっ」



 言い終わる前に、ユキがやった。

 小さなゲップ。ユキは自分で驚き、目を丸くし、すぐに口を両手で押さえる。白い狐耳の内側まで赤くなった。今まで見たことのない、見事な恥ずかし顔だ。


 食堂タープに、短い沈黙が落ちた。

 そして、ミーシャが吹き出した。


「ユキ、けぷってした」


 トトも笑う。


「かわいい音」


 ニナが真顔で言った。


「しゅわの音」


 ユキの顔がさらに赤くなる。


「ち、ちがうの」


「違うのか?」


 俺が笑いをこらえて聞くと、ユキは何故か胸を張ろうとした。


「こ、これは……びゃっこのためいき」


 一瞬の沈黙。

 全員が耐えた。

 だが、無理だった。


 リーファが口元を押さえて笑う。マリベルも肩を震わせる。アルノまで顔を背けて笑っている。リリアは必死にこらえていたが、完全に目元が緩んでいた。


「びゃっこのためいきとな?」


 こびゃっこが確認する。


「う、うん」


「げっぷではなく?」


「ためいき」


「炭酸によって出たのに?」


「びゃっこの、ためいき!」


 ユキは強引に言い切った。


「なるほどのう」


 こびゃっこは前足を顎へ当て、もっともらしく考え込む。


「白狐神の体から、しゅわしゅわの幸福があふれ出した音ということか」


「そう! それ!」


 味方を得たユキが、勢いよく頷く。


「こびゃっこ。乗るな」


「よかろう。今のものを、炭酸系びゃっこのためいきと認定する」


「ゲップを認定するな」


「めでたい音ゆえ、神事として記録してもよい」


「神事の幅を広げるな」


 ミーシャが真似をする。


「びゃっこのためいき」


「ミーシャ!」


 ユキが抗議したその瞬間、ミーシャがオレンジジュースを飲みすぎたのか。


「けぷっ」


 今度はミーシャだった。ミーシャが固まる。猫耳がぴんと立ち、尻尾まで止まった。


「出たのう」


 こびゃっこが嬉しそうに言う。


「見事な炭酸系じゃ」


「ミーシャも、びゃっこのためいき!」


 ユキがすぐに仕返しをした。


「ち、違います!」


「ユキと、おなじ」


「同じじゃないです!」


「音は、ほぼ同じじゃったぞ」


「こびゃっこまで!」


 それを見ていて、トトが笑いかけたその時。


「けぷっ」


 今度はトトだった。トトもしばらく口を閉じたまま動かなかった。


「トトも」


 ユキが言う。


「……飲み物のせい」


「ユキも、飲み物のせい」


「ユキは、びゃっこのためいきって言った」


「トトも、びゃっこのためいき」


「僕、言ってないし」


 ニナは無言で三人を見た後、手元の微炭酸オレンジへ視線を落とした。


 一口飲み、しばらく待っている。


「ニナ。どうした?」


「確認」


 数秒後。


「けぷ」


 短い。実にニナらしい、必要最小限の音だった。


「ニナも!」


 ユキが指を差す。


「うん。出た」


「びゃっこのためいき!」


「記録する?」


「記録しなくていいから」


「記録項目は、炭酸量、飲んだ量、音の大きさかの」


「こびゃっこも研究を始めるな」


 ユキは、すっかり勢いを取り戻していた。


「みんな、びゃっこのためいき!」


「いや、びゃっこはユキだけじゃないのか」


「むれだから!」


「そういう理屈なのか」


「白狐神の群れで出た音なら、広義のびゃっこのためいきとしてよいであろう」


 こびゃっこが頷く。


「勝手に定義を広げるな」


「信仰とは、広がってゆくものじゃ」


「ゲップを信仰へ結びつけるな」


 子供たちはもう大笑いだ。ミーシャは顔を赤くして笑い、トトは耳をぴこぴこさせている。ニナは無表情に近いままだが、目が楽しそうだった。


 ユキは恥ずかしさをごまかすように、カップを掲げる。


「しゅわ、えらい。でも、ちょっと、あぶない」


「だから一気に飲むなと言ったんだ」


「ユキ、わかった」


「本当か?」


「たぶん」


「たぶんか」


「ラムネは、もっとしゅわしゅわするのじゃぞ」


 こびゃっこが余計な情報を加える。


「らむね、のみたい」


「今日のところは、これで終わりだ」


「むー」


「次に飲む時も少しずつだぞ」


「次はビー玉入りを希望するのじゃ」


「売っているか確認してからだ」


「クリームソーダもじゃ!」


「要求を増やすな」


 炭酸騒ぎが落ち着くと、子供たちは再びオムライスを食べ始めた。


 こびゃっこは、自分の皿を前にしばらく動かなかった。


「どうした。リクエストした本人が食べないのか?」


「眺めておる」


「冷めるぞ」


「昔、喫茶店で食べたものも、こんなじゃったのう」


「昔のオムライスも、薄焼き卵で包む形が多かったからな」


「赤と白の格子模様が描かれておった」


「ケチャップとマヨネーズか?」


「たぶんの。店主が毎回、違う模様を描いてくれた」


「原宿のモデル時代に通っていた店か?」


「そうじゃ。懐かしいのう」


 こびゃっこは小さいスプーンを前足で持ち、卵とケチャップライスを一緒に口へ運び、少しの間、無言で噛む。


「どうだ?」


「……うむ」


 また一口。


「悪くない」


「リクエストしたくせに偉そうだな」


「かなり、よいぞ」


 それからは、当時の思い出を噛み締めるかのように黙々と食べ始めた。


 ユキも、ミーシャも、トトも、皿の端へ残さず食べていく。


 ニナは一定の速度で食べている。卵とケチャップライスの比率を、毎回同じにしているようにも見えた。


 食事が進むにつれ、食堂タープの会話が少しずつ減っていった。皆、食べることへ集中している。


 やがて、ユキが最後の一口を飲み込んだ。空になった皿を見てから、椅子の背へ体を預ける。


「はふぅ……」


 小さな息が漏れた。今度は、炭酸のげっぷではない。腹が満たされ、全身の力が抜けた時に出る、満足そうな吐息だった。


 こびゃっこも皿を空にし、腹を上へ向けるように椅子へもたれた。


「ふぅぅぅ……」


 ユキが隣を見る。


「こびゃっこ、ためいき?」


「これは普通のため息ではない」


「さっきと、おなじ?」


「違うのじゃ」


 こびゃっこは、自分の腹を前足で撫でた。


「悲しい時や困った時に出るのが、普通のため息。先ほどのものは、炭酸に驚いて漏れた炭酸系」


「今のは?」


「美味いものをたらふく食べ、体の中から幸福があふれ出した時に漏れる、満腹系びゃっこのためいきじゃ」


「満腹系まで増えたのか」


「分類は大切じゃ」


「分類する必要がない」


 ユキは自分の腹へ両手を当てた。


「ユキも、びゃっこのためいき、でた」


「うむ。今のものこそ、本来のびゃっこのためいきにふさわしい」


「本来も何も、さっきユキが言い出したばかりだろ」


「よい言葉とは、生まれた直後から歴史を持つものじゃ」


「まだ十分も経っていないが」


「時間の長さは問題ではない」


 ミーシャが尋ねる。


「ミーシャもできる?」


「美味しく食べ、満腹で幸せなら誰でもよい」


「神使限定ではないのか」


「白狐神の群れへ広く普及させることにした」


「今決めたばかりなのに、もう普及を考えるな」


 ミーシャが背もたれへ寄りかかる。


「ふぅ……」


 尻尾がゆっくり揺れた。


「これでいい?」


「見事な満腹式びゃっこのためいきじゃ」


 トトも真似をする。


「はぁ……」


「おぬしのは、少し畑仕事に疲れた時のように聞こえるのう。もっと腹の底から幸福を出すのじゃ」


「難しい」


「ため息の指導をするな」


「息を吐くだけではない。心の中の幸福を、感情と言う音へ乗せるのじゃ」


「今度は、音楽監督らしくなったな」


「褒めの言葉はいらぬのじゃ!」


「いや、全然褒めていないから」


 ロクが食べ終えた皿を置いた。


「自分も腹いっぱいっす。ふうっす」


「ため息の語尾まで後輩キャラ付けなくていい」


「自分らしさっす」


 リーファとリリアも笑いながら、小さく息を吐く。アルノは遠慮がちに。マリベルは口元を押さえて。


 一人が始めると、食堂タープのあちこちから、満腹の吐息が漏れ始めた。


「何だ、この集団ため息は」


「びゃっこのためいきじゃ!」


 こびゃっこが胸を張る。


「今日というよき日に、職人宿へ灯りがともり、皆でオムライスを食べた。その幸福が形となっておる」


「ため息に壮大な意味を持たせるな」


「神事には、意味付けが必要なのじゃ」


「だから、神事にするな」


「おっちゃんも、する」


 ユキが俺を見る。


「俺はいい」


「おいしかった?」


「美味しかった」


「おなか、いっぱい?」


「まあな」


「しあわせ?」


 そこまで聞かれると断りにくい。

 新しい宿泊棟には灯りがともった。職人たちが帰ってきた時に使える風呂とトイレもある。


 子供たちはオムライスを喜び、初めての微炭酸に驚いて笑っている。


 こびゃっこは、原宿でモデルをしていた頃や、笠間稲荷神社で巫女をしていた頃の記憶を、今では笑って話している。


 悪い夜ではない。


「……ふう」


 息を吐く。


「おっちゃんも、びゃっこのためいき」


「ただの吐息だ」


「なんでも系として認定じゃ!」


「なんでも係から、人偏にんべんを取るな」


 皆が笑う。今日はまた、ここが少し家らしくなった。そして群れは、また一つ変な合言葉を手に入れた。


 びゃっこのためいき。

 たぶん明日も、誰かが言う。


 食堂タープの外では、職人区画の八本のポールライトが、暗い草地を静かに照らしている。


 外階段へ誰かが近づけば、センサーライトが点く。今夜、宿泊棟で眠る者はいない。それでも灯りは、誰かが帰ってくる日を先に待っている。


 ユキは満腹で眠そうな顔をしながら、こびゃっこの頭を撫でていた。


「こびゃっこ」


「何じゃ」


「また、おむらいす、たべる?」


「もちろんじゃ」


「また、びゃっこのためいき、する?」


「美味ければの」


「しゅわも、のむ?」


「次はラムネじゃ」


「びーだま?」


「うむ。ころころするぞ」


「おっちゃん、かう」


「俺に決定権はないのか」


「なんでもと、だんどりのひと」


「オムライスとラムネまで段取りへ入れるな」


「次は旗を立てるのじゃ」


 こびゃっこが言う。


「何の旗だ」


「ケチャップライスの山頂に立つ、白狐神旗じゃ」


「お子様ランチか」


「それじゃ!クリームソーダとデザートも付けるのじゃ」


「要求が増えているぞ」


「原宿のモデルセットメニューじゃ」


「そんなメニューはない」


「笠間の巫女セットメニューでもよい」


「どちらにしても、こびゃっこの食べたい物を並べているだけだろ」


「歴史と伝統を大切にしておるのじゃ」


「食欲を歴史と伝統で包むな」


 そんな話をしている間に、皆の食器は空になっていた。俺は立ち上がり、片付けを始めようとする。


 その時。


 食べ終えてからも背筋を伸ばし、無表情のまま座っていたニナが立ち上がったと思ったら、ワンテンポ遅れて口元へ手を当てた。


「けぷ」



【第69話・収支報告】


異世界生活56日目

日付:五の月15日

オリエント王国歴952年


開始残高:312,001pt


今回の購入


・なし


今回支出合計:0pt


現在残高


312,001pt − 0pt = 312,001pt


円換算目安


312,001pt × 100円 = 約31,200,100円相当


続く


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